第7話 我が子に捧げる曲

 平日日中の、人通りの少ないマンションのロビー。

 エレベーターの扉が開くと、ロビー中に響き渡る位の赤ん坊が泣き叫ぶ声が聞こえてきた。このマンションで暮らす奥野薫おくのかおるは、生後七か月を迎えたばかりの一人娘・リコを、長い髪を振り乱しながら、泣き止ませようと必死にあやしていた。


「リコちゃん、落ち着こうね。ママがいるから大丈夫だよ、ね」


 しかし、リコは泣き止もうとせず、それどころか泣き声が次第にヒートアップし始めた。


「もう! いい加減にしなさいよ! いつまでそうやって泣いてるのよ!」


 我慢の限界に達した薫は、リコをロビーのソファーに乱暴に置くと、両手を顔に当てた。赤ん坊はソファーの上で両手や両足をばたつかせ、咳き込みながら泣き続けた。


「どうすればいいのよ! 一体どうすれば、泣き止むの?」


 薫は首を左右に振り、げっそりとやつれた表情でリコが泣き続ける様子をただ見つめていた。


「もう毎日毎日、どうしてそんなに泣いていられるの?私の方が泣きたくなっちゃうよ」


 その時、誰かが薫の肩をそっと叩き、『どうしたんですか?』と尋ねる声がした。


「え? 誰なのあなたは?」

「このマンションに住む西岡っていう者ですけど」

「西岡さん?」

「はい、西岡友美恵といいます。最近ここに引っ越してきました」


 友美恵はにこやかな表情で薫を見つめると、薫は顔をしかめ、視線を逸らした。


「あなた誰? 同じマンションに住んでるのはわかりますが、見知らぬ私に突然声を掛けてきて。怪しいと思いませんか?」

「思いますけど、今のあなたを見てると、声を掛けずに通り過ぎるなんてできなくてね」

「ありがとう。でもあなたに何ができるんですか? 見てたでしょ? この子、ずっと泣き止まないんですよ、どんなにあやしても。ひどい時には一晩中、こんな感じなんですよ。もう私、どうしていいか分からなくって」


 うなだれる薫を見て、友美恵は薫の真向かいに座ると、リコを抱きかかえ、頭や背中を撫でながら優しく揺らした。


「ちょ、ちょっと! 何するんですか? 知らない人に突然抱かれたら、びっくりするじゃないですか!」


 リコは相も変わらず、友美恵の腕の中で叫ぶような声で泣き続けた。

 友美恵はリコの顔を見ると、微笑みかけ、全身を左右に揺らしながらゆりかごのようにリコを包み込んだ。


「ちょっと、いい加減にして下さいよ! 手を離さないなら、誰か人を呼びますよ、知らない人が私の子どもから手を離さないって」


 薫は金切り声で叫ぶと、友美恵の腕からリコを奪い取ろうとした。すると友美恵は、何も言わずリコを薫に引き渡した。


「ごめんなさいね。出過ぎた真似をして」

「ホント、出過ぎた真似してくれたましたよね。この子、泣き止むどころか猶更泣き声がひどくなったじゃないですか」

「赤ちゃんだけじゃなく、疲れてるあなたのことも放っておけないと思って……」

「余計な心配して下さらなくて結構ですよ」


 薫は優しく答える友美恵に対し、何が分かると言わんばかりに冷たく言い放った。

 友美恵はしばらく黙って色々案じていたが、やがて立ち上がり、ロビーの隅に置かれたピアノを開けると、椅子に座り、鍵盤に手を当てた。

 ゆったりと流れるような前奏から入ると、時々陽気に跳ねるような高音が響きわたり、それはまるで太陽の光を受けて輝く水しぶきのように明るくさわやかに感じた。


「何なのこの曲? 聴いてるうちに、心の中に重くのしかかってるものが少しずつ解かれていくように感じるんだけど……」

「リチャード・クレイダーマンの『渚のアデリーヌ』という曲です」

「アデリーヌ?」

「この曲の作曲者の娘さんの名前ですよ。当時まだ幼かった娘に捧げる曲だったんですって」

「そうなんだ……」


 薫はリコを抱きながら目を閉じ、楽曲をじっと聴き入った。

 あれだけ泣き叫んでいたリコも、演奏中は時々しゃくり上げながらも、まるで楽曲を聴き入っているかのように大人しくしていた。


「はい、演奏はこれで終わりです」


 そういうと、友美恵は椅子から立ち上がり、薫とリコに向かって微笑んだ。

 薫は軽く一礼したが、相変わらず訝し気な表情で友美恵を見つめていた。


「あなた一体誰? すごく上手に演奏していたけれど」

「私ですか? 夫はピアノ調律師をしていますが、私は普通の主婦ですよ」

「へえ、旦那さん、調律師なんだ。でも、あなたもすごく上手ですよね」

「まあ、音大でピアノを専攻して、ピアニストを目指して海外で少しだけピアノの勉強もしましたけど、遠い昔のことですよ。今は趣味半分で、友達の開いてるリトミックの教室のお手伝いをしてる位です」

「そうなんだ。道理で上手いわけですよね」

「いやいや、もう随分下手になったんですよ。あ、それとね、私……」

「え?」


 次の言葉を口にしようとした時、友美恵から突然笑顔が消えた。


「ど、どうしたんですか? 突然神妙な顔になっちゃって」

「私と主人の間には、一人息子がいたんです。わずか二年間だけでしたけどね」

「わずか二年間? ま、まさか……それって」

「そう。生まれてしばらくして治療困難な病気が分かって、長くは生きられなかったんです。でも、生きてる間は寝る間を惜しんで、全てを捧げて一生懸命世話しましたよ。この世に居る間は、幸せでいて欲しいと思ってね」

「……」

「息子がこの世を去ってから、私たちの間に子どもはいませんけど、今でも幼い子供を見かけると、出来ることを何でもしてあげたいって思うんです。今日も、この子を見てたら、何かできることがないかなって、ついフラっと……ごめんなさいね、驚かせちゃって」


 友美恵は苦虫を潰したような表情で全てを話し終えると、リコの身体にそっと手を触れ、「また会おうね。ママの言う事、ちゃんと聞くのよ」と言って、ロビーから立ち去ろうとした。


「ちょっと待って!」


 薫の鋭い声を聞いて友美恵は振り向くと、リコを抱いた薫がピアノの前に立ち、友美恵の顔をじっと見つめていた。


「もう一度さっきの曲、弾いてもらえますか?」

「いいですよ」


 友美恵は笑顔で頷くと、ピアノの前の椅子に腰かけ、そっと鍵盤に手を当てた。

 ピアノはいつものような優しい音色で、時には明るくきらめく水しぶきのように、時には川や潮の流れのようにおだやかに、『渚のアデリーヌ」の旋律を奏でた。


「リコ、笑ってるわ。きっとこの曲、気に入ったのね」


 薫は赤ん坊の顔を見ると、口元から白い歯を見せて微笑んだ。そして、アー、ウー、と喃語なんごをつぶやきながら微笑むリコの頭を撫でながら、薫は独り言を言うかのように語りだした。


「私の主人は今、単身赴任でしばらく福岡に行ってるんです。でも、いくら子どものことでLINEしても返答が無いし、あっても他人事みたいな答えしか帰ってこなくてね。実家は北陸で遠いし、近くにいる兄弟は仕事で忙しいし。おまけにこのマンションには誰も知り合いがいないから相談できる人がいないし。本当にもう、八方塞がりで……」


 すると友美恵は薫の肩に手を置いて、薫の瞳をじっと見つめながら語り掛けた。


「私に出来ることがあれば、何でも言ってくださいね。あなたとこの赤ちゃんの心の支えになれるのならば、私にとってこんなに嬉しいことは無いから」

「うん、ありがとう」


 薫は髪をかき分けながら、笑顔で頷いた。


「ねえ、リコちゃん、おばさんにまたあの曲、弾いてもらおうね」


 すると、リコは口元をほころばせながら「ア~」と言って手足をばたつかせた。

 まるで「渚のアデリーヌ」の旋律のように、明るくはじけるような笑顔を見せながら。

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