第22話 幽霊の本心
秋を迎え、学校の音楽コンクールが多くなると、博也の所に調律の依頼が殺到する。毎年の光景であるが、博也は依頼先を一軒ずつ回って調律し、仕事を終えマンションにたどり着いたのは夜も十一時過ぎであった。
玄関に入ると、二人の警備員が懐中電灯を片手にロビーの周囲を点検して回っていた。普段は見ることもない物々しい雰囲気に博也はとまどいつつも、エレベーターが降りてくるのをじっと待っていた。
すると、警備員がまばゆい懐中電灯を博也の方に向けながら近づいてきた。
「ちょっと! いきなり何ですか?」
警備員は慌てふためく博也の顔を見て頭を下げつつも、まるで身体検査でもするかのように全身を照らし、不審物を携帯していないかどうか確かめていた。
「どうしたんですか? 目的も聞かずジロジロ調べて、失礼じゃないですか?」
「いえ、こんな時間にお一人で何をしているのかと思いまして」
「何をって、帰るんですよ。今日は仕事が遅くなったけど、普段はこんな時間にここをうろついたりしてないですよ」
「それは失礼しました。じゃあ、お気をつけてお帰り下さい」
「それだけ? 謝罪の言葉はないの?」
しかし警備員はそれ以上何を言うことも無く、懐中電灯を手にロビーの周囲をくまなく確かめていた。
「誰か不審な人物でもいるんですか?」
「そうなんですよ。最近、深夜に不審な人物を見かけたという通報が我々の元に相次いだもんですから、今日は早い時間にここに来て張り込んでいたのです」
「ほお。不審な人物? この時間からウロウロしてるんだ?」
「ええ、何でも、日付が変わる位の時間から夜明け前の四時位までによく見かけるそうです。見た目が不気味で、意味もなくこのマンション内をうろつき、最後にはロビーでピアノを演奏しているとか」
「ここで演奏していくんだ?」
「はい。通報した住民の方が口をそろえて言うには、『幽霊』の仕業じゃないかって言うんですね。念のために管理人の方に聞いたら、大昔この近くに墓地があったそうで、その時の『名残』があるんじゃないかと」
ガードマンは青ざめた顔でそう言って苦笑いすると、再びロビーの点検に向かった。
深夜に玄関に出入りするのは、終電間際に帰ってくるサラリーマンか、繁華街で飲み歩いた人達、そして飲食店関係者だろう。そう考えると、単純に酔っぱらいがふらつき歩いている可能性もあるが、複数の目撃談があることを考えると「幽霊」という可能性も捨てがたい。
博也としては、何とか自分の目で確かめたいという気持ちがあった。しかし、今日は仕事が立て込み疲れがひどく、すぐにでも寝てしまいたいのが本音であった。
きっと今夜だけじゃなく、明日も明後日も出現するだろう。そう考え、今夜は早々にベッドに向かうと、ものの一分足らずで眠りについた。
翌朝、前日の疲れもとれないまま、博也は目をこすりながらエレベーターを待っていた。すると、博也の隣に立つ二人の女子高校生がひそひそと小さな声で何やら話し合っていた。
「ねえねえ、昨日も出たんだって。噂の幽霊」
「ええ?また出たの?ガードマンの人達があっちこっちで張り付いてたのに?」
「私のお兄ちゃんが夜勤を終えて帰ってきたら、ロビーのピアノの辺りに青白い光が灯って、そこからポロポロと音が聞こえてきたんだって」
「こないだもピアノの所に居たって聞いたよ。ピアノを弾きたいのかな?」
「いっそのこと、ピアノ撤去すれば幽霊も寄ってこないのかな?」
「うちのお父さん、マンションの自治会役員やってるから、相談しようかしら? あそこにピアノがあるから幽霊が来るんじゃないかって」
博也は顔をしかめつつ、女子高生達の声に耳を立てていた。
このままでは「幽霊」だけじゃなくピアノまで悪者にされてしまう。博也は意を決し、「幽霊」と対峙する覚悟を決めた。
深夜、時計が午前二時を回った頃、博也はバットを片手にエレベーターから一階のロビーへと降り立った。
マンションの一階は、入居者用出入口とエレベーターホールに付けられた薄明かりと非常灯だけが灯っていた。帰宅時には何人も見かけたガードマンたちは、他の階のパトロールに行ったのか、すでに撤収してしまったのか、全くその姿を見ることが出来なかった。
博也は不気味に鎮まったロビーを見回すと、ロビーの奥から突如青白い光が現れ、ゆっくりとした歩みでピアノの方向へ向かっていた。その動きは一歩、また一歩という感じで非常に遅く、傍目から見ると恐怖感を掻きたてられる不気味さがあった。
「き、来たか。幽霊だな?」
青白い光はピアノの前で止まると、そのままピアノの全体を照らし出すかのように屋根の部分に移っていった。
そして、光の中に、髪の長いやせ細った人間のシルエットが映りだした。
「で、出た!」
博也は息を殺して、ゆっくりとソファー越しにその正体を見ようと近づいた。
そこにいたのは、髪が長くて全身の骨格が分かるほどにやせ細り、肌の色が不気味な位に真っ白な女性だった。
女性は鍵盤の上で細い指を動かした。
時には不気味にせり上がり、そして時には物哀しい旋律が何度も繰り返され、それはまるで死者の叫びのような悲痛なものであった。
「ベートーベンの『ピアノ三重奏曲第5番「幽霊」』ですか?」
博也は女性の真後ろから、そっと優しく問いかけた。
すると女性は、ピアノを弾きながら身体を博也の方にゆっくりと傾けた。
青白い光に照らされた白い肌、深いくまの出来た目元、そして痩せこけた頬。あまりのおどろおどろしさに、博也は悲鳴をあげそうになった。
「そのとおり……です。お詳しいんですね」
女性は、蚊の鳴くようなか細い声で微笑みながら言葉を返した。
「まあね。特にあなたが今演奏していた『第二楽章』が、ハムレットを
「そのとおり。まさに今の私、そのものだから」
「はあ?」
「私はこの社会から抹殺された。仕事も好きだった人も奪われた。その悔しさと悲しさ全てを、このピアノにぶつけているの!」
女性はピアノの鍵盤を叩きながら、感情を噛み殺すかのように早口で語っていた。
「僕は、あなたの悔しさと悲しみがわかりますよ」
「え?」
「自分の力じゃどうしようもできないやるせない感情を、人間は無意識のうちに何らかの形で発散しようとします。あなたの場合それはピアノだと思います。あなたが何も話してくれなくても、あなたの演奏を聴いてるうちに、その気持ちが痛い程伝わってきますよ」
「じゃ、今の私の気持ちをお話してくださる?」
「あなたは今とても辛い現実の下にある。その辛い気持ちを分かってくれる人が誰も居ない。でも、本心では現れるんじゃないかと思って、ずっとここ『幽霊』を弾き続けてる。違いますか?」
「ふーん……そこまで分かってるのね。それで、私を苦しめてる辛い現実って?」
本当に自分のことを分かっているのかと、まるで博也を試すかのような問いかけに、博也はしばらく何も言えなかった。
「ごめんなさい。私にはわかりません」
「病気よ。ずっとがんの治療をしていたけど、もう手遅れだって。余命もそんなにないの」
「病気!?」
「そうよ。すっかり痩せこけたこんな姿、誰にも見せられないもの。だから、人通りがない夜中に出歩いてここでピアノを弾いていたの」
女性はそう言うと、枯れ木のような細い手で顔を覆って涙を拭うと、やがて椅子から立ち上がり、ピアノの屋根に置いた青白いランプを持ちだしてロビーの奥へと歩き出していった。
「ごめんなさい。もし気分を害してしまったならごめんなさい」
博也は女性の背中に向かって謝罪の言葉を投げかけた。すると女性は少しだけ後ろを向き、涙を拭きながら
「いいのよ。私はこのまま誰にも自分のことを分かってもらえないまま死んでいくのかと思ってたから」
と言うと、青白い灯りとともに、廊下の奥へと歩き去っていった。
☆★☆★
その後、マンション内で「幽霊」を見かけたという話はめっきり無くなった。深夜に帰ってきた人達やガードマン達の話を聞いても、誰も見かけなかったとのことだった。
数日後、仕事に向かう途中の博也は、一階で喪服を着た数人の集団とすれ違った。これから葬儀に向かうらしく、骨壺と思い出の品、そして遺影を持ち歩いていた。
その時、博也は自分の視線に入った遺影に写った写真に思わず腰を抜かしそうになった。そして、居てもたってもいられず、遺影を持った初老の女性に声を掛けた。
「あの、すみません、この女性って……」
「ああ、娘の
「千鶴子?」
「こないだ三十四歳の若さでこの世を去りました。今日はこれから葬儀に向かう所です」
「僕、深夜に散歩してたら、この人がそこでピアノ弾いてたのを見かけたんですよ」
「確かに深夜になると、千鶴子は一人でこっそり出かけていましたね。こんな自分の姿を見られたくないから、深夜しか出歩けないって言って。でもね、千鶴子は最近穏やかな感じでしたよ。やっと自分で気持ちを分かってくれる人に出会えたって。逝くときも、幸せな顔で眠るように永眠しました」
「そうでしたか……」
博也は遺影をしばらく見つめた後、遺族に向かって深く一礼した。
喪服姿の遺族の背中を見送ると、博也はピアノへ歩み寄り、椅子に腰掛けた。
ロビーには、博也の演奏するベートーベンの『ピアノ三重奏曲第5番「幽霊」』が響き渡った。ただ、その演奏は千鶴子が演奏していた暗く沈んだ曲調のものではなかった。
「同じ『幽霊』でも、この『第三楽章』は明るく希望に満ちあふれてる。君の御霊に再び希望あらんことを」
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