第12話 我が人生の応援歌
博也がピアノをこのマンションに持ち込んでからはや数か月が過ぎた。
仕事を早めに終えた博也は、作業所から持ち出した調律用の道具一式をかばんから取り出し、ロビーのテーブルに置くと、ピアノの調律に入った。一つ一つの音を確認し、少しでも音階に変調をきたしていると、工具を使いながら丁寧に調整した。
額の汗をぬぐいながら点検を進めていたその時、大柄な中年男性がどっかりとロビーのソファーに座り、ペットボトルのコーヒーを飲みながらタブレットをいじり始めた。男性はしばらくタブレットを一心不乱にいじっていたが、やがてその手を止めて、ソファー越しに博也の作業を見つめていた。
作業が終わった博也は、自分のことをずっと見つめていた男性の姿にようやく気が付いた。
「あの……どうかされました?」
「いや、さっきからずーっと、なにやってるのかなあって」
「このピアノの調律をしていたんです。音階がおかしいと感じるところがあったので」
「調律? それって儲かるのかい?」
「まあ、儲けは正直少ないですね。サラリーマンの平均給与より少ない時もありますよ」
「そんな仕事よくやってられるね。俺だったら絶対やらないな」
そう言うと、男性は手にしているタブレットを持ち上げ、博也の前に見せつけた。
「俺はね、このタブレットと部屋にあるPCだけでしっかり稼いでるんだよ。株式売買、先物取引、為替FX……おかげ様で、サラリーマンやってる同級生の年収の数倍は稼いでるんだ」
タブレットには、株の値動きと為替の動きが分かるグラフが表示されていた。
「個人でこの仕事をやってるんですか?」
「そうだよ。一応、デイトレーダーとしてそこそこ名前も知られるようになったんだ」
男性は名刺を取り出すと、博也の手のひらの上にポンと載せた。
「株式・為替デイトレーダー
「そうさ。昔は証券会社に勤めてた時期もあったけど、今は自宅で取引専門でやってるんだ」
安典はそう言うと、ソファーに座り込み、再びタブレットに目を遣り、画面に指を這わせていた。
「おお、数値に少し動きが出てきたな。今日はのんびりした展開だったから、気分転換にロビーのソファーでくつろぎながら仕事しようと思ってたのに」
安典は立ち上がると、そそくさとエレベーターに向かって歩き出した。
しかし、到着したエレベーターに乗り込もうとしたその時、安典は突然博也の方を振り向くと、片手で手招きし始めた。
「ねえ、調理師さん」
「いえ、私は『調律師』ですけど」
「どっちでもいいや。悪いけどさ、ちょっとだけいいかな?」
「まあ、少しだけならば」
「じゃ、一緒に俺の部屋に来ないか? 時間は取らせないから、俺の自宅兼仕事場を見せてやるよ」
「それでは、お言葉に甘えて……」
博也は安典とともにエレベーターに乗り込み、最上階に近い見晴らしの良い部屋へと案内された。博也は比較的下階に住んでいるので、窓の外から見える都心の高層ビル街の景色にしばらく見入ってしまった。
「良いお部屋ですね。私の部屋からはここまで眺望が開けていませんよ」
「まあ、結構いい値段したからな、ここ」
安典はそう言うと、博也を隣の部屋へと案内した。
そこには、所狭しとパソコンや機器類が置かれていて、本棚には株式や為替に関する専門書がびっしりと並んでいた。
「ここが俺の作業部屋だよ。この部屋で俺の仕事のほとんどが完結してるんだ。あっちこっちに営業したり、取引先に出向いて御機嫌をとったりする必要なんかない」
安典は自慢げにパソコンの画面を指さした。そこには、世界中の為替の動き、上場企業の株価の動きが表示され、秒刻みでその値が上下に動いていた。
「すごいですね。この部屋を買えるくらい稼げるんですから、相当な知識と先を読む力があるんでしょうね」
「まあな。でも、ここまで来るまで決して順風満帆じゃなかったけどな……」
安典はパソコンに映し出された数値を確認しながら、やや元気のない声で答えた。
その時博也は、部屋の片隅のタンスの上に置かれた野球帽と古い写真が貼られた色紙に目が行った。写真には、泥だらけのユニフォームを着こんだ高校生位の子達が、グランドの上で仲良く肩を組んでいた。色紙には、走り書きでメッセージのようなものが書き込まれてあった。
「あの、つかぬことを聞きますが、この帽子と色紙は?」
「あ、見られちまったか……俺の高校時代の思い出の品だよ」
「野球をしていたんですか?」
「そうだよ。あの頃は甲子園を目指して死ぬほど練習してきたからな。県の予選で負けた時は、本当に頭の中が空っぽになったよ」
安典は野球帽を被ると、笑いながら両手でバットを振るそぶりを見せてくれた。
一方、博也はタンスの上に置かれた色紙を手にすると「おや?」と思い、しばらくの間じっと目を凝らして見つめた。
「この色紙に書いてあるメッセージは、誰が書いたんですか?」
「ああ、部活を引退する時に、うちの監督が俺たちへのはなむけの言葉を書いてくれたんだ。どこかの有名な歌手の歌らしいけどさ……このメッセージが、今までの俺の人生の支えになってくれたんだ」
「そうですか……」
「高校卒業した後、田舎から上京して都会の大学に入ったけど、自分の肌に合わなくて中退しちまったんだ。その後は証券会社の契約社員になり、キツいノルマを与えられて心が折れる寸前まで追い込まれ、こっちも途中で辞めちまったんだ。失意の中、生き残りをかけて始めたのが今の仕事さ。でも、ここまで来るまで大変だったよ。儲かった時もあれば、食費すら賄えない位損失が出た時もあったよ。そんな時俺は、監督が色紙に書いたメッセージを読み返すようにしていたんだ。だから俺、世間の荒波に揉まれつつも、歯を食いしばって耐えて、ここまでやって来れたと思うんだよね」
安典がしみじみと自分のこれまでの人生を語る中、博也は色紙に書かれたメッセージを一字一句じっくりと噛みしめるように読んだ。
「すみません。私も博也さんにちょっと時間を頂いてよろしいですか?」
「ああ、いいよ」
「一階のピアノまでお付き合い願いたいんです」
「え?またピアノ?俺は音楽とか興味ないんだけど」
「いや、そんなに時間は取らせません。ちょっとだけ、良いでしょうか?」
安典は小声で「しょうがねえな」と渋い顔で言いながらも、博也の後を付いて、再び一階へと一緒に降りて行った。
二人はピアノの前にたどり着くと、博也は椅子に腰かけ、明るくリズミカルな楽曲を演奏し始めた。そして、曲のサビの部分にたどり着くと、演奏に合わせて唄い出した。
「ファイト! 戦う君の歌を 戦わない奴らが笑うだろう、ファイト!冷たい水の中を 震えながら登って行け」
その時、安典は目を見開いて博也の方を見つめた。そして、博也の肩に手を当てると、両手を震わせながら驚きの声を発した。
「おい、あんたが今歌ってた歌詞って……」
「そうですよ。中島みゆきさんの『ファイト』です」
「いや、あんたが今歌った歌詞って、あの色紙に監督が書いてくれた言葉そのままだよな?」
「はい。おそらく監督さんはこの歌の歌詞を引き合いにしながら、これからの人生、たとえどんな辛いことがあってもめげずに自分の夢へ挑み続けてほしい、と言いたかったんじゃないでしょうか」
「……そうだったのか」
博也は「ファイト!」のサビの部分を繰り返しながら演奏した。すると、安典は突然、ピアノを弾く博也の手の上に太く大きな手を重ね、演奏を止めようとした。
「なあ調律師さん、この曲、俺にも弾けると思うかい?」
「そうですね、この曲は比較的簡単ですよ。ご要望があれば、いつでも教えます」
「じゃあ教えてくれないか? 俺、これからもこの曲の歌詞に書かれたメッセージを胸に生きていきたいんだ。だから、この曲を自分で弾きこなすことで、いつまでも忘れないようにしたいんだ!」
「は、はい!」
「よし、約束だぞ! 俺はこの歌のように、めげずにとことんまでやるからな。覚悟しろよ!」
博也は歯を見せてニヤリと笑い、親指を立てると、博也が奏でた「ファイト!」のメロディーを口ずさみながらエレベーターに乗り込んでいった。
「ああ、教えるなんて言わなきゃよかったかな。相当手強い生徒になりそうだな……」
余計なことを言わなければよかったと博也はちょっと後悔したが、ピアノを通してまた新たな出会いがあったことが今は何よりも嬉しいと感じていた。
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