第6話 心が張り詰めた朝に

 朝、博也がマンションの自室から作業所へ向かうために部屋を出ると、すでに何人もの住民がエレベーターの前で列を作っていた。

 このマンションは規模の割にエレベーターの台数が少なく、平日の朝はエレベーターに乗りたくても、上から降りてくる人達が多くて乗り過ごさなくてはいけないこともしばしば起きていた。

 博也が列の最後尾でエレベーター待ちをしていたその時、背の高い眼鏡をかけた男性が何やらブツブツ言いながら博也の後ろに並んだ。

 この男性、博也と出勤時間がほぼ同じぐらいのせいか、エレベーター待ちの際によく顔を合わせていた。ぱっと見た感じではどこにでもいるサラリーマンという感じであるが、とにかく独り言が多く、時折苛ついているのか、舌打ちをしたり、「ちくしょう」と周りの人達に聞こえるような声で怒りをあらわにすることもあった。

 しかし、エレベーターを待つ人たちは、絡まれることを恐れ、誰一人として彼をたしなめることはしなかった。

 ようやくエレベーターが到着した時、すでに満員状態であり、博也と背の高い男性は乗車できず、次のエレベーターを待つことになってしまった。


「はあ……よりによって」


 博也はため息をつき、思わず愚痴を口に出してしまった。


「よりによって、何ですか?」


 後ろに立つ背の高い男性は、博也の言葉をしっかり聞きとっていた。


「あ……い、急いでるのに、何で混んでるんだろうって思って、つい」

「本当ですか? 本心から言ってるんですか?」


 男性は眼鏡に手を当てながら、訝し気な表情で博也を睨んだ。


「ほ、本当ですって」

「噓はいけませんよ。わかってるんですからね。この僕をマンションの人達が危険人物だって怖がってることくらい。すでに僕の耳にも入ってますからね」


 焦る博也に対し、男性は凄い剣幕で博也を問い詰めた。その雰囲気には、尋常でない圧迫感があった。

 博也が言葉に詰まったちょうどその時、エレベーターが到着した。博也は慌てて飛び乗ると、男性もその後ろにぴったりとくっついたまま、エレベーターに乗り込んできた。

 エレベーターの中で、男性は博也の耳元で、脅迫めいた言葉を続けた。


「あなた、僕を誰だと思ってるんですか? 僕は、内閣府で総理大臣に近いポジションで働いてる寺村尚史てらむらなおふみといいます。立場上、警察庁を動かして、あなたを徹底的に吊るし上げることなんて、簡単なことですよ」

「そ、そうなんですか……アハハハ、それはすみません」

「おや、笑うなんて失礼ですね」

「い、いや、だから、その……」


 エレベーターの扉が開くと、博也は一目散に逃げだした。

 尚史は靴音を響かせながら、物凄いスピードで博也を追いかけ始めた。


「待ちなさい! 許しませんよ」


 博也は尚史に背中を掴まれ、その場に倒された。

 博也は必死に抵抗したが、尚史は手を離そうとしなかった。

 周囲にはエレベーターで同乗したサラリーマンや学生たちが遠くから様子を伺っていたが、誰一人救いの手を差し伸べてくれなかった。


「捕まえたぞ、これからあなたを警察に連れて行く。そして僕は、公安委員会を通して警察庁に対し、あなたを徹底的に処罰するよう指示を送る。この僕に言いがかりをつけ、侮辱した罪は大きい」


 博也は全身の力を振り絞って洋服から尚史の手を離れると、そのままピアノのあるロビーへと逃げた。


「ハハハハ、そんなところに逃げても無駄ですよ。そこは行き止まりです。もう逃げられませんよ」


 尚史は不気味な笑い声をあげながら博也を追いかけてきた。博也はピアノにたどり着くと、鍵盤に手を当てた。


「ほう、この期に及んでピアノなど弾くとは、随分余裕ですね。覚悟は出来てるんですね?」

「はい。あなたの言う通り、僕はあなたに何か無礼なことをしたかもしれない。だから、もうこれ以上逃げることはしません。これから一緒に警察に行きましょう。その代わり、最後にこのピアノで一曲だけ演奏させて欲しい。このマンションを出て行く前に、悔いが無いようにしていきたいんだ」


 そう言うと、博也は鍵盤の上を這うように指をなめらかに動かし始めた。

 ピアノは悲しげで浮遊感のある旋律をゆっくり優しく奏でた。


「なんて優しい曲なんだ。体が空中に浮き上がって、宙を舞っているみたいだ」


 尚史は目を閉じたまま、ずっと直立していた。

 その表情には、博也を追いかけていた時のような鬼気迫る雰囲気はなく、目じりを下げ、鍵盤の動きをじっと見つめていた。

 ピアノの音色は悲しく繊細であったが、張り詰めた心を解き放つ不思議な力を持っていた。


「何ていう曲なんですか?これは」

「坂本龍一さんのアルバム『ウラBTTB』に収録された『energy flow』という曲です。二十年前にテレビのCMとかでも使われた曲なんですが、聞いたことありますか?」

「知らないな。二十年前なんてまだ小学生だったからね」


 演奏が終わると、博也は椅子から降り、尚史を男性の前に差し出した。


「演奏が終わりました。もう悔いはありません。これから僕を連行するんでしょ?早く連れて行ってください」


 すると尚史は、差し出した両手を片手で思い切り払いのけた。


「今日はこれで許します。あなたの演奏を聴いてたら、さっきまで全身張り詰めていたものが急にほぐれたというか……とにかく僕はこれから仕事なんで、それじゃ」


 そう言うと、尚史は博也に背を向け、靴音を立てて歩き出した。そして、玄関前にたどり着いた時、再び博也の方向を振り向いた。


「ちなみに僕、内閣府に勤めてはいるけど、ノンキャリアなんで、警察庁に指示できるほどの身分じゃありません。立場上、キャリアから毎日仕事で無茶ぶりされて、心身共に疲れてたのかもしれないですね。それでは」


 そう言うと、尚史は眼鏡を片手で持ち上げ、照れ笑いを浮かべながら玄関から出て行った。

 尚史が去った後、遠くから見守っていた住民達から拍手が沸き起こった。


「すごい! あの男、些細なことにすぐキレて怒鳴りつけるから、みんな怖がって近寄らなかったんだよね」

「あの人、自分で中央官庁のエリートだって言ってたから、面倒くさいことに巻き込まれたくなくて、手をだせなかったのよ」

「あなたの勇気とピアノの演奏、素晴らしかったです。というか、ここにピアノがあることを気づかなかったよ。今度俺も何か演奏してみようかな」


 博也は鳴りやまぬ拍手と称賛に照れ笑いを浮かべたが、その視線は隣に立つピアノに向けていた。


「ありがとな。今回はお前に助けられたよ。あの男の人もきっとそう思ってるはず」


★★★★


 翌朝、出勤するため家を出た博也は、いつものように上階から降りてくるエレベーター待ちをしていた。その時、背後から誰かがコツコツと靴音を立て、ため息をつきながらゆっくりと近付いてきた。


「昨日はどうも」


 昨日、博也に襲い掛かった尚史は、相も変わらず不機嫌そうな顔で眼鏡をいじりながら、博也の後ろに立っていた。

 エレベーターの扉が開くと、尚史は博也の隣に入り、昨日のように、ささやくような声で博也に語り掛けてきた。


「ところで、お話したいことがあるんだけど」

「な、何ですか?やっぱり……許せないということですか」

「いや、あなたが演奏した『energy flow』っていう曲、この僕にも演奏を教えてほしくて」

「え?」

「ネットで探して原曲を聴いてみたけど、昨日あなたがあのピアノで弾いた方が耳に残っていてね。いつもあなたに演奏をお願いするわけにもにもいかないから、自分で弾けるようになりたいと思ってね」

「そ、そうですか……いつでもどうぞ」

「ありがとう」


 エレベーターが一階に到着すると、尚史はにこやかに手を振って、足早に玄関へと去っていった。


「あの曲、結構難しいんだよな。果たして上手く教えられるかな……俺」


 博也は不安な気持ちに襲われ、慌ててロビーのピアノに駆け込むと、「energy flow」を演奏した。するとピアノはまるで「大丈夫だよ、怖くないよ」と言わんばかりに、悠然と音を響かせていた。


「そうだな。あの人はきっと、お前の音で奏でる『energy flow』が聴きたいんだ。お前の音ならば、きっと納得してくれるよな」

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