第9話 蝶のように軽やかに
真夜中、帰る人の姿もまばらになり、窓の明かりもほとんどが消えた時間帯、背中の開いた黒のタイトミニのワンピース姿の
「ふぁあ、今日も飲んじゃったね。ごめんね
「いいんだよ。酔っぱらったまゆ香を安全に部屋まで送るのは男として当然のことだよ。それよりもまゆ香、どうだいこのマンションは?今の仕事場にも乗り換えなしで行けて便利だし、都心の高層ビルも綺麗に見えるだろ?」
「うん、最高~!しかも一番上の一番いい部屋だもんね。ありがと、英人。でも、高かったでしょ? お財布は痛まなかったの?」
「まゆ香が欲しいものならば、痛くもかゆくもないよ」
「こないだはロードスター欲しいって言ったら買ってもらったし、今度はマンションに住みたいっていったら、ここを選んでくれたし。英人って、どれだけ儲かってるの?」
「本業の歯科医も順調だし、趣味でやってる不動産投資や金の売買が良い感じで利益出てるし、まあ、そこそこ儲かってるって感じかな?」
「そこそこ? そんなわけないよね? その時計だって、相当高いんじゃない?」
「アハハ、ロレックスだけど、デザインが気に入ってね」
そう言うと、英人は時計をまゆ香の前に差し出した。時計はロビーのライトに反射し、まばゆく光り輝いた。
「さ、エレベーターが来たぞ、一緒に行こうぜ……あれ?」
「すごーい! ねえ英人、ここにピアノがあるよ。おしゃれよね、この場所にピアノを置くなんて」
まゆ香はいつの間にか英人の元を離れ、ロビーの片隅に置かれたピアノに手を触れていた。
「ホントだ。マンションのロビーにピアノを置くなんて、随分しゃれたことをするね」
「英人、何か弾ける曲あるの?」
「
まゆ香は英人を制して椅子の上に座ると、ピアノの鍵盤に手を当てた。
細く長い指を踊るかのように軽快に動かし、高音の軽快なリズムを奏で始めた。
「これって、木村カエラの『Butterfly』?」
「そうよ。この曲、大好きなの! 私ね、その場限りの恋仲じゃなく、結婚したいと思える人が現れるのを待ってるの。でもね、私、残念ながらまだ結婚したいと思う人に出会っていないの。ということで、じゃあね英人。また飲みに来てね」
「お、おい!」
まゆ香は眉を寄せて笑顔を見せると、椅子から立ち上がり、英人の傍を颯爽と通り過ぎ、そのままエレベーターに乗り込んでいった。
「おい! 待てよ。今夜はベッドで俺と一緒になりたいんじゃなかったのか? おい!」
大声で叫ぶ英人をよそに、まゆ香はエレベーターの窓越しに手を振った。
「ちくしょう! 俺はお前が好きだから、お前の店に通いつめたし、欲しいものは何でも買ってあげたんだぞ! お前が振り向くまで、俺は諦めないからな!」
★★★★
数日後、深夜の日付が変わる頃、まゆ香は英人とは別な男性と一緒にマンションの玄関をくぐった。今度は英人ではなく、日に焼けたがっしりした体型の、スポーツマン風の男性であった。
「
「いや、俺のことは気にしないでいいよ。まゆ香はこんな立派な所にひとりぼっちで住んでるんだ?」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと部屋まで送り届けるよ。どこかにストーカーが隠れてるかもしれないし、何かあると困るだろ?」
「そうね。じゃ、お言葉に甘えようかしら」
まゆ香が遼平のたくましい胸元に顔をうずめると、遼平はまゆ香をそっと抱きしめた。その時、まゆ香はロビーの片隅に置かれたピアノに目が行った。
「ねえ遼平君、ピアノは弾ける?」
「少しだけどね。
「ふうん。私も一度だけ聞いたことがあるけど、すごく優しい曲よね」
「そうだろ? でも、今の俺にはまゆ香がいるからもっと心強いんだ。さ、もう遅い時間だし、部屋まで一緒に行こうか?」
遼平が椅子から立ち上がったその時、まゆ香がいつの間にか椅子に座り、ピアノの鍵盤に手を当てると、優しいながらもどこか野性的で攻撃的な演奏が始まった。
「
「あ、ああ。倖田來未の曲か。エロカッコいい雰囲気はまゆ香にはぴったりだよ」
「でしょ? 私、この曲みたいに、未来を信じて、諦めずに強く綺麗になりたいのよね。だから私、ストーカーなんかに負けてられない! ここからは一人で大丈夫よ。じゃあね」
「え? まゆ香、お前、ちょっと!」
まゆ香は顔を引き締め、遼平の傍を颯爽と通り過ぎると、そのままエレベーターに乗り込んでいった。
「ストーカーに悩んでるからって俺を誘ったのはまゆ香だろ? 俺をここまで付き合わせておきながら、ちくしょう!」
遼平はまゆ香の載ったエレベーターに向かって叫んだが、訴えも空しく、エレベーターは上階に向かってぐんぐんと上がっていった。
★★★★
数日後、夜も更けた頃に仕事を終えた博也があくびをしながらエレベーターを待っていた。
「はあ……今日は調律だけで五件もあったから、疲れたなあ。早く寝ようかな」
その時、ピアノの明るい音色がロビーから聞こえてきた。
リズミカルで、明るく飛び跳ねるような旋律が、まるで眠気覚ましのように博也の頭の中のもやもやしたものを振り払ってくれるように感じた。
「一体、誰が弾いてるんだろ?」
ピアノを覗き込むと、そこには一心不乱にピアノを弾くまゆ香の姿があった。
「お上手ですね」
「あはは、こう見えても昔々はピアノ習ってたの。コンクールで入賞とかもしたんだ」
「ほう、そりゃお上手なはずですね。この曲、ゲールの『蝶々』でしたっけ?」
「良くご存知ですね。ひょっとしてピアノにお詳しい方?」
「そうです。調律師をしてまして、自分で修理したこのピアノをご好意でここに置かせてもらってるんです」
「へえ、そうなんだ」
まゆ香は演奏を終えると、天井を見つめて一息つき、その後博也の顔を見つめた。
「私ね、自分で言うのも変だけど、ピアノを弾くうちに蝶になれるんだ。次の蜜を求めて違う花に飛び立って、捕まえられそうになったらふわっと空に飛び立って」
「面白いですね。蝶ですか?」
「うん。弾いてるうちに不思議と心が解き放たれていくのよ。そして、忘れていた自分の本当の気持ちに気づいて、新しい世界に飛び立つことができるの」
そう言うと、まゆ香は椅子から立ち上がり、博也の前で一礼した。
「ありがと。ここにピアノを置いてくれて」
「あなたのお役に立てたなら嬉しいです」
「私、これから、勤めてたキャバクラに辞表出してこようと思うんだ。お客さんには欲しかった車もマンションも買ってもらって、送り迎えまでしてもらった。でも彼らが求めてるのは私の体。ここまでは上手くかわしてきたけど、ずっとこんなことを繰り返して、自分は本当に幸せになれるのかなって悩んでいたんだ。だから今日、出勤する前にもう一度ピアノを弾いて、自分の本心を確かめたのよ。そしてやっとわかったの。明日からは自分の力で新しい世界に飛び立つことにしたんだ」
「あ、ああ、いってらっしゃい」
まゆ香はかばんを持つと、ヒールの音を響かせながらにこやかに手をふって玄関を去っていった。
両手を広げ、新しい世界へと軽やかに歩み出すその姿は、空へと舞い立つ蝶のようであった。
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