第8話 君のともだち

 夕方になると、マンションのロビーには学校帰りの子ども達でいつものようにごった返していた。同じマンション同士、仲良くなった子ども達もいれば、新しい環境に馴染めず一人暗い顔でエレベーターを待つ子どもの姿もあった。

 中学三年生の羽田千晴はねだちはるも、その一人であった。

 友達同士、クラスの話や恋の相談、受験勉強の話で盛り上がるのを傍で見ながら、千晴はうつむいたままエレベーターを降りた。

 自宅に帰ると、いつものように母親が夕食を用意してくれていた。


「ただいま」

「あら、おかえり。夕食できてるわよ」

「そんなに食べないから」

「何で? 最近どうしたの? 引っ越しする前は私が止めに入らないと止まらない位食べていたのに」

「昔の話、しないでくれる?」

「もう、一体何があったのよ?このマンションの中でも景色のいい部屋を買ったのに、どうして?何が不満なの?」


 母親は千晴の気持ちが信じられないと言わんばかりに、その行動に疑問を呈していたが、千晴は気にすることもなく、野菜スープだけを飲み干すと、部屋の中に入り込んでしまった。

 机の上には、以前の学校から転校する前に撮ったクラスメートとの記念写真が飾ってあった。千晴を取り囲むように並んだクラスメートは、全員が笑顔で、好き勝手にポーズを決めていた。クラスメートはみんな仲が良く、言いたいことを包み隠さず言い合えた仲間だった。

 転入先の学校のクラスメートはみな真面目で勉強熱心ではあるものの、全く交流が無く、授業が終わるとみな誰ともつるむこともなく散り散りに帰って行った。千晴は何とか友達を作ろうとクラブ活動を始めたり、クラスの何人かに声をかけたりしてみたが、思うように友達が出来なかった。

 一人で過ごす時間が増えた千晴は、お菓子作りやネットゲームなど、一人で出来る趣味を見つけて何とか心の隙間を埋めようとしたが、終わった後にはどこか虚しさが残った。

 今日もネットゲームを楽しんだ後、再来年の受験に備えて受験勉強を始めようと気合をいれたが、途中で気持ちが途切れ、途方に暮れた。

 千晴はおもむろにジャンパーを羽織り、小銭を握って玄関のドアを開けた。


「あら、どこに行くの? こんな遅い時間に女の子一人で」

「近くのコンビニまで少し散歩して。気分転換して来るね」


 千晴はジャンパーのポケットに小銭と手を突っ込んだまま表に出て、エレベーターに乗り込んだ。ロビーに出ると、突然、千晴の耳に流暢なピアノの演奏が入って来た。

 ちょっぴりもの哀しげで叙情的なメロディーを奏でるピアノの演奏に、千晴の心ははどんどん引き込まれていった。

 ロビーの中を見渡すと、片隅に置かれたピアノで、ポニーテールの可愛らしい髪型を揺らしながら、タートルネックのセーターを着こんだ一人の少女が一心不乱に演奏していた。しなやかな手の動きで、流れのあるゆるやかな演奏を聴かせてくれた。


「あなたは?」

「素敵な演奏だなって思って、つい」

「この曲、前に通ってた学校で、友達から教えてもらったんだ。キャロル・キングの『You’ve got a friend』って曲なの」

「キャロル・キング?」

「アメリカのシンガーソングライターだよ」


 鍵盤の上で手を動かしながら、少女は独り言のように言葉をつぶやき始めた。


「私、梶原沙月かじわらさつき。つい先月広島からこのマンションに越してきたばかりなんだ」

「広島から?遠くから来たんだね。私は羽田千晴。最近ここに引っ越してきたんだけど、以前住んでたのは、大磯っていう神奈川の海辺の町なんだ」

「へえ、そうなんだ。私の以前いたところも、電車で少し行くと海が見れたんだよ。きっと同じような環境で育ったかもね」

「パパが仕事場が近い所が良いっていって、ここに引っ越してきたのよね。あっちでは友達も沢山いたし、毎日が楽しかったのに。私の意見なんてこれっぽっちも聞いてくれなかった」

「あははは、私もだよ。私の父さんは転勤族だったから、ここに来るまでにあっちこっち転校して回って来たんだ。広島は今まで引っ越した中では一番友達が多かったし、みんな親切だったのになあ」

「じゃあ、ここに来た時、友達と離れ離れになって、すごく寂しかったんじゃない?」

「最初の頃はね。でも、最近は不思議とそれほど寂しさは感じていないんだ」

「え?それじゃあ、こっちに来てから沢山友達が出来たの?」

「ううん。一人か二人かなあ?」

「それじゃ、寂しいんじゃない?」


 すると、沙月は再びピアノの演奏を始めた。

『You’ve got a friend』の哀愁に満ちた旋律がロビーに響き渡る中、突然、千晴は胸の中が熱く焦がれるような錯覚を感じた。


「私が転校する時、当時の友達がこの曲の入ったCDを、お別れのプレゼントだって言って渡してくれてね。歌詞が英語で私には分からなかったんだけど、その時友達がこの歌の歌詞の意味を教えてくれたんだ」


 沙月はピアノを弾きながら、歌詞について語り始めた。


「君が落ち込んで困ってる時、君が救いの手を必要としている時、何もかもうまくいかない時、目を閉じて私のことを考えて。そしたらすぐに、あなたの所に行くよ。

 真っ暗な夜を明るくするために……」


 切なくどんよりとした旋律が続くこの曲は、後半になると徐々にのびやかで明るいパートが出現し始めた。「辛く悲しいけれど、きっとどこかに光明があるよ」と言わんばかりに。


「こちらに越してきて、最初は知らない人に囲まれ、知らない場所で生活することに慣れなくて、毎日が辛かった。その時、たまたまここにピアノがあるのを見つけてね。寂しさを紛らせたくて、この曲を自分で試しに弾いてみた時、なぜ友達が私にこの曲をプレゼントしてくれたのか、その理由がすごく分かって、涙が止まらなかった。たとえどんなに辛く寂しい時でも、広島のみんなが私を見守ってくれてるんだ、遠くてもずっと繋がってるんだって思えるようになったから」


 千晴は沙月の言葉を聞いて、思わず両手で口を押えた。沙月は弾き続けながら、千晴の顔を見て笑いかけた。


「どうしたの?突然そんなに驚いた顔をして」

「私も、こっちに越してきてずっと寂しかったから。ずっと辛かったから」


 そう言うと、沙月の方に歩み寄り、その手を強く握りしめた。


「この曲、私にも教えて!ピアノはおろか、音楽は全然ダメだけど、この曲を弾きこなせるようになりたいの」

「いいよ。じゃあ、連弾しようか?」

「連弾?」

「一台のピアノを何人かで一緒に演奏することよ。大丈夫、ちゃんと教えるから、すぐ弾きこなせるようになるよ」


 千晴は沙月の隣に座り、沙月の指示通りに鍵盤に手を触れた。最初はなかなか上手く覚えられなかったが、何度も繰り返すうちに頭に入り、弾きこなせるようになってきた。


「上手いじゃない。きっと上達も早いと思うよ。一緒に連弾できる日も遠くないかもね」

「いや、まだまだだな。私みたいな超初心者はもっと練習しないと。いつもこの時間にここに来たら、沙月さんに会える?」

「うん」

「じゃあ、明日もここに来るね」


 千晴は立ち上がると、にこやかな表情で沙月に手をふったが、帰る前に、ずっと心に引っ掛かり、沙月に確かめておきたいと思うことが一つだけあった。


「ねえ、最後にもう一つ聞いていいかな?」

「何?」

「そもそもだけど、この曲のタイトル『You’ve got a friend』ってどういう意味?ごめん、音楽だけじゃなく英語もとことんダメなんで」


 頭を掻きながら苦笑いする千晴に対し、沙月は笑顔でさらりと答えた。


「『君のともだち』」

「『君の……ともだち』?」

「そう。この曲のタイトルだけじゃなく、千晴さんも、ね」

「……」

「これからも、よろしくね」


 沙月は椅子から立ち上がり、手を差し出すと、千晴の手をしっかりと握りしめた。千晴の目からは、とめどなく涙が流れ出した。


「どうしたの、急に泣き出して」

「だって、ここに来て初めてだから。『君のともだち』って言ってもらえる人に出会えたのは」


千晴の言葉を聞いた沙月は、泣きじゃくる千晴を両手でそっと包み込み、細く長い指で何度も撫でてくれた。

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