第16話 都会の片隅で花は咲く
友美恵はいつものように夕食の買い物を終え、マンションの自室へ戻ろうとしていた。平日はマンションのロビーを行き交う人も少なく寂しく感じていたが、今日は
静寂を切り裂くかのように、玄関から誰かが大声でわめき立てる声が聞こえてきた。
「
「何言ってんだよおふくろ、ずっと部屋にいて、何もせずテレビ見てるだけじゃ、痴呆が進んじまうぞ。たまには外出したほうが、気分転換になるんだからさ」
「イヤだ! 電車も街も人ばっかりで、疲れっちまうんだもん」
中年男性に手を引かれた白髪の老女が、絞り出すような声でわめき散らしていた。
男性は老女をなだめていたが、老女は首を横に振り、聞く耳を持たない様子だった。
すると、男性は友美恵の視線に気づくと、頭をかきながら苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさいね、おふくろの声がうるさくて」
「私は大丈夫ですけど、お母さんは大丈夫? なんか浮かない顔してたけど」
「良いんですよ。普段はずっと自宅にいるんで、たまにこうして連れ出さないと、本人のためにも良くありませんから。あ、エレベーターが着いたんで、失礼します。ほら、おふくろ、行くぞ!」
そういうと、男性は老女の手を引っ張りながら、エレベーターに乗り込んでいってしまった。老女のわめき散らす声は、その後もエレベーター越しに友美恵の耳に入って来た。
数日後、買い物帰りの友美恵がロビーを通り抜けると、誰かがピアノの前に座り、演奏している姿が目に入って来た。今日は誰が演奏してるんだろう?友美恵は興味津々に近くまで歩み寄った。
ピアノの椅子に座っていたのは、先日息子らしき男性に引き連れられていた白髪の老女だった。老女はぎこちない手つきで鍵盤を一つ一つ確かめるように押しながら演奏していた。友美恵はソファーの陰からそっと見つめると、鼻歌で何か歌を唄いながら、そのメロディにあう音を鍵盤を押しながら探っている様子だった。
「こんにちは」
「何だい?」
「何か弾いてるんですか?」
「たいぐつだがら、ピアノでも弾いでみっかと思ってよ」
老女の言葉には、強い訛りがあった。顔は日に焼け、手は農業か工業に関わる人達のようなごつごつした感じがしていた。
「おばあさん、どこから来たの?」
「おらが? 福島だよ」
「福島?」
「んだ。去年旦那が死んじまってよ、このマンションに住んでる息子が『母ちゃん一人にはさせられねえ』って言って無理やり連れてこられたんだわ」
「ふーん、そうなんだね」
老女は再び歌を唄いながら、必死に鍵盤を押し続けていた。
しかし、鼻歌の音に合う鍵盤が見つからず、なかなか曲としてまとまらないことに、徐々に焦りを感じている様子だった。
「あ~わがんね! どうやりゃいいんだべ?」
老女は困り果てた様子で友美恵の顔を見つめた。
「おばあちゃん、私が隣で演奏するから、今の曲、唄ってくれるかしら?」
「あんた、ピアノ弾けんの?」
「ほんのちょっとだけどね」
友美恵は立ったまま鍵盤に手を当てると、ゆっくりと指を動かし始めた。
老女は友美恵の流れるように美しい旋律に乗り、かすれた声を高らかに張り上げながら唄い始めた。
『花は 花は 花は咲く 私は何を残しただろう~』
唄い終わると、老女は胸を押さえながら満足げな表情を浮かべていた。
「何だいあんた、上手いんでねえの。どごがちょっとだけだよ?」
「あははは、まあ、ちょっとだけピアノを習ってたことがあるってことだよ」
「おら、若い頃、習い事なんてやらせでもらえねがったよ。歳を取って、自分の子どもがおっきぐなって、やっと地元のコーラスサークルに入ったんだ。唄うのが好ぎだったがらよ」
「そうなんだね。コーラスサークル、楽しかったでしょ?」
「まあ、楽しかったな。でも、それも震災のとぎまでな」
老女は椅子から立ち上がると、曲がった腰に手を当てながら目を閉じて語りだした。
「おらは
友美恵は、頷きながらリツという老女の言葉に聞き入っていた。
「だから、リツさんはこのピアノが目についたんだね。もう一度唄いたいって思って」
「んだ。ピアノが弾ければ、仲間がいなくでも自分で唄えるもん。でも、全然やったごとないがら、わがんねくてよ」
「じゃあ、一緒に弾こうか? 私も弾くから、リツさんは私の言う鍵盤を弾いてくれる?」
「え? おら、全然自信ねえよ」
「いいから一緒にやろうよ。さ、そこに座って」
友美恵はリツを椅子に座らせると、隣に立ち、鍵盤を押しながら、リツの手を握って押す鍵盤を触らせた。
「私がこの音を出す時は、この鍵盤を押して。そう、左から五番めかな」
友美恵は、鍵盤から鍵盤へとゆっくりと指を動かし、同時にリツの指を支えながら、一緒に押す鍵盤を押した。
「こごを押せばいいのがい?」
「そうだよ。あわてないで、一つずつやろうね」
どれくらい時間がかかっただろうか。友美恵はようやく「花は咲く」の一通りの演奏を教えることができた。年老いたリツに演奏を覚えてもらうのは想像以上に難作業で、終わった時にはさすがの友美恵も疲れ果ててしまった。しかしリツは全然疲れた様子も見せず、練習が終わった時、満足げな表情で友美恵をじっと見つめていた。
「ありがとな。こんな年寄りに教えるのは大変だったべ?」
「そ、そんなことないですよ。リツさんが一生懸命覚えようとしてるんだもん、私も頑張って教えなくちゃリツさんに失礼でしょ」
「気なんか遣わなくてもいいでば。物忘れが激しいのは自分でもよぐ分かってるから。でもな、おら、この歌は絶対に覚えたいって思ってるの。唄ってるうちに、自分の住んでた町のことどが、一緒に唄った友達のことどがが、目の前にわーっと蘇ってくるんだもん」
「そうなんだね……」
友美恵は、しみじみと想いを語るリツの背中を見て、教えることの大変さばかり気を取られていたことを気恥ずかしく感じた。
「お姉さん。悪いんだけんども、明日もこのピアノで教えてくれっがい?今日覚えたところ、きっとまた忘れっちまうがらよ」
「そうね。じゃあ、また明日、この時間でいいかしら?」
「ありがとな。ここで待ってっからよ」
リツは大きく目を見開いて笑うと、頭を下げ、腰を曲げながらゆっくりとした足取りでエレベーターに乗り込んでいった。
「ふう……一つ一つ手取り足取り教えるのは、結構しんどかったなあ。でも、リツさんの笑顔のためにも、辛抱強くお付き合いするしかないのかな」
友美恵は額の汗をぬぐうと、床に置いたままの夕食の食材の入ったエコバックを抱え、大きくため息をついた。
☆★☆★
リツが友美恵からピアノの手ほどきを受けてから一ヶ月ほど経ったある日、リツの息子・哲夫が仕事を終え、ロビーを通ってエレベーターに乗り込もうとしたその時、一人でピアノの前に腰かけ、鍵盤の上で必死に手を動かすリツの姿を見つけた。
「何やってんだよ、おふくろ!」
息子の哲夫は慌ててリツの傍に駆け寄ると、リツを椅子から降ろそうとした。
「こんな所座って何するんだよ。迷惑になるだろ?さ、降りろよ」
「何すんだ哲夫、おら、これから曲を弾こうとしてんだ。お前にも今から聞がせてやっから、そこに座って黙って聴いてろ!」
「はあ? おふくろ、またボケがひどくなったのか? ピアノなんて弾いたことあんのかよ?」
するとリツは、ぎこちないながらも一生懸命指を動かし、『花は咲く』の旋律を奏で始めた。
「おふくろ……いつも部屋で一人で唄ってる曲だろ、これって」
哲夫はかけていた眼鏡に手を当ててリツを凝視しながら、演奏に聴き入っていた。
「どうだい? おらもやればでぎっぺ?」
「ま、まあな。すげえな、おふくろ」
リツは得意げな表情でピアノの蓋を閉じると、哲夫の前でピースサインを出した。
ちょうど目の前を通りかかった友美恵は、得意げな顔で笑うリツを見て、思わず拍手してしまった。
「姉さん、ありがとな! この歌がある限り、おらの中に故郷の町が生ぎ続けっからよ」
「そうね。でも、いつか本当に故郷に帰れるといいよね」
「まあな……いつかは、な」
リツは友美恵の言葉に一瞬表情を曇らせたが、しばらくすると笑みを浮かべて友美恵の前で一礼し、手を振りながら哲夫と一緒にエレベーターに乗り込んでいった。
「最後、余計なこと言っちゃったかな……」
友美恵は、不用意な一言を深く反省した。
リツの故郷の復興はこれから徐々に進むだろうけど、リツにとっての故郷は、「花は咲く」を唄っている時に、目の前に浮かんでくる風景なのだから。
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