第21話 新米先生の苦悩

 都心に近いタワーマンションが立ち並ぶ一角にある「みずほ幼稚園」。

 木下美咲きのしたみさきはこの春短大を卒業し、この幼稚園で教諭として働き始めた。今年は見習いを兼ねて、先輩教諭のいるクラスに副担任として配属された。


 休み時間が終わり、年長組である『さくら組』では、美咲の先輩でありクラスの担任である尾島優子おじまゆうこが。小さな体に似合わぬほどの大きな声を上げて園児たちに呼びかけた。


「はーい、みんな集合! 今日はお遊戯会にみんなで歌う曲を練習しましょうね。『ぼよよん行進曲』、みんなちゃんとお家でも練習してるかな?」

「はい!」

「今日は副担任の美咲先生にピアノを弾いてもらうから、みんなで大きな声で歌いましょうね」

「みさきせんせい、おねがいします!」


 園児たちの声に背中を押されるように、副担任の美咲はピアノの前の座席に腰かけた。楽譜を広げると目を見開いて凝視し、一生懸命指を動かした。

 しかし、園児たちは美咲のピアノに合わせて歌おうとせず、きょとんとした表情で美咲を見つめていた。全く歌おうとしない園児たちの前で、美咲は気持ちを落ち着かせて、指を動かし続けた。しかし、園児たちは誰一人として歌わず、沈黙したままだった。

 園児たちの反応を見るうちに焦りがひどくなった美咲は、次第に思うように指が動かなくなり、とうとう途中で演奏を止めてしまった。すると、呆れ顔の優子が立ち上がり、美咲の耳元で「もういいよ、代わるから」とささやいた。美咲は優子に頭を下げると、椅子から降りてとぼとぼと教室の隅へと下がっていった。

 美咲に代わって弾き始めた優子は。元気いっぱいに弾むような音で「ぼよよん行進曲」を弾きこなし、園児たちも演奏に釣られるかのように声を合わせて元気よく歌いあげていた。美咲は演奏に合わせて手拍子しながらも、教室の隅で一人ため息をつきうなだれていた。


 辺りが暗くなった頃、美咲はやつれた顔で自宅のあるマンションへと戻った。エレベーターを待っていた美咲は、頭の中で子ども達の気持ちを惹きつけるために自分の演奏をどう改善していいか、何度も頭の中で考えては途方に暮れていた。

 ちょうどその時、美咲はロビーに置いてあるピアノに目が留まった。自室にもピアノはあるが、隣の部屋に気兼ねして思うように練習ができず、もっぱら幼稚園のピアノで練習していた。


「ふーん『ご自由に弾いて下さい』か。ここなら気兼ねなく演奏できるかな」


 美咲はピアノの前の椅子に座り、目を閉じて深呼吸すると、いつものようになめらかに指を動かし、「ぼよよん行進曲」を演奏した。

 所々で詰まりそうになることはあるものの、全体的に音のブレは少なくスムーズに弾けており、何も問題もなく演奏を終えた。


「あの、すみません」


 演奏を終えたその時、美咲の真後ろから誰かが背中を軽く叩いて声をかけてきた。


「はい?」


 振り向くと、そこには細身のスーツを見にまとい、耳がかかる位の長さのショートカットの女性が笑顔を浮かべながら立っていた。


「今の曲って『ぼよよん行進曲』ですよね?」

「そうですが……ご存じなんですか?」

「ええ。私、昔幼稚園で仕事していて、この曲も自分の実習の時に弾いたので」

「幼稚園? 本当ですか?」

「ええ、つい五年ほど前まで」

「本当ですか? 今は、そんなカッコいいスーツ着こんでるのに?」

「今は都内の建設会社で社長秘書の仕事をしてるんですよ」


 そう言うと、女性はポケットから名刺を取り出し、美咲に手渡した。


「『堀井工業株式会社 総務部秘書課 住吉恵理子すみよしえりこ』……堀井って、超大手企業じゃないですか?」


 口をあんぐり開けて立ち尽くす美咲と入れ替わるように恵理子はピアノの前の椅子に腰かけると、ビゼーの「小さな木の実」を演奏し始めた。美咲は昔からこの曲が好きで、短大でも何度も練習した記憶があった。

 その時、恵理子の演奏につられるかのように、美咲の後ろから幼稚園生位の身体の小さな男の子とその母親らしき女性が近づいてきた。


「ピアノのおねえさん、きょうもききにきたよ」

「あら、しょうま君? 今日も来てくれたの? ありがとう」

「ゆうだいくんは来てるの?」

「これからかな? あ、今来たみたいだね」


 すると、到着したエレベーターから、しょうま君という子と同じ位の身長の男の子とその母親が降りてきた。


「すみません、今日も演奏してたんですね。一度家に帰ろうとしたけど、ゆうだいがおねえさんが演奏してるところを目ざとく見つけて、どうしても聴きたいっていうから」

「あらら、それはすみませんでした、お母さん」

「いえ、それはこっちの方ですよ。あら、いちかちゃんも来たね。こんばんは、いちかちゃん」

「こんばんは。おねえさん、きょうはなにひいてくれるの?」

「『ぼよよん行進曲』だよ。みんなも一緒に歌ってくれる?」


 恵理子の弾くピアノの周りには、このマンションに住んでいる親子連れが続々と集まりはじめていた。

 恵理子はにこやかな表情で、一人一人の子ども達の顔を見ながら弾いていた。子ども達は声を揃えて、ピアノに合わせて楽しそうに唄っていた。途中、飛び上がる部分では椅子から腰をあげ、一緒に飛び上がるようなしぐさを見せた。


「おねえさん、きょうもたのしかったよ。ありがとう」

「またここでピアノをひいてね」


 歌い終わった子ども達は、無垢な表情で恵理子に感謝の気持ちを伝えていた。

 子ども達が帰った後、恵理子は大きく背伸びをし、かばんを手に取るとエレベーターへと歩き始めた。


「ちょっと、待ってください!」


 美咲は駆け足で恵理子の後を追いかけた。


「私、幼稚園の先生をしているんです。でも、私の演奏では子ども達が全然歌ってくれなくて。どうしたらいいか分からなくって……」


 美咲は息を切らしながら、声を振り絞って自分の苦境を恵理子に訴えた。すると恵理子は目尻を下げて柔らかな表情で美咲の元へと近づき、口を開いた。


「私も昔、そうだったよ」

「そうなんですか?」

「当時、私がいくらピアノを演奏しても園児達は誰も歌わなくてね。しまいには怒鳴りつけて、無理やり歌わせようとしたの。そんなことが続くうちに子ども達に嫌われ、園や保護者とも険悪になって……」


 恵理子はピアノに視線を送りながら鼻でフッと笑った。


「園を辞めて新しい仕事を見つけた時、もう二度とピアノなんか弾かないと心に決めていたんだ。でも、このマンションに越してきてここにピアノが置いてあるのを見つけた時、久し振りにちょっとだけ弾いてみようかなって思いに駆られてね。昔幼稚園で弾いてた曲を、音階を思い出すためにフンフンと鼻歌でハモりながら弾いてみたの。そしたら、今日ここに来てくれたしょうま君が私に近づいてきて、私の演奏をじっと聴いてたのよ。演奏が終わった時、目を輝かせて『もう一度聴かせてよ』って言われて。あの時はビックリしちゃった。それ以来、私がここに来て演奏する度に、マンションの子ども達が集まるようになったんだ」

「すごい! どうして子ども達の心を掴めるようになったんですか?」

「そうね……心から演奏を楽しんでるからかな。子ども達と一緒に歌うつもりでね」

「一緒に歌うつもりで? もうちょっとわかりやすく教えてもらえますか?」


美咲は何とか秘訣を聞き出そうと、恵理子に詰め寄った。すると恵理子は冷めた視線で美咲を真っ直ぐ見つめ、口を開いた。


「あなたのさっきの演奏、レベルが高くてとても素晴らしかった。でも、演奏しているあなたは何だかあまり楽しそうじゃなかった。まるで昔の私を見てるようだった」


 そう言うと恵理子は片手を振って、到着したエレベーターへと乗り込んでいった。

 美咲は首を傾げたが、かばんから鏡を取り出すとピアノの鍵盤の前に置き、演奏を始めた。そこに写っていたのは、眉をひそめて鬼のような形相で必死に演奏している美咲だった。そこには他人が入り込む余裕はとても感じられなかった。


「なるほど……そういうことだったのか」


★☆★☆


 数日後、みずほ幼稚園の「さくら組」では、いつものように優子の甲高い声が響き渡っていた。


「さ、今日もこれからお遊戯会の歌の練習をしようね。今日は私がピアノを弾くから、最後まではっきりと大きな声で唄おうね」


 優子がピアノの前の椅子に座ろうとしたその瞬間、そこには美咲の姿があった。


「美咲先生、どうしてここに?」

「優子先生、私、弾いてもいいですか? もう一度、トライしてみたいんです!」


 美咲がそう言うと、優子はクスっと笑ってピアノから離れた。


「今日は美咲先生がピアノを弾きま~す。ちゃんと一緒に唄うんだよ」

「美咲せんせい? だいじょうぶなの?」

「やだあ。ねえ優子せんせい、かわってあげてよ」


 園児たちから不安を訴える声が相次いだが、美咲は気にすることも無く、ピアノの演奏を開始した。

 美咲の目は楽譜ではなく園児たちの顔に向けて、また、園児が歌いやすいように、歌の入る部分はゆっくりと、そして音の強度を抑え気味にして演奏した。

 すると、声が不揃いながらも、何人かの園児が美咲のピアノに合わせて歌い始めた。

 その様子を見て、美咲は演奏しながら園児たちと一緒にこの歌を口ずさみ始めた。


「ねえ、きょうの美咲せんせい、いつもとちがうじゃん」

「ホントだ。なんだかとてもたのしそう」


 こうして美咲のピアノに声を合わせる園児が一人、また一人と増えていった。やがてクラス全員が、美咲のピアノに合わせて『ぼよよん行進曲』を合唱していた。

 演奏が終わると、優子は大きく拍手をしながら美咲に近づいた。


「すごい! 美咲先生、やればできるじゃない」


 美咲は口元を押さえながら、優子に頭を下げた。


「ねえみんな、これからはお遊戯会の歌のピアノは、美咲先生でいいかしら?」

「はーい!」


 クラス中に園児たちの声が響き渡ると、美咲は着ていた仕事着のエプロンで涙を拭った。

「何泣いてるのよ。さ、今度のお遊戯会は任せたからね。楽しみにしてるわよ」


 優子に背中を押されて美咲が顔をあげると、そこには笑顔いっぱいの園児たちの顔があった。

 

 「みんな、よろしくね!」


 美咲は涙を拭い、全身を振り絞って声を上げると、園児たちから割れんばかりの大きな拍手が沸き起こった。

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