第20話 ずっと好きだった
すっかり秋めいた午後、買い物帰りの友美恵はエコバックに一杯の食材を詰め込んでマンションの玄関をくぐった。
「ふう、先週は買い物をしてなかったから、必死に買ったらとんでもない量になっちゃったな」
重い荷物を運ぶのに疲れ、額の汗を拭っていたその時、髪の長い女性が一人ピアノの前に座り、一心不乱に演奏している姿があった。白いブラウスに深緑のロングスカートという清楚な姿の女性は、長い指を駆使してバッハの『主よ人の望みの喜びを』を演奏していた。
美しい旋律に思わず聞き入った友美恵は、ソファーの上にエコバックを置くと、すぐ近くで女性の演奏に見入っていた。
その瞬間、ソファーに置いたはずのエコバックが床に転げ落ち、中に入っていた牛乳や野菜が次々と散乱した。
「ちょ、ちょっと。何でこのタイミングで!」
友美恵は慌ててソファーに駆け寄り、散乱した食材をかき集めてエコバックに詰めなおした。女性はその様子に気づき、友美恵のそばに近づいた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫。お気になさらず、演奏を続けて下さいな」
女性は友美恵の隣にしゃがみこみ、一緒に食材を拾ってくれた。そのお蔭もあって、床に大量に散乱した食材はあっという間にエコバックの中に全て収まった。
「ありがとうございます。あなたの演奏を聞きたくて、こんな不安定な所に置きっぱなしにしたのがいけなかったのよね」
「え?そ、そうなんですか」
「だって、すごく上手だもの。まるで高級ホテルのエントランスにいるかのような気分になったわよ」
「そう言っていただけると嬉しいですね。私、実際にホテルでピアノの演奏をしているので」
「へえ、そうだったんだ」
「はい。ホテルのディナー会場とかで演奏してるんです」
友美恵は、女性の演奏の上手さに納得した。
「私は
晴香ははにかんだ表情でうつむくと、軽くお辞儀をしてピアノの真下に置いてあった茶色い革のかばんを拾った。
「そろそろ私、ホテルに演奏の仕事に行かなくちゃ。最近は仕事に行く前に、ちょっとここで練習を兼ねて弾いてから出かけてるんですよ」
「そう。がんばってね。あ、今度あなたの演奏聴きに行こうかな。どこのホテルかしら?」
「都内の品川にあるエクセレントホテルです。ディナー会場は毎週火・木・土曜日が私の出番です」
そう言うと、晴香は頭を下げて玄関を出て行った。玄関のガラス越しに見える晴香の横顔は、少し憂鬱そうに見えた。
「何だろ?あまり楽しくなさそうに見えるんだけど……私の気のせいかな?」
★☆★☆
週末、友美恵は夫の博也とともに、品川駅に降り立った。
ビル群の中を歩くうちに、二人の正面にきらびやかな黄金色の明かりに包まれた玄関が見えてきた。
「ここかな? エクセレントホテル品川」
「ふーん、なかなか立派な建物だね。中には結婚式場とかもあるし」
玄関をくぐると、着飾った外国人客や賑やかな家族連れが続々と友美恵の前を通り過ぎて行った。彼らは続々とフロントのすぐ隣の大きな部屋へと入っていった。
「あ、ここだな。ピアノの音が聞こえてくるから」
二人は大きな部屋に入ると、たくさんの宿泊客が中央に備え付けられたバイキングスペースで食材を次々と皿に盛り付けていた。
食事中の客が談笑する声で賑やかな中、部屋の一番奥から『主よ人の望みの喜びを』の荘厳なメロディーが聞こえてきた。
「あ。あそこにいるわ。博也、近くまで聞きに行こうよ」
晴香はミントグリーンのドレス姿で、一心不乱に演奏を続けていた。
しばらくして演奏を終えた時、近くにいた若い男女が晴香の元へと近づいてきた。
長身で肩の辺りまで髪が長い男性は、体にフィットした細身のドレスを着こなす女性の手を繋ぎながら、笑顔で晴香に語りかけた。
「やあ、晴香。今日もいい演奏だね」
「
「ああ。今日は結婚式場の下見を兼ねて食事に来たんだ。
海斗と呼ばれた男性は、一緒に来た麻耶と顔を見つめ合いながら嬉しそうな表情でうなずいていた。
「晴香、こないだ話した僕の婚約者の
「杉岡です。いつも
「麻耶はこのホテルを経営する会社の役員の娘なんだよ。本当は海外で式を挙げたかったけど、ここで式を挙げないと麻耶のお父さんに怒られそうだからな。晴香、当日は僕の友人代表として、君の演奏で会場を盛り上げてくれよ。楽しみにしてるからね」
そういうと、海斗はにこやかな表情で片手を振って去っていった。
二人が去った後、晴香はうつむき加減な姿勢でしばらくの間無言のままであった。
「どうしたの?あの人、お友達?」
「うん。音大時代の友達。というか……」
「というか?」
「一応、昔は彼氏と彼女の関係でした」
「ええ?じゃあ今は違うの?」
「ある日突然、別れを告げられたんです。好きな人がいるからって。多分、それが麻耶さんなんだろうけど。それ以来、海斗と私は学生時代の友達という感じで……」
「ふーん……でもさ、晴香さんとしてはそれでいいの? 海斗君への気持ちは変わらないんでしょ?」
「ま、まあね。まだちょっと未練はあるかな……」
晴香は苦笑いすると、再び演奏を始めようとピアノの鍵盤に手を置いた。
「ねえ、彼の結婚式に演奏する曲ってもう決まってるの?」
「いいえ。どんな曲がいいかなって、今色々考えてるところです」
「ちなみに、海斗さんは音大卒だからピアノは詳しいよね? 麻耶さんもそう?」
「いいえ、麻耶さんは音大卒じゃないし、音楽もそんなに詳しくないと聞きました。仕事は国際線のキャビンアテンダントをしてるみたいです」
すると友美恵はニヤリと笑い、ピアノの隣に立って晴香の耳元に口を当てた。
「ど、どうしたんですか?」
「いい曲があるのよ。結婚式の雰囲気を盛り上げてくれるし、何よりも今の晴香さんの気持ちを代弁してくれる曲だと思うの」
「はあ? 一体どんな曲ですか?」
「すごく情熱的な曲よ。今度マンションで、私と一緒に練習しようよ」
首を傾げる晴香に、友美恵は色々と耳打ちした。
☆★☆★
結婚式当日、エクセレントホテルには数多くの招待客が集まっていた。
壇上に座る新郎新婦の所には友人たちが次々とあいさつに訪れ、二人ともその表情は幸せに満ち溢れていた。
賑わいが最高潮に達していたその時、司会の女性がアナウンスを行った。
「さて、お集りの皆様。ここからは新郎のご友人が、お二人の結婚を祝ってピアノの演奏をプレゼントするそうです。当ホテルの専属ピアニストでもある、上原晴香さんです」
名前を呼ばれた晴香は、肩や背中を露出したシルバーのイブニングドレスでピアノの前に座ると、壇上にいる海斗と麻耶の顔を見て、そっとほほ笑みを浮かべた。
「新郎の学生時代の友達だった、上原晴香です。今日は、私から新郎へのメッセージを込めた曲を演奏します」
そう言うと、晴香は鍵盤に手をおき、ゆっくりと指を動かし始めた。
ワルツのように穏やかで明るい旋律が会場中に響きわたると、突如海斗の顔が曇りだした。隣に座る新譜の麻耶は、怪訝そうな顔で海斗を見つめた。
「どうしたの? 海斗。急に困ったような顔をして」
「い、いや。何でもないよ」
晴香の明るく跳躍するように進む演奏に、多くの招待客は笑顔で耳を傾けていた。
やがて演奏が終わると、晴香は立ち上がり、新郎新婦のいる壇上へと進み、海斗の耳元でそっとささやいた。
「晴香、お前……」
「これが私からあなたへのメッセージよ。それじゃ、お幸せに」
晴香はウインクすると、海斗に背中を向け、招待客に深々と頭を下げて壇上から降りた。
「晴香! ちょっと待てよ!」
「ねえ海斗、さっきからどうしたの?あのピアニストのことばかり見て」
海斗は憔悴したまま、ずっと晴香の背中を見つめていた。
地鳴りのような拍手と「ブラボー!」という声が響き渡る中、晴香は式場の隅に立っていた友美恵と博也を見つけると、笑顔を浮かべて駆け寄った。
「してやったり、だね。晴香さん」
「うん。ありがとう、友美恵さん」
「エリック・サティの『JE TE VEUX』……日本語で『ずっとあなたが好きだった』って曲だもんね。海斗君も一人の音楽家として、知らないわけがないはず」
「JE TE VEUX」は、「あなたが欲しい。私の望みはただ一つ、あなたのそばで一生過ごしたい」、「私の体があなたの体になればいい」など、直接的で情熱的な求愛ソングとして有名である。海斗の表情をみると、晴香がこの曲に込めたメッセージがちゃんと届いていたようだ。
博也が感慨深げに語ると、晴香と友美恵は口元を押さえて大笑いした。
「さ、これから三人で近くのレストランで食事でもするか。僕の行きつけだけど、若くてイケメンなシェフがいるんだ」
「え?ホント?イケメン?ぜひ連れてってください!」
博也の誘いに、晴香は目を輝かせていた。一方で友美恵は、演奏する前まで海斗への未練を断ち切れず悩んでいた晴香の様子が一変していたことに驚いた。
「あら、海斗君への想いはどうなっちゃったの?」
「海斗に自分の想いを全てぶつけたことで、心の中のモヤモヤがスッキリしたんです。さ、私も海斗に負けないように、これから新しい恋を始めなくちゃね」
友美恵は晴香の豹変ぶりに呆れつつも、はち切れんばかりの笑顔を見せる晴香を見て、胸元で小さくガッツポーズを作った。
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