第23話 感謝をこめて

 マンションのロビーにピアノがやってきてから、はや一年近くが経とうとしていた。

 最初は物珍しそうに遠目に見るだけで通り過ぎていた住民達も、最近は我先にと演奏する姿を見かけるようになった。

 演奏している人達の中には、このピアノを持ち込んだ博也や友美恵の手ほどきを受けながら弾き始めた人もいれば、子どもの頃に習っていて久しぶりに弾いた人、そして、今もピアノを習っている人やピアノ演奏を生業にしている人もいた。

 今日も博也が仕事を終えてロビーを通りかかると、元キャバクラ嬢のまゆ香がプッチーニの「蝶々夫人」を流暢に弾きこなしていた。セクシーなミニワンピース姿のまゆ香の周りには、沢山の男達が取り囲んでいたが、そのほとんどが中年男性で、露になった脚ばかり眺めており、彼女の演奏とは違う目的(下心)がありそうな感じがした。

 まゆ香が椅子を降りると、どこからともなく金色に染めたショートカットの髪の上に赤いベレー帽をかぶった人形のようないでたちの女性が現れ、入れ替わるように椅子に座った。


「カイラちゃん?」

「ええ? 最近テレビにも出てるあのカイラが?」


 カイラと呼ばれるその女性を一目見ようと、ロビーの中には続々と噂を耳にした住民達が集まりはじめ、あっという間に足の踏み場もない位まで埋め尽くされた。 博也は押し寄せる観客たちに押し出されるかのように、ピアノから少し遠い所においやられてしまった。


「す、すごい! こんなにギャラリーが集まってくるなんて。一体誰なんだろう、あの子は?」


 カイラは背中を丸めて前かがみの姿勢で、髪を振り乱しながら高橋洋子の「残酷な天使のテーゼ」を弾き始めた。カイラの演奏は疾走感がある上、まるでまくしたててくるような圧倒的な力で、見ている人の心に迫りくるような感じがした。

 演奏が終わると、割れんばかりの拍手が彼女を包み込んだ。


「すごい!さすがは『tacotubeタコチューブ』でフォロワーが多いだけのことはあるわね」

「こんな才能がある人がこのマンションに来るなんて、すごいよね」


 その後カイラは観客に向かって自己紹介をした。彼女はインターネットの動画投稿サイト『tacotube』で人気があるピアニストで、駅や公共施設などに置かれたピアノで楽譜無しで即効演奏をこなしているようだ。


「さて、次の曲は広瀬香美さんの『ロマンスの神様』です。もうすぐ冬ですよね?スキーに行く人も、行かない人も、この曲でゲレンデが解けるほど熱くなりますように」


 カイラは再びピアノの前に覆いかぶさるような姿勢でジャズ風の味付けで九十年代の冬を彩った名曲を演奏し始めた。

 その後も次々とジャパニーズポップの名曲が演奏されたが、その高度なテクニックや迫りくるような激しい演奏に、博也も思わず身を乗り出して聴き入ってしまった。


「じゃあ今日はこれで。またお目にかかる時まで」


 カイラは演奏を終えて椅子を下りようとしたその時、どこからともなく「アンコール」の合唱が始まった。その声は会場中に広がり、あっという間にロビー中を埋め尽くした。


「わかりました。それじゃあ、最後はこの曲を。個人的にものすごく思い入れのある曲です」


 そう言うと、カイラは再びピアノに覆いかぶさるような姿勢で椅子に座り込んだが、いつものように早業を駆使するのではなく、ゆっくりと穏やかに指を動かした。


「懐かしいなあ……西田敏行さんの『もしもピアノが弾けたなら』だね」


 博也はカイラの演奏に合わせて、そっと小声で歌詞を口ずさんでいた。思い返せば、この歌は博也が高校生の頃にヒットした曲で、当時は「だけど僕にはピアノが無い。君に聴かせる腕も無い」という部分に反発を感じていた。だったら、自分で必死に稼いでピアノを買って、一生懸命練習して自由自在に弾きこなせるようになればいいのに、と本気で思っていた。


 演奏が終わると、カイラは片手で胸の辺りをおさえながら背もたれに寄りかかり、天井を仰いだ。ロビーでは、割れんばかりの拍手が何時までも続いていた。

 カイラは椅子を下りて深々と一礼すると、頭を掻きながらそそくさとマンションから出て行った。

 観客である住民達がぞろぞろとエレベーターに乗り込み、それぞれ自分の部屋へと帰る中、博也は部屋に戻ることなく、玄関を飛び出してカイラの背中を追いかけた。


「カイラさん!」


 博也が呼び止めると、カイラは金色の髪を風になびかせながら、博也の方を振り向いた。


「カイラさんは、どうしてこのマンションに?」

「ああ、だって今はインターネット調べたらすぐわかるもの。公共施設や駅とかには置いてあるのを見かけるけど、マンションの中にあるピアノは珍しいと思ってね」


 おそらく、住民の誰かがロビーのピアノのことをインターネットで紹介したのだろう。


「このマンションのことを知った時、すごく気になって、一度この場所をちらっと下見に来たんだ。ロビーの中に入ると、住民のみんなが好きな時間に好きな曲を弾いて、それを他の住民が見て拍手していて、褒め合ったり、曲に関する話で盛り上がっていたり、そういうのがすごく微笑ましいし、楽しそうだなって。私がこの仕事を始めた原点を見たような気がしたのよ」

「原点?」

「そう。私がまだ小学校に上がったばかりの頃かなあ?たまたま通りかかった楽器屋さんのピアノがすっごく立派で気になってね。お母さんに『 あのピアノを弾きたい!』ってしつこくせがんでさ。お母さんが店員さんに頼み込んで、少しだけ弾かせてもらったんだ。その頃覚えたての童謡をピアノで必死に演奏したら、店の中にいた店員さん達から次々と拍手が沸き起こってね。まだ小さかった私には、あの拍手がすごく心地良くて、嬉しくてたまらなかった。今思うと、あれが私の原点だったかな~なんて」

「そうなんだ……ところで、自宅にはピアノが無かったんですか?」

「うん、実家は貧乏でピアノが無くてね……弾きたければ学校のピアノを借りるか、友達の家で弾かせてもらう位しかなかった。あの時味わったピアノで弾きたい曲があってもすぐに弾けないというもどかしさ、悔しさといったら……。あの時のやりきれない思いを伝えたくて、そして今、誰もが自由に演奏できる環境があることに深く感謝したくて、ライブの最後にはいつも『もしもピアノが弾けたなら』を弾いてるんだ」

「その曲、僕も自分なりに深い思い入れがあるんですよ」

「あなたにも?」

「はい。この曲は僕が高校生の頃にヒットしたんですが、ピアノを弾きこなせれば、この歌の歌詞のような軟弱なことを口にせず、押さえきれない情熱や思いを好きな人にストレートに届けられるはずだって本気で信じこんでてね、ピアノを猛特訓したんですよ。結果はいくら弾きこなせても、当時自分が好きだった人には何も伝わりませんでした」

「ギャハハハハ、すごく笑えるんだけど」


 博也の話を聞いたカイラは、街中に響く位の声で大笑いした。


「な、何もそんなに笑わなくたって」

「それならば、私だって今頃モテてるはずでしょ?あいにくずっと彼氏はいませんけど~?」

「まあ……そうですよね。アハハハハ」


 時折強い北風が吹きつけ、カイラはコートで顔の辺りを覆い、白い息を拭きながら駅の方向へと歩き出した。


「ねえ、あのピアノをマンションに持ってきたのは、誰なの?マンションの管理人さん?」

「いいえ、僕です」

「あなたが?」

「はい。捨てられそうになってたピアノを再生し、この場所に置かせてもらってます」


 カイラはコートの隙間から、驚いた表情で博也を見つめていた。


「すごい! あなたのおかげで、あのマンションの人達は、きっと今の私と同じ気持ちのはずよ」

「え?」

「『ありがとう』って言いたい気持ち」


 そういうと、カイラは大きく両手を振りながら駅舎の中へと走り去っていった。


「ありがとう、か」


 ジャケットのポケットに手を入れながら、博也はポツリと口に出した。

 マンションに帰ると、ロビーのピアノには一組の親子が、楽しそうに連弾していた。その周りには、何組みかの親子連れが二人を囲むように並び、聞き入っていた。


「お上手ですね。どこかで習ってるんですか?」

「いいえ、このピアノで遊びながら弾いてるくらいかな」

「へえ、このピアノで?すごいですね。私たちも弾いてみようかな」

「どうぞ。すごく楽しいですよ。ここなら隣の部屋を気にする必要ないですし、ここにピアノを置いた人には本当に感謝しかないですよね」


 なるほど、確かに見知らぬ住民同士、気軽にお互いの演奏を楽しむ場面を良く目にするようになった。ほんの少し前までは、挨拶すら返してくれない冷たくて心を閉ざした住民ばかりだったのに。瀕死の所を拾われ、ここに連れてきたピアノは、いつの間にかこのマンションには欠かせない存在になっていた。

 和やかに会話しながらピアノを演奏する家族連れを横目に、博也はエレベーターに乗り込もうとした。

 到着したエレベーターから数人の乗客が降りて行ったが、乗車しようとする博也の耳に、すれ違いざまに突然不気味な声が入り込んできた。


『あのピアノ耳障りなんだよな。いつかここから追い出してやる』


 今の声は空耳だろうか?気のせいだろうか?

 博也はその声に驚き、辺りを見渡したが、エレベーターから降りた人達の姿は既にどこにも無かった。

 折角いい気分に浸っていたのに、一体何であんな物騒な言葉が耳に入ったのだろうか? いや、単なる自分の勘違いに違いない!

 自分に何度もそう言い聞かせつつ、博也はエレベーターのドアを閉めた。

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