第11話 バナナとレモン

 平日の午後、友美恵はいつものように夕食の買い物を終えて自室に戻ろうとエレベーター待ちをしていた。

 エレベーターの扉が開くと、高校生くらいの少年が、ウエーブの掛かった長い髪を振り乱しながら、外で待っていた友美恵に肩がぶつかりそうな位の勢いで外に出て行った。


「ちょっと、危ないでしょ!?」


 驚いた友美恵は、少年に向かって叫びつけたが、少年は後ろを振り向くこともなく、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、玄関へと歩き去っていった。


「何なのあの子は? こんな平日の昼間からブラブラして……」


 友美恵はため息をつくと、エレベーターの「閉」のボタンを押し、上階へと上がっていった。自室にたどり着いた友美恵は、袋から買い込んだものを一つずつ出し、全てを出し終わったその時、買ったはずのバナナが見当たらないことに気付いた。


「あれ? 今日の特売のバナナが見当たらない! どこに行ったのかしら?」


 部屋中を探したが、バナナの姿はどこにもなく、肩を落としかけたその時、友美恵の頭の中には思い当たることがあった。


「きっと、あの場所だわ。あそこしか思いつかない」


 そう気づいた友美恵はドアを開け、全速力で廊下を走ると、エレベーターに乗り、一階で降りた。


「あった!……けど、袋だけ? どういうこと?」


 友美恵がエレベーターの出口で目にしたのは、バナナの入っていた「袋」だけだった。中身は一体どこに?と辺りを見渡した友美恵は、ロビーに座る人影を見た時、あまりの衝撃に口元を押さえ、顔が真っ青になった。

 そこには、ロビーに手をかけながら、バナナをむさぼる少年の姿があった。

 食べ終わると、少年は皮だけを床に捨て、ピアノの前の椅子に腰かけた。鍵盤に手を当てると、まるで叩くかのように鍵盤を指で強く押し当てながら演奏を始めた。

 憂いに満ちた旋律は、やがて所々救いを求めるかのように高い音を奏で、曲を通して自分の気持ちを一生懸命主張しているかのように聞こえた。


「これって……米津玄師の『Lemon』かしら?」


 友美恵はしばらく演奏に聞き入っていたが、少年が演奏を終えると、床に落ちていたバナナの皮に再び目が行った。

 友美恵は腰をかがめて皮を拾うと、そのまま演奏を終えた少年の前に立ちはだかった。


「ちょっとあんた、これ、私の買ったバナナなんですけど?」


 すると少年は顔をしかめ、白く大きな歯を見せて威嚇するかのように友美恵を睨んだ。友美恵はひるむことなく、バナナの皮と、エレベーターの前で拾ったバナナの入っていたビニールの包装袋を見せつけた。


「この袋にね、マルヤススーパーのマークの入った値段のシールが貼ってあるでしょ?私、このスーパーでこのバナナ買ったんだけど」

「知らないな。どうして俺が食べたってわかるの?何かしら証拠でもあるの?というか、出せるの?明確な証拠が出せないなら、名誉棄損で訴えますけどぉ?」


 少年は小馬鹿にしたように笑いながら友美恵を睨むと、片手で胸倉を掴み、力任せに玄関の方向へと連れ出そうとした。


「ちょっと、何するのよ? やめてよ!」

「これから僕と一緒に警察へご同行願いまーす。ギャハハハハ」


 玄関に差し掛かったその時、セーラー服を着た少女が腕組みをしたまま、二人の前に立っていた。


「え?蘭子らんこ?」

斗馬とうま、何やってるの?」

「何って……その」


 蘭子は斗馬というその少年の手を掴むと、思い切り反対方向へ捻りだした。


「い、いでででで……何するんだよ?」

「また罪のない人を脅してたのね。あんたはお母さんが死んでから、ずっとそうやってひねくれたことばかりしてるよね」


 蘭子は斗真の手をさらに強く捻った。斗馬はそのまま友美恵の胸倉から手を離し、友美恵は逃げるようにロビーへと走り去った。蘭子は心配そうな表情で友美恵に駆け寄った。


「大丈夫ですか?」

「私は大丈夫よ。それよりその男の子、学校行ってないの?」

「そうです。かれこれ三か月くらい、学校に来てません。私は学級委員長だし、時々様子見に来てるんです」


 蘭子はため息をつき、友美恵に対し頭を下げた。


「ごめんなさい。彼は頭は凄く良いんです。試験の成績もずーっとうちのクラスのトップですから。でも、お母さんが亡くなってから、彼はひねくれてしまって……彼に代わって、私が謝ります!」


 友美恵は何度も頭を下げる蘭子に戸惑いを感じたが、蘭子の肩に手を置き、首を振って「もういいから、私は大丈夫だから」と小声でささやいた。

 一方で、斗馬は本心から反省している様子は無く、ぶつぶつと不満らしき言葉を口にすると、突然ピアノの前の椅子に腰かけ、そのまま演奏を始めた。


「ねえ、また『Lemon』なの? 他にレパートリーは無いの?」


 蘭子は呆れた様子で斗馬が演奏する姿を見つめていた。

 ピアノを弾く斗馬の横顔は、さっきと同様に、必死に何かを訴えようとしているように見えた。

 高音の部分では、まるで鍵盤を破壊するのではないかと思うくらい、指を思い切り強く鍵盤に叩きつけていた。

 彼の真意を聞きたい……そう思った友美恵は、おそるおそる斗馬に問いかけた。


「ねえ、あなた何か言いたいことがあるんじゃない?」

「は?何でそんなことが分かるんだよ?」

「だって……何か訴えたくて、でもなかなか言えなくてイライラしているように見えるんだもん」


 すると斗馬は演奏を止め、大きくため息をつくと、鍵盤に手を置いたまま語り始めた。


「この曲を弾くと、不思議と母さんのことが頭の中に蘇ってくるんだ。俺の親父は研究者でほとんど家に帰らないから、一緒に過ごす時間が長かったのは母さんだった。一緒にいっぱい遊んで、いっぱいケンカもした。そのすべてが愛おしくて、俺の心の支えだった。でも、もう母さんはこの世には帰ってこない。母さんがいない今、俺は何も信じられなくなって……」


 斗真は最後には感極まり、涙声になりながら話し終えた。

 一方、蘭子は憮然とした表情で斗馬に近づくと、片手で頬を思い切り叩いた。


「斗馬のお母さんはもう帰らないわ。でもね、ピアノを弾いていつまでもウジウジと昔の思い出に浸っていても仕方ないでしょ? もういい加減に、目を覚ましてよ!」


 そう言うと、蘭子は斗馬に背を向け、全身を震わせながら早足で玄関から出て行った。

 呆然と立ち尽くした斗馬を見て、友美恵は立ったままピアノの鍵盤に手を当て、ゆっくりとしたリズムで『Lemon』を演奏し始めた。


「この曲って、亡くなった大切な人へのレクイエムなのよね」

「へえ、良く知ってるね」

「でもね、あの歌に込められてるのは、大切な人を失って悲しむことばかりじゃない。『今でもあなたは私の光』……つまり、その人との思い出を大事にしながらこれからも生きていく、という決意でもあるのよ」

「……」

「まあ、この歌詞には色んな解釈があるからね。私の解釈は独断かもしれない。でも、私としては、この曲は過去の思い出に逃げ込むためのものじゃなく、これからお母さんの思い出を胸に生きていく決意の曲にしてほしい」


 友美恵の奏でる『Lemon』は、原曲のやりきれぬ悲しみに満ちた雰囲気を保ちつつも、穏やかにそして優しく奏でられ、聴く人の悲しみを癒し、背中を前に押し出してくれる力があった。


「さ。私はこれで帰るからね。あ、そうそう、バナナのことはごめんね。これでもうきっぱり忘れるから、あなたも気にしないでね」


 斗馬をロビーに残し、友美恵はエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターの小さな窓からは、斗馬がズボンのポケットに手を入れたまま、こちらの様子をじっと凝視している様子が伺えた。


 ★★★★


 数日後、友美恵はいつものように買い物に出かけようとエレベーターを降り、玄関に向かおうとしていた。

 その時、すれ違いざまに制服を着込んだ高校生位の少年が乗り込んできた。髪の毛は耳元まで刈り上げていたが、その顔はまぎれもなく斗馬だった。


「あの……斗馬君?」

「ああ、こんにちは。こないだはどうも」


 斗馬は髪の毛を掻きながら、友美恵の前で軽く一礼した。


「学校、行き始めたんだね」

「まあ、これ以上サボるのはマズイし、母さんもそんな俺を見て喜ばないと思ったから」


 そう言うと、斗馬は何かを思い出したようにかばんの中に手を入れると、何かを取り出し、友美恵の手の中にそっと握らせた。


「いつかこれを、あなたに渡そうと思ってたんだ」


 それだけ言うと、斗馬はそそくさとエレベーターに乗り込んでいった。

 斗馬が渡してくれたバナナは買ってからある程度日数を経過したもののようで、皮が黒ずんでいたが、友美恵はバナナを見つめながら、口元をほころばせて微笑んだ。


「ありがとう。このバナナ……どんな特売品よりも嬉しいかも」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る