第18話 たそがれのジャズメン

 夜もまだ明けない早朝、サックスの入っている黒いキャリーケースを背負った木下銀次きのしたぎんじは、マンションの玄関にたどり着いた。都内のライブハウスでの演奏を終え、仲間と反省会とは名ばかりの酒盛りをして、気が付くと表の空が白み始めていた。新聞配達の若者を横目に、銀次は大きなあくびをしながらロビーの中に入った。


「はあ……今日もしこたま飲んだなあ。演奏は全然ダメだし、ライブは全然盛り上がらなかったけど」


 そう言うと、銀次はロビーに置かれたソファーに座りこんだ。頭をソファーの中に埋めながら、酔いが回って誰かに殴られた後のように痛い頭を抱えながら、銀次は大きくため息をついた。


「俺、本当にいつまでもこのままで良いのかなあ?」


 ジャズバンドでサックスを担当する銀次は、ほぼ毎晩のように都内のライブハウスで演奏していた。大学のジャズ研究会の仲間で結成したバンドであったが、プロに一目置かれ、大学卒業後すぐデビューを果たした。専門雑誌などで実力が評価されていたが、プロとして多忙な日々を送るうちに、かつてのように十分な練習をすることも新しい境地に挑戦することもなくなり、次第に行き詰まるようになってきた。

 ソファーのやわらかい感触に包まれながら、銀次は次第に意識が遠のき始めた。


「ちくしょう、このソファー、すごく気持ちいいなあ。このままここで寝ちゃおうかな」


 銀次は全身をソファーにうずめたまま、やがて深い眠りについた。


 ★☆★☆


 どれだけ眠っていただろうか?

 やがて銀次の耳元に、柔らかいピアノの音が入り込んできた。

 力強さはないけれど、明るく軽快な演奏が二日酔いのけだるい身体を包み込んでくれるように感じた。銀次が学生時代、仲間たちと何度もカバーしたホイットニー・ヒューストンの「Saving all my love for you」……銀次はこの曲の都会的で洗練された雰囲気が大好きで、ライブではジャズ風にアレンジし演奏していた。一体誰が演奏しているのか気になった銀次は、ソファーからそっと後方を覗き込むと、一人の男性が黙々とピアノを演奏する姿があった。


「何だ、結構上手いなあ。一体どこの誰なんだ?」


 やがて演奏が終わると、演奏していた男性は椅子から降り、大きなカバンから道具を取り出と、ピアノの中を開けてネジの調節を行った。


「すみません、今の曲はあなたが演奏していたんですか?」

「そうですけど……?」

「とてもお上手ですね。プロとしてご活躍されている方ですか?」

「い、いや。めっそうもない。僕はピアノの調律師をしている西岡博也といいます」

「調律師?それにしてはお上手ですね。僕も一応プロの音楽家なんで、上手いか下手かなんてすぐわかりますよ」

「ほう、プロですか。ピアノの?」

「いや、俺はサックスですよ」


 そういうと銀次はキャリーケースからサックスを取り出した。


「なかなか立派なサックスですね。しかもきちんと手入れされていますし、さすがはプロですな」

「いや、これくらいは俺たちの世界では当たり前のことですよ。今あなたがピアノで演奏した曲を演奏してみますね」


 銀次は、『saving all my love for you』をピアノの伴奏無しで演奏し始めた。サックスの洗練されつつも憂いに満ちた演奏が、ロビー中に響き渡った。


「お見事。やっぱりプロの演奏は素晴らしいですね。音の強弱の付け方や表現力、さすがだなと思いました」


 博也は拍手を送ると、調律用の道具をカバンに仕舞い込み、椅子に腰かけてピアノで『saving all my love for you』を演奏し始めた。博也の演奏する明るくきらびやかな音に、銀次はサックスでややトーンを下げた憂いに満ちた音を重ねてきた。二つの音はやがてハーモニーとなり、二人の耳に心地よく響き渡った。

 演奏を終えると、二人は満足げな表情を浮かべ、互いに差し出した片手を強く握り合った。


「ありがとう。こんなに演奏して楽しいと思えたのは本当に久しぶりです」

「僕もです。あなたのサックスを聞いてるうちに、何というか、心の底からあなたと一緒に演奏したいと思えましたね」


 銀次は博也の言葉を聞いてちょっとだけ照れ笑いを浮かべたが、やがて表情は曇りだし、ピアノに手を当てながら自分の胸の内を語り出した。


「実は俺、最近自分の演奏が陳腐に感じて仕方が無かったんです。演奏していても全然張り合いも感じないし、こんなの自分の演奏じゃないって、いつもライブを終わってから自暴自棄になってたんです」


 博也は深刻な顔で語り続ける銀次を見て、しばらく考えこむと、笑顔で背中を軽く叩きながら語りだした。


「まあ、僕も若い頃はそうでしたよ。調律じゃなく、演奏家として身を立てようとしていたんでね。でもね、理想が高くなればなるほど、突き詰めようとすればするほど、自分の演奏のあらが目立って、演奏するのが嫌になってきたんですよね」

「そうなんですか……その時はどうやって解決したんですか?」


 銀次が問いかけると、博也は苦笑いしながら答えた。


「やめちゃったんです。演奏家になる夢を捨てたんですよ。そしたら全身から余計な力が抜けて、自分の納得いく演奏が出来るようになったんですよ」

「ホントですか? でも、何だかすごくもったいないような……」


 博也の言葉に驚いた銀次は、いまいち納得しない様子で何度も首をひねっていた。


「お兄さん。ジャズの醍醐味って、アドリブですよね?」

「はい、そう思います」

「僕も昔、ほんの少しだけジャズをかじっていたのですが、アドリブの楽しさは、自分の心の奥からわきだす気持ちに身を任せながら演奏する所だと思うんです。これって人生にも当てはまると思うんですよ。自分の気持ちに逆らわず、素直に身を任せたほうが生きてて楽しいって思えるんですよね」


 そう言うと、博也は椅子から立ち上がり、背中越しに手を振りながらエレベーターに乗り込んでいった。博也の背中を見つめながら、銀次はそっと呟いた。


「ふーん、アドリブか……そうだよな。さっきの演奏、心の底からすっごく楽しかったもんな」


 ★☆★☆


 平日の夜、仕事を終え帰宅した博也は、仕事で凝り固まった肩を片手で揉みながら、マンションのロビーに足を踏み入れた。

 その時、ピアノの置いてある場所の周囲に、沢山の人だかりが出来ていたのを見かけた。そのほとんどは仕事帰りのサラリーマンやOLだが、高校生や、両親に連れられた小学生くらいの子どもの姿もあった。


「こんな場所で、一体何が行われてるんだ?」


 博也は人だかりの隙間から覗き込むと、三人組の若者たちが背丈ほどの大きなベース、パーカッション、そしてサックスを抱えて、軽快なリズムを刻んでいた。


「あれ? こないだ僕と一緒にサックス演奏した人?」


 三人の中に、サックスで伸びやかな音を響かせている銀次の姿があった。

 こないだ博也に深刻な様子で悩みを打ち明けていた様子はみじんもなく、心から演奏を楽しんでいるように見えた。

 演奏が終わると、銀次が博也の存在に気が付いたようで、サックスを持ったまま博也に近づいてきた。


「こないだはありがとうございます。突然ですみませんが、ちょっとだけ付き合ってもらえますか?」

「一体どういうこと? というか、何でライブハウスじゃなく、こんな狭いマンションのロビーで演奏してるんですか?」

「俺、ここで演奏したかったんです。いつもの場所で、ジャズ好きのお客さんだけを相手に演奏するんじゃなくて、もっと多くの人達に俺たちの演奏を聴いてもらいたいって思ったんです。それに、ここに来ればあなたに会える。そしてあなたのピアノに合わせてセッションが出来る。だから、メンバーにワガママ言って、今日はここで演奏することにしたんです」


 熱意を持って語る銀次の前に博也は呆れ顔で苦笑いし、「やれやれ」と小声で言いながら、ピアノの前の椅子に座り込んだ。


「お待たせしました。それでは次の曲です。ここからはピアノが加えて、ホイットニー・ヒューストンの『saving all my love for you』を演奏しますので、お聴きください」


 銀次は観客に向かって語り掛けると、サックスを手にし、やわらかな音色を響かせた。

 しばらくサックスの独奏が続いた後、パーカッションとベースの音が加わった。

 さらに、博也の弾くピアノの音が重なった。

 演奏の後半では、メンバーが順番にアドリブを回す「ソロ回し」を行った。

 メンバーは、自分の思いに任せて次々と独創的なアドリブを披露した。

 結果として、原曲とかけ離れた演奏になってしまったかもしれない。

 それでもメンバーはみんな演奏を心から楽しみ、笑顔でいっぱいだった。


 演奏が終わると、四人は立ち上がり、観客の前で一礼した。

 すると、四人を取り囲むように立ち並ぶ観客から、嵐のような拍手が沸き起こった。止むことのない拍手の中、銀次は笑いながら「ありがとうございます」と博也に軽く耳打ちした。


「見事なアドリブだったよ。演奏だけでなく、このライブも、この会場も、そして君自身もね」


 博也が目配せしながらそう言うと、銀次は親指を上げて、屈託のない笑顔を見せた。

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