第10話 心残り

 博也の住むマンションは都心への通勤に至便な場所にあるせいか、ある程度所得のあるサラリーマンが多く住んでいた。

 住んでいる人達の身なりも上品で、以前博也が住んでいたマンションのように、派手な柄のジャージやスウェットで歩いている人はあまり見かけなかった。

 今朝も、上品な花柄のワンピースを着こんだ中年の女性が、巻き髪をアップにして綺麗なうなじを見せ、貴婦人のようないでたちで一人でピアノを弾いていた。

 曲はゆるやかな流れに乗りながら始まり、次第に曲調が高揚し、一気に盛り上がりを見せた後に、静かに終わりを迎える……まるで一つの物語のような楽曲であった。


「おや?バーブラ・ストライサンドの『追憶』かな?」


 曲名を思いだした博也は思わず感嘆して、声を出してしまった。

 すると女性は立ち上がり、「その通りですよ」と告げた。


「私、このマンションに住む野口朝香のぐちあさかと言います。私、今日で十数年連れ添った旦那と離婚するんです。正直名残惜しいけれど、最後に思い残すことが無いように、この曲を演奏していたんです」

「そうですか。残念ですね」

「いいんですよ。私たちの間には私たちの力で越えられない厚い壁があったのよ」


 そう言うと朝香は頭を下げ、「さ、これから引っ越しの準備しなくちゃ」と言って、そそくさとエレベーターに乗り込んでいった。


 しばらくすると、マンションに突然大型トラックが横付けされ、作業員が続々と中に入り、エレベーターを使って荷物を運び始めた。

 作業は手際よく進められ、わずか三十分足らずで作業員が撤収し、荷物を積み込んだトラックのエンジンが発動した。その時、朝香と、都内にある有名な私立小学校の制服を着込んだ男の子と女の子が作業員たちの後ろからやってきた。

 トラックが出発すると、三人は手を振りながらその後姿を見守った。


「さ、私たちも出発しなくちゃね。このマンションともお別れね」

「そうだね。でもさママ、パパ一人で本当に大丈夫なの?」

「大丈夫よ、パパは収入は少ないけれど、一人で生きていけるから。柊人しゅうと優茉ゆまが考えてるよりしっかりしてるわよ」

「……ママ、本当にそう思ってるの? パパに対して何の気持ちも無いの?」

「そうね、全く無いと言ったら嘘になるかな。あなたたちは?」

「無いけれど、やっぱり寂しいよ。ねえ、パパにせめてさよなら位は言わなくちゃ。その後出発しようよ、ね?」

「大丈夫よ、パパには置き手紙をして、そこにさよならってちゃんと書いてあるから。それに、パパに顔を合わせながらさよならって言うと、逆にパパを悲しませることになるからね」

「ママのバカ! 会わないでさよならする方が、パパが悲しむでしょ? おかしいよ、そんなの」

「ごめんね。あなた達にはつらい思いをさせるけど、分かってほしいんだ」


 夜も十時を回った頃、皺のついたワイシャツにネクタイをだらしなく結んだ野口寿人のぐちひさとが、一人とぼとぼとロビーの方向へと歩いていった。

 その手には、朝香からの書き置きと思われる手紙が握られていた。

 ロビーの椅子に腰かけると、しばらくうつむいたまま嗚咽していた。


「ちくしょう、なんで……なんで俺のことを置いて出て行っちまったんだよ」


 寿人は何度も片手で目の周りを拭い、時々むせりながらひたすら泣き続けた。


「俺が一体何をしたというんだ? まじめに働いて必死に稼いで、休日にはちゃんと家族サービスもしてきたつもりだ。それなのに、一体何が悪いというんだ?」


 その時、後ろから突然、泣き叫ぶ寿人の背中を軽く叩き、耳元でささやく声がした。

「あなたは何も悪くないと思いますよ」

「は?」


 突然真後ろから聞こえたささやき声に驚き、寿人は後ろを向いた。そこには、スウェットスーツを着こんだ博也の姿があった。


「誰だよ、あんたは? どうして俺が泣いてるのか、知ってんのか?」

「はい」

「『はい』だと? 何も知らない赤の他人が、何で知ってるんだよ? 想像だけで勝手なことを言うんじゃねえよ」

「僕、今朝がたここで奥さんに会いましたよ。奥さん、一人でピアノを弾いていましたよ」

「ピアノを? どういうことだよ!?」


 怒り狂いながらつかみかかろうとする寿人の手を博也は振り切ると、ピアノの椅子に腰かけた。


「突然ピアノの前に腰かけやがって。俺の方を見ろや!俺の妻や子どもはどこだ? お前は知ってるんだろ?」


 しかし博也は寿人の方には一瞥もせず、ひたすら無心に鍵盤の上で手を動かした。


「何だこの曲……優しく包まれる様で、どことなく寂しいような。これ、なんて曲だ?」

「バーブラ・ストライサンドの『追憶』です。あなたの奥さんが、この曲をこのピアノで演奏していました」

「そうか……」


 その時、寿人は突然何かを思い出したかのように、ずっと握りしめていた手紙を両手で開くと、涙を拭い取り、大きく目を見開いて読み始めた。


「あなたに一度聴いてもらいたい曲があります。バーブラ・ストライサンドの『追憶』という曲です。この曲は今の私の気持ちそのものです。このマンションを出て行くときに演奏してから出て行こうと思います。もし私の演奏があなたの耳に届いているのなら、今の私の気持ちを察してほしいです。それでは、さようなら 朝香 」


 寿人は小刻みに震える手で押さえながら手紙を読み終えると、博也の方を振り向いた。


「あんたが今演奏していた曲って……」

「そうです。『追憶』ですよ」


 博也が大きく頷くと、寿人は手紙を握りしめたまま床にしゃがみ込んだ。


「この曲の歌詞、ご存じですか?」

「ぜ、全然知らねえよ。でも、曲そのものはどこかで聴いたことがあるな……」


 すると、博也は再び『追憶』の前奏部分を奏で始めた。


「この曲では、二人で楽しく過ごしていた頃の思い出を振り返りながらも、今はもうその頃のように戻れると思う? やり直すことができる? って問いかけています。思い出は美しいけれど、全て記憶にとどめるのは辛いから、辛いことは忘れて、楽しかったことをこれからもきっと思い出すだろう……だいたいこんな意味の歌詞だったと思います」

「朝香は、辛かったのかな? 今の俺と暮らすことが」


 博也は演奏を続けながら、寿人の問いかけに応えるかのように語り続けた。


「この曲は、『追憶』というアメリカの映画の主題歌だったんですが、元々性格も考え方も違う二人が出会い、愛し合ったけれど、最後にはやっぱり意見が合わず、別れるお話です。何とも切ないお話ですが、どんなに愛し合っても二人の違いを乗り越えるのは難しかったんでしょうね」


 すると、寿人はうつむきながらしばらく考え込んだ。


「俺は貧乏な家で育ったし、今もうだつが上がらない中小企業のサラリーマン。でも、朝香の家は裕福で、このマンションも朝香の実家が金を出してくれた。俺たちは学生時代に出会い、語り尽くせない位思い出がいっぱいあった。でも、金の使い方や子どもの教育については、全く意見が合わなかった。思い返すと育った環境が違うから、それを乗り越えるのは難しかったのかもな」


 寿人はため息をつくと、ポケットからスマートフォンを取り出し、博也に数点の画像をみせてくれた。


「まだ結婚する前に撮ったやつだよ。お互い屈託のない笑顔をしてるだろ?」


 そう言うと、寿人は照れ笑いを浮かべながら、スマートフォンを閉じた。


「さ、明日からは一人だ。あいつ……俺のためにこのマンションは残してくれたんだ。きっと、ここを出たら行き場がなくなる俺のことを案じてくれたのかな?」


 寿人は目頭を押さえると、博也の前に立ち、ピアノに手を置きながら頭を下げた。


「俺はピアノ全然弾けないからさ。またこのピアノで『追憶』聞かせてくれよ。あいつがこの曲に込めた想いを、いつまでも忘れたくないからさ」


 寿人はそう言い残すと博也に背中を向け、そのまま到着したエレベーターに乗り込んでいった。

 その背中には寂しさが漂っていたが、朝香との沢山の思い出を胸に生きて行こうとする強い決意のようなものを感じた。




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