第15話 思う通りに弾いてごらん

 土曜日の夕方、幼い子どもを連れた若い夫婦たちが続々と外出から帰ってきた。

 最近は沢山の習い事を掛け持ちする子が多いが、このマンションの子ども達もその例外ではなかった。単純に趣味や興味本位でやっている子もいれば、全国規模の大会に出るために必死に練習する子もいるようだ。

 マンションに住む小学六年生の平瀬美織ひらせみおりもその一人であった。


「美織、いよいよ明日だからね。家に帰ったら、もう一度今日のレッスンのおさらいするわよ」

「うん。ママ」

「ここで甘えて手を抜いて、後で悲しい思いをするのは、他ならぬあなたなんだからね」

「……わかってるよ」


 美織の母親・はるかは娘をピアニストにしたい一心で、幼稚園の頃からピアノのレッスンに通わせていた。海外でピアノを学んだ現役ピアニストに師事し、難しい楽曲にも果敢に挑戦してきた。二人が目指すのは、年に一度行われる全国規模のピアノコンクールである。このコンクールでの入賞者は、大人になってピアニストとして成功した人が多く、はるかは美織がこのコンクールに入賞することが、ピアニストになるための近道だと信じていた。

 コンクールが間近に迫り、美織は夕食の時間以外、課題曲であるフンメルの『ロンド』を自宅のピアノで練習していた。はるかはDVDで模範演奏を見ながら聴き比べ、少しでも違うと容赦なく怒声を上げた。


「ねえ美織、今のパート、こないだやり直したばかりじゃない? どうしてまた間違ってるのよ? ライバルが多いんだから、一つの間違いが命取りなのよ!」

「だ、だって……ほんの少しでも間違わないで演奏なんて、無理だよ」

「無理? 今、そんなこと言ってる暇あるの? 無理だと思うなら、その分練習しなくちゃ克服できないわよ」

「うん……」


 はるかは鬼のような形相で、美織を容赦なく叱り飛ばした。

 美織は涙を拭いながらも、指摘された部分をはるかが納得するまで何度も繰り返して演奏した。


「よし、練習はこれでおしまい。明日は本番だから、早く寝なさいね」


 美織がようやく間違えず一通り弾きこなすと、はるかは満足したのか、練習を打ち切った。美織はぐったりした表情で楽譜を閉じ、そのままベッドに倒れ込んだ。

 明日でコンクールが終わる、そしたらこの地獄のような練習の日々からは解放される……美織はそう信じて歯を食いしばって耐えてきた。しかし、美織は不安で胸がいっぱいだった。本番では間違えずに演奏できるのか? もし間違ってその結果コンクールで入賞を逃したら、はるかに何を言われるか……考えただけでも怖くて、涙が止まらなかった。


『このまま逃げてしまえばいいじゃん。逃げちゃえば、もうこんな苦しい思いをしなくてすむんだよ』


 その時突然、美織の耳元で女の子のささやくような声がした。


『まずは表に出てみようよ。大丈夫、あんたのお母さんはお風呂に入ってて、あんたが出かけたことなんか気づかないよ』


 美織は驚き、布団から顔を上げると首を左右に振って辺りを見渡した。


「一体誰なの?」


美織の部屋は壁を隔てて廊下に面しているが、その声は壁の向こう側から聞こえてきた。


『何でボケっとしてるの。そのうちお母さんに気づかれるよ。さ、早く、今のうちだよ!』


 謎の声に急かされるように美織はカーディガンを羽織ると、そっと入口のドアを開閉し、気づかれぬように忍び足で廊下に出た。しかし、声の主らしき人影はどこにもなかった。

 美織は声の主を探そうとエレベーターに乗り込んだ。そしてドアが開いた瞬間、美織の耳に軽快でリズミカルなピアノの音色が入ってきた。

 美織はピアノの音のする方向を見ると、ロビーに置いてあるピアノの前に、美織と同じ位の歳と思しき少女が座り、一心不乱に鍵盤の上で指を動かしていた。上品な茶色のビロードのワンピースを着こみ、編み込んだおさげ髪を揺らす古風な印象の少女は、目を閉じながら器用に指先を動かしていた。


「この曲……フンメルの『ロンド』?」


 そう呟いた美織の声が届いたのか、少女は演奏を止め、美織の方を振り向いた。

 少女は微笑むと、「その通り、よく知ってるね」と言って、スカートのすそをつまみながら椅子を降りた。


「すごく上手ね!この曲、明日のコンクールの課題曲だよ」

「へえ、コンクールに出るの?」

「うん。だって、うちのお母さんが私のことを将来ピアニストにしたくて、そのためにもコンクールには絶対入賞しなさいって言われてるの」

「ふーん、ピアニストねえ」


 少女は顎に手を当てると、しばらくの間考え込んでいた。


「ねえ、このピアノで演奏してくれる? コンクールに出る位、上手いんでしょ?」

「……コンクールに出るって言っても、あなたほど上手くは弾けないもん。それに今、楽譜が持ってきてないし。楽譜には先生やお母さんからのアドバイスが書いてあるし、途中でどう演奏して良いか分かんなくなって、詰まっちゃうだろうし」

「そんなことはどうでもいいんだよ。私はあなたの『ロンド』が聴きたいの」


 少女はそう言うと、美織の袖を引っ張り、椅子に座らせた。


「ちょ、ちょっと! 強引じゃない?」

「いいから! さ、早く!」


 必死に演奏を嫌がる美織のことなどお構いなしに、少女は睨みつけながら美織に演奏するよう急かした。少女は見た目の清廉さと違い、性格はかなり強気で男勝りのように感じた。


「そ、そんな怖い顔しないでよ。じゃあ、一度だけね!」

「ありがと。じゃ、お願いしまーすっ」


 少女はピアノの横に立つと、腕組みしながら美織の演奏する様子をじっと見つめていた。

 美織は突然演奏をせがまれ、楽譜もなく上手く演奏できるかどうか不安がよぎったが、目を閉じ、胸の高鳴りが静まると同時に『ロンド』を演奏し始めた。

 途中のパートを忘れて何度か演奏が止まったが、少女は気にする様子もなくじっと美織の様子を伺っていた。


「ね? こんな途切れ途切れの演奏、聴いてて不愉快でしょ? あなたの方がずーっと上手く弾いてたもん。途中だけど、明日はコンクール本番だし、私はこれで終わるから」

「だーめ! 最後まで続けてっ!」

「最後まで?」

「そう! 最後まで」


 美織は腰に手を当て睨みつける少女を見て、やりきれない表情で中断した所から再び演奏を始めた。所々思いだせず途切れがちに演奏していたが、悪戦苦闘しながら弾き続けるうちに美織はあることに気付いた。


「あれ? 『ロンド』ってこんな曲だったっけ?」

「でしょ?」


 少女は美織の言葉を聞いて、ニヤリと笑った。


「こんな優しくて爽やかな曲だったかな? 先生やお母さんは技術的なことばかり言うから、演奏する時はいつも技術のことばかり気をとられてたけど」


 ようやく最後まで弾き終わると、美織はため息をつき、額を拭った。


「今みたいに肩に力を入れず、あなたの思う通りに演奏をすればいいのよ。たとえ詰まってもいいじゃん? 間違えてもいいじゃん? 技術なんて関係ない。何も恐れる必要なんか無い。私、あなたの今の演奏が好きだよ」


 そう言うと、少女は「じゃあね」とだけ言って、長いスカートを揺らしながらロビーから立ち去ろうとした。


「あ、あの。あなたの名前は?」

「ああ、ごめんね。まだ名前言って無かったよね。千絵ちえっていうの。じゃあね」


 そう言うと、千絵と言う少女はエレベーターに乗り、美織の前からあっという間に姿を消した。

 美織はピアノの前で呆然と立ち尽くしていたが、千絵の言葉がずっと頭から離れなかった。そして再びピアノの前に座ると、『ロンド』を演奏し始めた。


「詰まってもいいじゃん、間違ってもいいじゃん……か」


 ★★★★


 翌日、無事にコンクールを終えた美織は、はるかと一緒にマンションへ戻ってきた。

 美織の片手は、賞状の入った黒い筒をしっかりと握っていた。


「美織、おめでとう。これで一流ピアニストへの足がかりが出来たわね」


 はるかは美織の頭を優しく撫でたが、ちょっとだけ不満げな顔をしていた。


「でもさ、私や先生があれほど練習で繰り返したことをほとんど守らないで演奏したのに、入賞するなんて。一体どういうことなの?」

「さあ……どうしてかな?」


 美織はとぼけた表情で答えた。

 その時二人は、エレベーターの入口でおさげ髪の少女とすれ違った。


「あれ、あの子……まさか、飯沼千絵いいぬまちえちゃん?」

「お母さん、知ってるの?」

「数々のピアノコンクールの小学生部門を総なめにして、海外のコンクールにも出場したのよ。将来を嘱望されてて、ピアノの専門雑誌でもインタビュー受けてたよ。まさか、このマンションに住んでたなんて、すごい!」


 はるかは尊敬のまなざしで、すれ違う千絵の後ろ姿を追っていた。

 その時千絵はわずかに後ろを振り向くと、美織に向かって「やるじゃん」と小さく声を掛けながら、そっと親指を立てた。

 美織は千絵の声に気づくと、千絵と同じ位小さな声で「ありがと」と言って笑い、胸元でそっと親指を立てた。

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