第19話 しばしの別れ
平日の午後、人通りが少なく静まり返っていたマンションのロビーに、今日も三枝子と貞夫、征三と晴代、そして澄子と昭三が夫婦そろって集まってきた。
全員が揃うと、いつものようにお茶やお茶菓子をお供に趣味の話や世間話で盛り上がり始めたが、今日は三枝子と貞夫の様子が心なしか元気ないように感じた。
「ねえ、どうしたの? 今日は元気ないんじゃない? いつもなら三枝子さんから色んな話題を振ってくるじゃない?」
「うん。でも今日は特にないかな。たまには私が話するばかりじゃなく、みんなの話も聞きたいし」
他の二組の夫婦が世間話で盛り上がる中、三枝子はずっと押し黙っていたままだった。貞夫もお茶を飲みながら、ずっと下を向いていた。やがて三枝子は、おしゃべりに興じる二組の夫婦に気づかれないよう、貞夫とともにロビーから離れていった。
しかし、澄子が二人の姿に気が付き、慌てて呼び止めた。
「ねえ、どこに行くのよ?」
「今日は実家にいる息子と話をしなくちゃいけないから、これで帰るね」
三枝子はそう言うと、貞夫の手を引き、そのまま到着したエレベーターに乗り込んだ。
「三枝子さん! 私たち友達でしょ? どうして教えてくれないの?」
「やめないか、澄子。三枝子さんの家にも色々事情があるんだろ。これ以上首を突っ込むと相手に嫌われるから、やめた方がいいぞ」
「そ、そんなこと言ったって……」
澄子は、上階へと上がっていくエレベーターを腑に落ちない様子で見つめていた。
翌日の午後、ロビーにはいつものように老夫婦たちが集まり、お茶を飲みながら雑談する姿があった。しかし、この日は最初から三枝子と貞夫が姿を見せなかった。
「一体どうしたんでしょうね? 本人達が言う通り、息子さんに何かあったんでしょうかね?」
「それ、おかしいと思うんですよね。確か三枝子さんの息子さんはエンジニアで大阪に単身赴任してるはずですよ。こないだ三枝子さん自身がそんなお話をちらっとしていましたから」
「でも昨日、息子が実家にいるって言ってたけど、それはウソの話なの?」
ロビーに集まった老夫婦たちが三枝子と貞夫の噂話をしていたその時、ちょうど澄子の視線の先に、エレベーターを降り立った三枝子の後ろ姿があった。
「三枝子さん?」
三枝子は澄子がとっさに出た言葉に気が付くと、慌てふためき、急ぎ足で玄関へと向かった。澄子は立ち上がると、その背中を懸命に追いかけた。
「三枝子さん! ちょっと待って!」
息を切らしながら何とか三枝子に追いついた澄子は、呼吸が苦しくなりその場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫? 澄子さん」
「うん、私は大丈夫……ゴホッ、それより……グホッ。三枝子さん、一人でどこに行くの? 貞夫さんは?」
三枝子は澄子の背中を何度もさすると、澄子は胸を押さえながら次第に正常な呼吸を取り戻した。
「気分は落ち着いた?」
「うん、私はもう大丈夫よ」
「ごめんね、何も言わずに通り過ぎて」
「いや、私のことはいいのよ。それより、なぜ……私たちに何も話してくれないの? 何で私たちから逃げるの? それに、いつものようなにこやかな三枝子さんじゃないし」
三枝子は澄子の隣に腰を下ろすと、軽くため息をついてから口を開いた。
「正直あまり言いたくなかったけど……うちの旦那の貞夫が、今度入院することになったの。貞夫は持病があって、ここに引っ越してくる前からずっと通院してるんだけど、こないだ検査してもらったら持病が大分進行してるって先生に言われてね。入院して手術を受けることになったの。今日もこれから、入院の準備のために病院に行く所だったの」
「でも……こないだ会った時には貞夫さんは元気そうに見えたけど?」
「まあ、表面はね。けど、夜になると汗をかきながらすごく辛そうな顔で寝てるのよ」
三枝子から貞夫の病状を聞かされた澄子は、胸を押さえながらしばらく何も言えずに考え込んでしまった。
「じゃあ、貞夫さんは助からないかもしれないってこと?」
「その可能性はあると思う。ちゃんと通院して投薬も受けていたのに、まさか進行していたなんて、全然想像つかなかったもの……」
そう言うと、三枝子は目頭を押さえて嗚咽し始めた。
「田舎町からこのマンションに来た私たちを温かく迎えてくれた澄子さん達には、本当に感謝しているわ。一緒に歌を唄ったり、美味しいお茶菓子を差し入れてくれたり。でも、だからこそ心配かけちゃまずいって思って、貞夫の病気のことは話さずずっと胸の奥にしまっておこうとしたの」
泣きじゃくる三枝子の背中を、澄子は後ろからゆっくり抱きしめた。
「何言ってるのよ、私たちはいつまでも仲間でしょ? 友達でしょ? だから全然気にしないで。そして、私たちに出来ることがあれば、何でも言って欲しい。みんなで三枝子さんたちを支えるから」
澄子の言葉を聞くと、三枝子は涙を拭いながら軽くうなずいた。
★☆★☆
数日後、貞夫は入院するための日用品を詰め込んだバッグを持つと、マンションの自室のドアを閉めた。
「しばらくは帰ってこれないのかな」
三枝子に手を引かれながら、貞夫はドアを見つめてつぶやいた。
「そんなことはないわ。今からそんな弱音言ってどうするのよ?」
「だって病院の先生、いつになく暗い顔で病状を話していたからさ。ああ、もう俺はだめなのかなって」
「だから、そんなこと今から言ってどうするのよ? それより、いつもの茶飲み仲間がロビーで待ってくれてるから、ちゃんと挨拶していこうね」
「仲間?」
「そうよ。みんな待ってるわ。さ、行きましょ」
「お、おい。ちょっと!」
貞夫は三枝子に手を引かれるままにエレベーターに乗り、一階のロビーへと降り立った。そこには、澄子と昭三、晴代と征三が待ち構えていた。テーブルには沢山のお菓子が並べられ、征三がヨーロッパから持ち込んだ紅茶の入ったポットが置いてあった。
「さ、貞夫さん。ここにどうぞ」
「三枝子……お前、俺の入院のことをしゃべったのか?」
「そうよ。ここにいるみんなが貞夫さんのことを応援したいって」
「勝手なこというな。大体こんなにいつも以上にお茶やお菓子を並べて。俺がもうここには戻ってこないと思ってるからだろ?」
「私たち、そんな話したかしら? ここにいるみんなの気持ちは同じよ。貞夫さんがきっとまたここに帰ってくるって信じてるからね」
澄子がそう言うと、貞夫は納得した様子でソファーに座った。
しばらくの間、老夫婦たちは時間を忘れて、テーブルに所狭しと並べられたお菓子を食べながら談笑した。
すると、征三が突然立ち上がり、ピアノの前に立つと、貞夫を手招きして椅子をそっと後ろに引いた。
「貞夫さん、僕はあなたの『昴』をまた聴きたいなあ。貞夫さんがこの場所で演奏していた時、本当に上手くて思わず足を止めて聴き入ってしまいましたからね」
征三の言葉に、妻の晴代も大きくうなずいた。
「じゃあ私、貞夫さんのピアノに合わせて唄っちゃおうかな?」
「おいおい、晴代さんだけ唄うのはずるいよ。みんなで唄おうよ」
澄子は笑いながら晴代をたしなめると、晴代は「そうよね」と言って頭を掻いた。
三枝子は貞夫の身体を支えながらゆっくり立たせると、手を引き、ピアノの前に椅子にゆっくりと座らせた。
貞夫は目を閉じると、両手を鍵盤の上に置き、手を滑らせるように器用に動かし始めた。貞夫の演奏に合わせ、他の老夫婦たちは肩を組んで、声を揃えて「昴」を合唱した。その声は大きく力強く、まるでこれから闘病生活が始まる貞夫をみんなで激励しているかのようだった。
やがて演奏が終わると、貞夫はふらつきながらも立ち上がり、頭を下げた。
すると、周りからは温かく大きな拍手が沸き起こった。
「さすが! 完璧ですよ、貞夫さんの『昴』。一緒に合わせて唄ってるうちに、涙が出そうになりました」
征三は貞夫の背中をさすりながら、演奏を褒め称えた。
「貞夫さん、ブラボー!」
晴代は、立ち上がり貞夫に投げキッスをした。
「みなさん、ありがとう。退院したら、またここでみんなとお茶飲みながら色んな話をしたいよ。その時にはまた、みんなの前でピアノの演奏をするからね」
「大丈夫。貞夫さんが帰ってくるのを、いつまでもずっと、ずーっと待ってるから、焦らずしっかり治してきてね」
澄子はそう言うと、笑顔で貞夫の手を握った。
「みんなありがとう。それじゃ、行ってきますね」
三枝子は生活用品の入ったバッグを持って貞夫の隣に立つと、二人並んで頭を大きく下げ、ゆっくりと歩きながら玄関を出て行った。
「なあ三枝子……俺、このマンションに来れて幸せだったよ」
「そうね」
「病気は治らないかもしれない、またここに戻れないかもしれない、でも、最後にみんなとお茶を飲んで、ピアノを演奏して、もう思い残すことは何も無いよ」
「そんな弱気なこと言わないで。絶対、ここに戻ってこようね」
三枝子は貞夫の弱気な言葉に顔をしかめてたしなめたが、貞夫は何も言い返さなかった。ただ穏やかな笑顔を浮かべ、三枝子に手を引かれつつ思い出の詰まったマンションに手を振った。
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