第3章 忍び寄る魔の手

第24話 忍び寄る魔の手

 平日の日中、住民達がみな仕事や学校に行き閑散としたロビーで、博也は一人、ピアノの調律を行っていた。

 以前に比べて多くの人達がピアノを弾くようになり、無理やりペダルを踏みこんだり鍵盤を強く押したりするうちに、ペダルや鍵盤の高さが合わなくなり音色や響きが変わってしまうことも時々あった。博也はまず一つ一つの部品を丁寧に確認し、適正な高さに調整する「整調」を行い、その後に調律を始めた。


「なんだかなあ……みんながこのピアノを弾いてくれるのは嬉しいけど、乱暴に扱っちゃだめだよなあ。悪気はないんだろうけど、乱暴されたんじゃ、お前も良い音を出せなくなるよな」


 博也は最後に音色を一つ一つ確認し、鍵盤の汚れを丁寧にふき取った。


「さ、また頑張れよ。このマンションのみんなを笑顔にするんだぞ」


 そう言うと博也は道具を片付けてキャリーケースに仕舞い込み、ピアノの姿を目に焼き付けながら再び仕事場へと戻ろうとした。

 その時、博也のポケットに入っていたスマートフォンが突然けたたましい着信音を上げた。博也は慌ててスマートフォンを手に取ると、耳に押し当てた。


「はい……西岡ですが」

「六〇五号の西岡さんですか? マンションの管理をしている角屋不動産メンテナンス部の堀井です。お久しぶりです」


 電話口の向こうから、このマンションの管理を担当している堀井の声が聞こえた。


「突然の申し出ですみませんが、今夜、西岡さんのお部屋に訪問させて頂いて構いませんでしょうか?」

「今夜ですか?」

「はい。どうしてもご相談したいことがあるんです」

「今夜は仕事が入っていないのですが、それでも七時位にはなってしまうんですけど?」

「そうですか。それでは、今夜八時位に訪問させていただきますね」

「わかりました。じゃあ、お待ちしてますね」


 電話が切れた後、博也は考え込んだ。堀井が直接自分の部屋に来るとは、一体何事だろうか。家賃滞納? 隣人とのトラブル? どれも思い当たるものはないが、唯一心当たりがあるとすれば、あのピアノのことだろうか……。


 その夜、博也は早めに帰宅し、八時までには夕食を済ませていた。

 友美恵とともに後片付けと皿洗いをしていたその時、玄関のチャイムが鳴った。


「はーい、今行きます」


 友美恵がドアを開けると、そこにはアタッシュケースを抱えた小柄な堀井の姿があった。


「お久しぶりです。ごめんなさいね、こんな夜中に」

「いえいえ。こんな遅くまでお仕事お疲れ様です。さ、どうぞ中へ」


 友美恵は堀井をダイニングルームへと案内した。


「何もないですが、先日鎌倉に出かけた時のお菓子があるので、よろしければどうぞ」

「おお、レーズンウイッチ! 私は昔からこれが大好きでね。お言葉に甘えて、頂きます」


 堀井は目の前に置かれたお菓子入りの箱に手を伸ばすと、次々と封を開けて口の中に頬張り始めた。


「食べてる所すみません、今日のお話とはなんでしょうか?」


 博也に突然尋ねられた堀井は、焦って菓子を丸呑みしてしまい、激しくせき込み始めた。


「ケホッ、ご、ごめんなさい、つい食べることに……。今日は、西岡さんがロビーに置かれたピアノの件で相談にうかがいました」

「やっぱり、ピアノのことですか……」

「私のところにこういう手紙が寄せられたんですよ」


 堀井はアタッシュケースから、一通の便箋を取り出し、博也に手渡した。

 そこには差出人名が記載されておらず、整然とした文章だけが延々と書かれていた。


「手紙に差出人の名前は書いてなかったんですが、おそらくこのマンションの住民であることはほぼ間違いないです。私の管理するマンションで、他にピアノを置いてあるところはありませんから」


 博也は手紙を読むにつれて、紙を持つ手が次第に震え始めた。


「博也さん、大丈夫? 手が震えてるわよ」


 友美恵は博也を気遣ったが、博也の手の震えはずっと止まらなかった。


「手紙の主は、あのピアノの音が耳障りで仕方がないとのことです。このまま撤去しなければ、知り合いの弁護士を通して私どもの会社を訴える、とのことです。そして、あのピアノのことをマスコミ関係にも色々情報を流したとのことです。実際、こないだ『週刊口論』という雑誌が私どもの所に取材に来たんですよ。住民が不快に思うものを撤去しないのはいかがなものか? とね」

「ど、どういうこと? そんなの一方的じゃない! 随分卑怯なやり方ね!」


 友美恵は感情をむき出しにして平手でテーブルを叩くと、堀井はうつむきながら、レーズンウィッチの包装を指でこねくり回していた。


「ところで西岡さん、ご存知ですよね? ロビーにピアノを置くのを許可した際の条件について」


 堀井はケースからファイルを取り出し、最後のページをめくると博也の前に突き出した。


「設置当初に西岡さんに送った設置許可書の写しです。これによると、このピアノの設置条件として『ピアノにより住民から騒音を訴えられた場合』は管理者側で即時の撤去を求めることになっております。つまり、現状ではこの条件に当てはまりますので、申し訳ありませんが、遅かれ早かれ、このピアノは西岡さんの手で撤去してもらう必要性があります」


 博也と友美恵は目を丸くして、そのままピクリとも動けなかった。この許可書は博也にも写しが送られており、博也はその内容を確認していた。それゆえに、堀井の言葉に対し何も言い返すことはできなかった。


「でも、このやり方は卑怯じゃない? 私たちが知る限り、このマンションの人達はピアノでの演奏を楽しんでるし、ピアノを通して親交が深まっているはず。こんなこと考えてるのは、ほんの一部の人達に違いないわ。私、ピアノを撤去しろって言ってる人達に直接会いたい。そして膝を突き合わせて話し合って。私たちの考え方を分かってもらうから。それまでは撤去しないでくれる?ね!お願い!」


 友美恵は身を乗り出して、堀井の目の前に顔を近づけて必死に懇願した。


「堀井さん。俺からも頼む。少しだけ時間をくれないか? ピアノ設置に反対する人達を探し出して、話しをしてみたいんだ」


 堀井は指を絡めながらしばらく考え込んだが、やがて両方の手のひらを天井に向かってかざすと、ため息をついた。


「わかりましたよ。もう少しだけ待ちましょう。ただ、相手もあの手この手で撤去を迫ってくるんですよね。それに対処している私の気持ちにもなってくださいよ」


 堀井はレーズンウィッチを菓子箱から数枚取り出すと、ポケットに仕舞い込み、そのまま博也の部屋から立ち去った。


「堀井さん、レーズンウィッチだけ全部食べて行きやがったな」

「随分ポケットに詰めて持ち帰ってたよ。よっぽど好きなのね」

「とにかく、俺たちとしては悠長なことはしてられないな。ロビーのピアノを守るために、どこの誰がやっているのかを突き止め、考えを改めてもらわないとな」


 博也の言葉に、友美恵は強くうなずいた。


★★★★


 誰も居ない平日の午後、友美恵は買い物の帰りにマンションのロビーに立ち寄った。堀井からピアノ撤去の話を聞いてから、毎日のようにピアノの様子を見に来ていた。知らぬうちに、誰かの手で勝手に撤去されてしまうかもしれない……友美恵の胸中には、抑えられないほどの不安が渦を巻いていた。


「すみません。いつもここにピアノを弾きにきてるんですか?」


 突然見知らぬ小柄な中年男性が目の前に現れ、友美恵に問いかけた。


「だ、誰なの。あなた?」

「『週刊ジダイ』の記者の本間ほんまといいます。このマンションには、住民全員の同意を得ずに勝手にここにピアノを設置した人がいたと伺いましてね。私に情報を寄せてくれた人は毎日のように聞きたくないピアノの音を聞かされ、精神的に重い障害を受けてしまったんだそうです。私どもとしても、この問題について住民の方から意見を伺おうと思いまして」

「その人以外の住民から意見は聞いた? ピアノが来るまでは淡白で人間不信な住民ばかりだったのに、今はこのピアノのおかげで、たくさんの住民が明るい笑顔を見せてくれるようになったのよ」

「でも、その陰でつらい思いをしている人もいるんですよ」

「それは何処の誰なのよ? 匿名で管理人に手紙出したりマスコミにリークしたり、正々堂々と私たちに意見を言ってほしいわよ!」

「わかりました……何もお話して頂けないようなんで、結構です」


 本間と名乗る記者は残念そうな表情を浮かべて、とぼとぼと立ち去っていった。


「大体何よ、ピアノの音を聞いて重い障害になるって。随分失礼ね」


 友美恵は本間の背中を目で追いながら、腰に手を当てて深いため息をついた。

 買い物袋を手に取りロビーから自室に戻ると、居間にある電話の「メッセージ録音あり」のボタンが赤く点滅していることに気付いた。

 友美恵がボタンを押すと、男性の重く低い声が再生された。


『六○五号の西岡さん、あなたがロビーにピアノを置いた張本人ですか?管理人を問い詰めて聞き出しましたよ。また電話しますね。あなたがピアノを撤去するまで、永遠にね』


 メッセージ再生が終わると、友美恵は恐怖のあまり体がすくみ上り、力なくその場に座り込んでしまった。


「ただいま」


 ちょうど仕事から帰宅した博也が、座り込んだまま動かない友美恵を見て不審に思い、慌てて近寄り声を掛けた。


「友美恵、どうしたんだ? お前……」


 友美恵の顔面は青白く、全身を震わせながら声にならない声で嗚咽し続けていた。


「友美恵! 一体何があったんだ? しっかりしろ!」

 

 博也は友美恵の身体を抱きしめて何度も揺さぶったが、友美恵は何も答えず泣き続けていた。

 二人の真後ろで、留守番電話の赤いボタンは暗闇の中点滅し続けていた。

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