第13話 あなたに聴いてほしい曲

 月曜日の夕方、マンションでは、仕事が終わりくたびれた顔をしたサラリーマン達が、続々と玄関の中へ入って来た。

 戸村英二とむらえいじもその一人で、疲れ切った顔で玄関をくぐると、エレベーターへと一直線に足を進めていた。


「ふぁあ……うちの課長、もう少し手加減してくれたらいいのに。俺だって忙しいんだからさ」


 周りに聞こえない程度の声でぼやきながらロビーを歩いていたその時、見知らぬ女性の姿が突然、英二の視線の中に入り込んできた。背中まで伸びた少し明るめの茶色く長い髪、床に向かってふんわりと広がる白地に赤い花柄のワンピース姿、そして長い髪の隙間から見える目鼻立ちの整った美しい横顔……英二はすっかり気持ちを奪われてしまった。女性は、英二の少し先をコツコツとヒールの音を立てながら颯爽と歩くと、ピアノの前で歩みを止め、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


「初めて見た人だな……このマンションに引っ越してきたばかりなのかな?」


 好奇心に突き動かされるように、英二はロビーに置かれたソファーの陰から、ピアノの音のする方向をそっと覗き込んだ。


 女性は長い髪を手で描き分けると、ピアノの鍵盤に手を当て、ゆっくりと流れるように指を動かし始めた。

 鍵盤に深く強く指を押しあて、時には音を散らすようにアルペジオを奏で、さらには一オクターブ離れた音を同時に奏でながら、明るくきらめくような美しい旋律を作り出していた。

 英二はロビーの陰から、終始その姿をじっと見つめていたが、颯爽とピアノを演奏する姿、そして彼女の奏でる美しい旋律に、すっかり気持ちを奪われてしまった。


 翌日も、その次の日も、英二は帰宅時間に女性がピアノで美しい音色を響かせている姿に遭遇した。演奏する曲はいつも同じであるが、時折見せるちょっぴり憂鬱な横顔、耳元の小さなイヤリング、そして髪を束ねようとするときにみせる綺麗なうなじ……そのどれもが、英二の心を捕らえて離さなかった。

 女性を見つめながら呆然としていた英二の真後ろから、誰かがまるで英二にささやくかのように、小声で呟く声が聞こえてきた。


「ほう、今のはバダジェフスカの『乙女の祈り』だな。普通のOLさんにしては、なかなか演奏がしっかりしてるな」


 英二がふり向くと、博也が腕組みをしながらピアノの前に座る女性に目線を送っていた。


「す、すみません。今の演奏していた曲が分かるんですか?」


 英二は驚いた様子で博也に尋ねた。


「はい。初心者向けの曲なんですが、それなりに技術も要求されるので、弾きこなすのが結構難しいんですよね」

「あなたは、一体……」

「このピアノをこの場所に設置した西岡と言います。一応、ピアノの調律師をしております」

「調理師? コックさんなのに音楽詳しいんですね」

「いえ……こないだも間違われたんですが、私は調『律』師です。ピアノの音の調整の仕事をしてるんです」

「じゃ、ピアノに詳しいんですか」

「まあ、それなりに、ですけどね」


博也が頭を掻きながら照れ笑いを浮かべると、英二は神妙な顔つきで博也に語りかけた。


「ねえ、調律師さん。ピアノの話とは関係ないんだけど」

「どうかしました?」

「その……何というか……」

「一体どうかしたんですか?」

「僕、恋しちゃったかもしれないんです。あの人に」


 そこまで言うと、英二は突然真顔になり、強く口を押さえながら「ごめんなさい!」とだけ言って博也に一礼し、そそくさとロビーから去っていった。


 女性は、走り去った英二のことなど気にすることもなく、目を閉じたまま演奏を続けていた。

 やがて演奏が終わると、女性は天井を見ながら大きなため息をつき、椅子から降りようとした。


「すみません、ずっと聴かせて頂きましたが、素敵な演奏でしたね」


 博也は拍手をしながら、ソファーの陰から女性の方へと歩み寄った。


「いえ、どうも。素敵な演奏と言っていただいて光栄です」


 女性は博也の登場に驚きつつも、髪を揺らしながら嬉しそうに頭を下げた。


「このマンションにお住まいの方ですか?」

「はい。黒江早智子くろえさちこといいます」

「私は西岡博也、このピアノをここに置いた者です」

「え?そうなんですか!?」

「マンションに住んでる皆さんのために、このピアノが何か役に立つんじゃないかと思いましてね」

「ありがとうございます。私、実家にいた時はピアノが部屋に置いてあって、暇さえあれば練習したり、自分の好きな楽曲を弾いたりしてたんです。このマンションでは部屋が狭くて、自分の部屋にピアノを置く余裕が無くて。ここにピアノを置いて下さって、本当に感謝してます」


 女性はピアノを降りると、博也に一礼し、そそくさとエレベーターに向かって歩き出そうとした。


「今弾いてたのって『乙女の祈り』ですよね?」


 博也が早智子を呼び止めるように尋ねた。


「そ、そうですけど。それが何か?」

「この楽曲にこめられたエピソード、ご存知ですか?」

「え?知りませんけど」

「この曲はね、十九世紀、女性はピアノを弾きこなせることが結婚の前提条件とまで言われた時代に、簡単でかつきれいに弾きこなせるという理由で、多くの女性たちがこぞってこの曲を演奏したのだそうですよ」


 早智子は博也の言葉を何も言わずにじっと聞き入っていたが、やがて声を上げて笑いながら、大きく頷いた。


「アハハハハ、そうね。今の私も、きっとその一人なのかもね。ひょっとして、私の心を見透かしていたの?」

「いえいえ、私、単にこの曲の由来をお話しただけですけど……」

「こないだ長年付き合ってた人と別れて、心にぽっかり穴が空いちゃってね。その寂しさを埋めたくて、この場所での演奏を始めたんだ、ここで演奏すれば、音楽を通して、まだ会ったことも無い誰かと知り合えるような気がしたから」


 すると博也は、早智子を手招きし、耳元で話しかけた。


「実はですね、そんなあなたの心を埋めてくれそうな人が、このマンションにいるんですよ」


 ★★★★


 数日後、仕事帰りの時間帯、早智子がいつものようにピアノで『乙女の祈り』を演奏する音が、ロビーの中に響き渡った。英二は早智子の姿を遠目で見守ると、高鳴る胸を押さえつつ、エレベーターの中に乗り込もうとした。


「すみません」


 突然ピアノの演奏が止まり、女性の甲高い声がロビーの中に響いた。

 まさか、自分のことを?英二は半信半疑で後ろを振り向いたが、そこには早智子以外、誰も人影が無かった。


「僕、ですか?」


 英二は驚いた表情で、自分の顔を指さしながら早智子を見つめた。


「そうですよ」


 早智子は髪をかき上げると、白い歯を見せて微笑んだ。


「いつもここで私の演奏を聴いてくれてるんですよね?」

「まあ、そうですけど……」

「ありがとうございます。私の下手くそな演奏をじっと聴いてくれて。嬉しいです」

「いやいや、そんな」


 英二は、早智子の屈託ない笑顔と明るく弾むような声に気が動転しそうになったが、何とか冷静さを保とうとした。


「そんな遠目で見なくても良いですよ。ここに来て、じっくり聴いて下さい」

「い、良いんですか?」

「良いですよ」


 早智子は再び鍵盤に手を当て、流れるように手を動かすと、きらめくような明るい高音が旋律となって英二の耳の中に入り込んできた。


「もっと近くで聴いて良いんですよ」

「邪魔にならないんですか?」

「邪魔? そんなわけないでしょ。私、素直に嬉しいのよ! 私の演奏を足を止めて聴いてくれる人がいたことが、すごく嬉しくて」

「でも、その人が僕じゃ、ガッカリしちゃうんじゃないかと思って」

「ガッカリ?」

「だ、だって、こんなヒョロヒョロで頼りなさそうな男じゃ、あなたと釣り合わないじゃないですか」


 すると、早智子は笑いながら英二の手を掴み、早智子が座る椅子の隣に立たせた。


「私はね、私の演奏を聴いてくれるあなたに出会えたことが素直に嬉しいの。その人がヒョロヒョロでもデブでも関係ないわよ」


 早智子は立ち上がると、英二のすぐ目の前に歩み寄った。その目は大きく見開き、英二をじっと凝視していた


「私、黒江早智子っていうんだ。あなたの名前は?」

「僕、戸村英二といいます」

「これからもよろしくね」

「よ、よろしく」


 早智子は満面の笑みを浮かべながら、英二の手を握った。


「ぼ、僕、今日はこれで失礼します!」


 英二は信じられないことの連続で気が動転したのか、突然かしこまった表情で敬礼のポーズを取ると、エレベーターへと走り去っていった。

 英二が去った後、ソファーの陰から顔を出し、親指を立てて笑う博也の姿があった。

「良かったですね。あなたの『乙女の祈り』、彼に無事通じたみたいですね」

「そうね。彼とならきっとお互いの思いが通じるかもしれないね」

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