第14話 名曲は海を渡って

 仕事や学校でほとんどの住民が出払った平日の昼間、マンションの中は人の姿も少なく静まり返る一方、ロビーだけはやたら賑やかであった。

 三枝子と貞夫、澄子と昭三の老夫婦たちが、お茶を飲みながら会話したり、時にはピアノを弾いたりして、ゆったりと流れる時間を共有していた。

 最近は三枝子と澄子だけでなく、貞夫や昭三もピアノを弾くようになった。最初は両方の妻から言われてしぶしぶ弾いていたが、最近は率先して弾くようになり、いつのまにか妻たちよりも弾く時間が長くなっていた。

 今日は昭三が真っ先にピアノの椅子に座り、練習している楽曲の演奏を披露した。


「どうだい、澄子?俺もやればできるだろう?」

「そうね。でも、『さくらさくら』は、小学生の時に弾いた曲よ。もっと色んな曲を弾けるようにならなくちゃダメよ」

「いや、今はこれが精一杯だよ。もっと難しいのって言われても、楽譜読めないからなあ」

「楽譜は無くたっていいのよ。私があなたの傍について、厳しく教えますから」


 澄子が口をとがらせると、三枝子と貞夫は大きな声を上げて笑った。


「そういえば貞夫さんはお上手よね? こないだ、谷村新司の『昴』を弾いたからすごいと思ったわ」

「ああ、この曲、僕のカラオケの十八番なもんで、頭の中にメロディーが染み付いてたからかな?」

「たとえカラオケでも、ちゃんとメロディーを覚えているのはすごいわよ。ねえ貞夫さん、また弾いてちょうだい。ね、三枝子さん、いいでしょ?貞夫さんに演奏してもらって」


 澄子の気持ちに押された三枝子は、「少しだけなら」と言って苦笑いした。

 貞夫は照れ笑いを浮かべると、背筋を伸ばして椅子に座り、『昴』を弾き始めた。

 途中音階を忘れ、立ち止まることはあるものの、一つ一つの音は力強くしっかり繋がって、旋律となって聴く人たちの耳に入って来た。

 演奏が終わると、周りから大きな拍手が沸き起こった。


「素敵な演奏ですね」


 その時突然、オールバックにした白髪と、顎に髭をたくわえた初老の男性が拍手しながら微笑みながらピアノの前に立ち、貞夫に声を掛けた。エンブレムの付いた紺のジャケット、しわのないシャツ、スリムなズボンは、誰の目から見ても品の良さを感じ取れるものだった。


「僕はこのマンションに住む、奥山征三おくやませいぞうといいます。僕もピアノを弾くのが好きでね。以前から皆さんが弾いてるのを見かけて、気になってたんで、声をかけちゃいました」


 征三は貞夫が椅子を降りたのを見計らって椅子に腰かけると、鍵盤の上でなめらかに指を動かした。

 流れてきたのは、シャンソンのような、ジャズのような、のんびりと心地よい演奏であった。


「すみません、今のは日本の曲ですか?」

「いえいえ、これはね「カンツオーネ」というんです。『海に来たれ』というイタリアの民謡です」

「イ、イタリア?」

「僕は若い頃貿易船で仕事をしていましてね。ヨーロッパやアメリカにもよく行きました。世界の各地でいろんな音楽を聴きましたが、船乗りの仕事をしている僕が一番心に染みたのが、この曲だったんです」


 曲はワルツのように単調に進みつつも、時には感極まったように一気に高音へと上りつめた。


「長い海の上での生活で、退屈な時によく口ずさんでいました。海の上で歌うにはもってこいの曲でしたよ」


 征三は演奏を終えると、満足げな表情で椅子から降りた。

 あまりにも美しい演奏に時間が経つのを忘れてしまった老夫婦たちは、ロビーに響き渡るほどの大きな拍手を送った。


「みんなで船旅でもしてる気分になれたわね」

「そうだね。船で世界一周でもしたくなるわね。さ、あなたも一緒に、お茶でもどうですか?」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 征三はソファーに座ると、老夫婦たちと一緒にお茶を飲み始めた。

 征三はお茶を少しずつ口にしながら、再び曲にまつわる思い出話を語りだした。


「実はこの曲には、もう一つ忘れられない思い出があるんですよ」

「え?」

「ナポリの酒場で飲んでたら、その店の歌姫といわれたマリアという女性が僕のすぐ近くで歌ってたんですよ。僕ね、その子に一目ぼれしちゃって、酔った勢いも手伝って、一緒に唄いたいってお願いしちゃったんですよ。そしたら、彼女、僕のすぐ隣でこの曲を歌ってくれたんです」

「すごい! で、その方とは結ばれたんですか?」


すると征三は咳ばらいをして、ちょっと極まりの悪そうな顔で語りだした。


「一緒にレストランに行ったり、買い物に行ったり。そんなことするうちに、僕らは恋仲になった。でも、僕らの船の出航の時間は刻一刻と迫っていた。僕は、その前に僕の気持ちを伝えようとした」


 老夫婦たちは、前のめりになって征三の話に相槌を打った。


「僕が日本に帰ると告げた後、大泣きしてしまいまして。帰らないでって」

「ええ? そのままイタリアに?」

「仕事を辞めてナポリに残ろうと真剣に考えました。でも、上司や仲間に慰留され、結局は帰ることになりました。出航の日、僕はマリアの手を取って、また逢おうなって、無責任な言葉を残して船に乗り込んだ。その時、彼女は突然、僕の目の前で、この歌を唄ってくれたんです。真っ青な空に向かって、艶がある甲高い声でね。僕は涙が止まらなかった。彼女も涙を流していた。船はどんどん港を離れて行った……いけない、今思いだしても、涙が出てきそうだ」


 感極まって流れ出た涙を、征三はズボンのポケットから出したハンカチでそっと拭った。三枝子と澄子も、釣られるかのように目に涙が溢れていた。


「あら、征三さんここにいたの?どうしたの?涙なんか流しちゃって」


 その時、ソファーの後ろからすらりとした背の高いグレーの髪色の女性が現れ、そっと征三の肩に手をかけた。


晴代はるよ、ごめんな。昔の話をしてたらつい涙が出てきちゃってね」

「またナポリの話? あなた、いつもその話をするときには涙流すのね。私と出会う前、今から何十年も前の話なんでしょ?」


 晴代という名前の女性は、どうやら征三の妻のようだった。

 首にスカーフを巻き、格子柄のシャツにスラックス風のズボンを着こなす、征三に負けず劣らずの高貴な印象の女性だった。


「あ、皆さんに紹介します。僕の妻の晴代です。こう見えても、昔は歌手だったんですよ」

「ええ? か、歌手ですか?」

「そんな大したものじゃないです。レストランやクラブとかで唄ってただけですよ」

「僕ね、マリアと別れてからすっかり意気消沈していたんですけど、帰国後に同僚が僕を慰めるために連れてってくれた横浜のクラブで、晴代が唄ってたんですよ。そう、『海に来たれ』をね」


 すると、晴代は照れ笑いをしながら「余計なことを言わないでよ」と征三の耳元でささやいた。しかし、征三は「照れることないだろ? 本当の話だし」と言って、晴代の話など気にもしていなかった。


「晴代の声は、マリアそのものだったんだ。というか、マリアが晴代になって、日本に来たんじゃないかって勘繰ってしまうほど、瓜二つに見えたんだ」


 目を閉じて腕組みしながら語り続ける征三を見て、晴代は呆れ顔で呟いた。


「この人ね、歌ってる私の方を見て『マリア!』って叫んでたのよ。周りのお客さんもバンドも笑いながら私とこの人のことを見ていたの。本当に恥ずかしかったわ」

「だ、だって、あの時はお前がマリアに見えたんだ。マリアがなぜここに居るんだって」

「本当に呆れて物が言えなかったわ。でもね、その後も足繁く私の店に来たのよ。そして、楽屋の前で待ち伏せして私に告白したの。『マリア、これからもずっと俺の傍に居てくれないか?』って」


 晴代が記憶を辿りながらしみじみと語ると、澄子は目を輝かせ、まるで懇願するかのように両手を合わせながら晴代の傍に近づいてきた。


「晴代さん、素敵なお話をありがとう。ねえ、晴代さんの歌、聴かせて頂けるかしら?旦那さんが惚れ込んだ歌声、私たちも聞いてみたいわ」

「じゃあ、久し振りに歌おうかしら。ね、征三さん、ピアノ弾いてもらえる?」


 征三は嬉しそうに頷き、演奏を始めると、晴代は目を閉じて大きく深呼吸し、息を吐きながらゆっくりと歌いだした。

 イタリア語でのびやかに歌う晴代の声……それは、征三が恋したマリアの声だったのだろう。征三が思わず惚れ込んだという思い出の歌は、温かくて情感が溢れ、聴く人の心を旅へといざなうかのようだった。

 演奏が終わると、割れんばかりの拍手がロビーを包み込んだ。


「素敵な曲と思い出話をありがとう」

「いえ、ここにあるピアノと、話を聞いて下さったあなた方がいたことに感謝します」

「これからもこのピアノで、色んな曲を聴かせてくださいね」

「ありがとうございます。征三さんのピアノがもっと上手ければいいんだけどね」

「何を言ってるんだい?君の歌声のために、これからもっと練習するつもりだよ。な、マリア」

「私はマリアじゃありませんよ。晴代ですよ、は・る・よ。いい加減、名前を憶えて下さいな」


 晴代の冷たく釘をさす言葉に、ロビーの中には大きな笑い声が響き渡った。



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