第17話 家族になる君へ
日曜日の昼下がり、引っ越し業者が慌ただしく荷物を荷台から降ろし、次々とエレベーターの中に運び込んでいった。
その様子を、
「父さん、今日からいよいよ家族が一人増えるんだね」
「ああ、僚にとって待望の妹ができるんだ。
「そうね。さっき見たら、部屋の片付けをしていたわ」
「じゃあ、俺たちも手伝わないとな」
匡史は腕まくりし、意気揚々とエレベーターに乗り込んでいった。静と僚もそれに続いた。部屋に戻ると、すでに引っ越し作業は終わり、荷物は穂乃花の部屋の片隅に積み上がっていた。
「おーい、穂乃花! もう作業は終わったのか? まだならば、俺たちで手伝うぞ」
しかし、穂乃花からは何の返事も無かった。
穂乃花は、部屋の隅に置かれたベッドの上にうつむいたまま座り込んでいた。
「ほのちゃん、私たちに出来ることがあるなら何でも言って。もう私たちは遠い親戚じゃなくて、同じ家族なんだからね」
静が微笑みながら優しく声を掛けたが、穂乃花はずっとうつむいたままだった。
「穂乃花ちゃん、これからは、穂乃花ちゃんのために良い兄貴になろうと思うから、よろしくな」
最後に僚が穂乃花に語り掛けたが、穂乃花は何の反応もせず、顔を真横に背けた。
「さ、今日から私たちは家族なんだからさ。これから一緒に夕食でも食べましょ」
静は湿りがちな雰囲気を変えようとしたが、穂乃花は「いらない」とだけ言うと、三人の間を割るように部屋を通り抜けて、外へと出て行ってしまった。
「おい、穂乃花ちゃん! どこに行くんだよ」
穂乃花は無言のままマンションの廊下を走り去ると、エレベーターに乗り込み、一階へと降りて行った。ドアが開くと、穂乃花はロビーの隅に置かれたピアノを発見した。穂乃花はピアノの前に駆け込み、椅子に座るやいなや、勢いに任せるかのように思い切り鍵盤を叩き始めた。力強く迫力のある演奏が、ちょうどエレベーターを待っていた博也と友美恵の耳にふっと入り込んできた。
「ねえ博也。あの子、すごく上手よね。ちょっと聞いていかない?」
一心不乱に鍵盤を強く叩き、胸に迫りくるかのような迫力ある演奏に、友美恵はあっという間に心を奪われた。弾き終わると、穂乃花は息を切らしながらしばらく呆然とした表情でピアノの前に座っていた。
「すごいね。ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』でしょ? すっごく上手だね」
二人で穂乃花に拍手を送っていたその時、背後から、匡史と静と僚の三人が息を切らして駆け寄ってきた。
「あ、あそこにいた! おーい、穂乃花ちゃん。どこに行ってたんだ? 夕飯だぞ、皆で食べようよ!」
しかし穂乃花はうつむいたまま、椅子から動こうとしなかった。
「ほのちゃん。グラタン大好きでしょ? 今日は美味しいポテトグラタン用意したんだよ」
「いらない」
「え?」
穂乃花は会話を遮るかのように、再び「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏し始めた。
「おい! 聞いてるのか? 夕飯だから帰るぞ!」
「勝手に食べてて。私は後で食べるから」
「どうして? 今日はほのちゃんの歓迎会も兼ねてなんだから、ね? 行こうよ」
「だから後で食べるって。早く帰ってよ!」
「いい加減にしろ!」
匡史は片手を振り上げ、穂乃花の頬を思い切り叩いた。穂乃花は演奏を止め、頬を押さえたまましばらく黙っていた。
「お前は今日から俺たちの子なんだ。だから、言うことを聞かないならば容赦なく怒るぞ、分かったか!」
上から睨みつける匡史を、穂乃花は目を思い切り見開いて睨み返すと、椅子から立ち上がり、玄関へと歩き去っていった。穂乃花は玄関の前で立ち止まると、大きく息を吸い、吐き出すように叫び出した。
「私はあんた達を家族だなんて全然思ってないからね。私の気持ちも知らないで、勝手に家族にしないでよ!」
穂乃花は表に飛び出すと、そのままどこかへ走り去ってしまった。
「ほのちゃん! どこに行くの?」
静は涙声で叫んだが、穂乃花は再び戻ってくることは無かった。
「一体どうしたんですか? あの子は皆さんの家族じゃないんですか?」
「穂乃花ちゃんは私たちの養女なんです。実の両親は離婚してお母さんが親権を持ってるんですが、収入が少なくて一人じゃ養える状況じゃないんですよ。なので、穂乃花ちゃんを親戚である私たちの所に養女に出すことになったんです」
匡史はそう言うとため息をつき、困惑した表情で到着したエレベーターの中に乗り込んだ。静は顔を押さえ泣き出してしまい、僚が静の肩を支えながら一緒にエレベーターに乗り込んでいった。
残された博也と友美恵は、心配そうな様子で三人の背中を見届けた。
「困ったわね。最初からこんな感じじゃ、先が心配よね」
「ああ、あの子の気持ちを開かせるのが難しそうだな……」
★☆★☆
翌日、学校帰りの僚がロビーでエレベーターを待っていると、穂乃花が制服姿のまま一心不乱にピアノを弾いている姿があった。僚はしばらく演奏に聴き入ると、背後から穂乃花に近づき、拍手を送った。
「穂乃花、相変わらず上手いな。というか、上達したよな。穂乃花のピアノ、親戚みんな絶賛してたぞ」
僚は笑顔で話しかけたが、穂乃花は突然演奏を止め、ムッとした表情で椅子から立ち上がると、床に置いたかばんを拾い、肩をいからせてエレベーターに乗り込んでいった。
「お、おい。ちょっと話しかけただけだろ?何もそんな怒らなくったって……」
僚がため息をついて穂乃花の背中を見送っていると、背中から買い物袋を抱えた友美恵が僚の背中を叩いた。
「こんにちは」
「あ、あなたは昨日の……」
「彼女、相変わらずなの?」
「そうなんです……ホント、一体どうしたらいいのか」
僚はピアノに視線を向けると、顎に手を当てながらしばらく考え込んだ。
「俺、ピアノに挑戦してみるかな」
「お兄さんが? 失礼ですがピアノを弾いたことは?」
「うーん、ないっスね」
あっさりとした僚の答えに友美恵はよろめいた。
「穂乃花は幼い頃からピアノが好きだったんですよ。俺たちの前で覚えたての曲を得意げに披露してくれてね。だから、穂乃花の心を開かせるには、まずは俺が彼女の趣味を共有することで、少しでも彼女の心に近づくのがいいのかなって」
「お兄さん、偉い! よし、じゃあ私が頑張って教えるから、しっかりついて来て!」
「で、でも、俺、両手を使って演奏するのはまだ全然無理ですから。片手ですぐ弾けるような優しい曲を教えて下さいね」
「大丈夫、良い曲があるわよ、お兄さんにとっても、そして穂乃花ちゃんにとってもね」
「え?」
☆★☆★
数日後、学校帰りの穂乃花がいつものように制服姿でピアノの所へやってきた。
かばんをロビーのソファーに置き、ピアノに目を遣ったその時、僚がにこやかな顔で椅子に座っていた。
「待ってたよ、穂乃花ちゃん」
「僚君?」
「そうだよ。俺最近ピアノを始めたんだ。これから弾き語りするから、ちょっとだけ聴いてくれるかな?」
「というか僚君、ピアノ弾けたっけ?」
「いいから聴いてくれよ。さ、行くぞ」
僚は鍵盤に手を置くと、ゆっくりと指を動かし始めた。
所々つまづきながらも、優しく穏やかな旋律が穂乃花の耳に入ってきた。
「この曲……どっかで聞いたことあるなあ」
「そうだよ、福山雅治の『家族になろうよ』」
僚は歌いながら、友美恵に教わった通りに鍵盤を叩いた。まだ両手を使った演奏はできないものの、片手で一つ一つの音階を確かめるように弾き続けた。順調に演奏を続けていた僚だが、途中、音階が分からなくなり、演奏が止まってしまった。
「ねえ、無理しないでいいよ。まだ覚えたばかりなんでしょ? この曲」
「ああ。でもさ、これ、穂乃花に今一番聞いてほしい曲だから。一歩ずつでいい、無理しなくてもいい。俺たちを信じて、一緒に暮らしてほしいから」
「……」
その後穂乃花は何も言わず、僚の演奏する姿をずっと見守っていた。
「終わった……。ふう、やっぱ難しいわ。ピアノで弾き語りするのは」
すると、穂乃花は突然口元を押さえ、声を出して笑い始めた。
「な、何かおかしいのかよ?」
「あははは、片手でピアノを弾きながら弾き語りするなんて、私にはちょっと出来ない芸当かも」
「ば、バカにしてんのかよ!?」
穂乃花はいきり立つ僚の顔を見て笑いを止めると、ちょっとだけ真顔に戻り、小さな声でつぶやいた。
「ごめんね。まだ実家のお母さんのことが忘れられなくて……時間はかかるだろうけど、少しずつでも僚君の家族になれたらいいなって思ってるから」
「穂乃花ちゃん……」
「ねえ、この曲、今よりもっと上手くなってからまた演奏してくれるかな?」
「え?」
「上手くなるまで、私が隣で教えてあげるからさ、ね?」
そう言うと穂乃花は僚に向かってウインクし、ソファーに置いていたかばんを抱えてエレベーターに乗り込んでいった。
「まあ、ほんのちょっとだけど、彼女の心の扉は開いたのかな?」
僚は穂乃花の背中を見送ると、髪の毛をいじりながら照れ笑いを浮かべた。
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