第25話 孤独な戦い

 西岡博也と友美恵夫妻の住む部屋は、今日も静かな朝を迎えていた。

 いつも通りの朝であるが、居間に置かれた電話の「メッセージ録音あり」を示すボタンは、相変わらず点滅していた。


「昨日の夜もあったみたいだね」

「そうね……」

「メッセージ、聞こうか?」

「イヤだ。聞くと吐き気がしてくるから」

「じゃあ、止めようか」


 メッセージは、最初に録音があった日から丸一週間、毎日のように録音されていた。録音された内容はいずれも、「ロビーに置かれたピアノをすぐに撤去しなさい。応じるまで永遠に電話しますので」というものだった。しかも、博也達が不在の時間や深夜寝静まった頃、狙ったかのように電話してきた。

 一度だけ、博也がメッセージ主と思われる相手からの電話を受けたものの、博也の声と分かったとたんに切られてしまった。相手は最初から博也達と話をする気など無く、ただ脅迫や嫌がらせが目的なのだろう。

 あまりにも姑息なやり方に、博也も友美恵も腹立たしさと同時に、じわじわと迫りくるような圧迫感と恐怖を感じ、徐々に疲労感が募ってきていた。特に友美恵の精神的な消耗が激しく、最近は録音を再生した後、急に気分が悪くなりトイレにかけこみ嘔吐することもあった。

 博也は脅迫してくる相手の出方を注視する一方、友美恵の体調悪化に心配が尽きなかった。


「なあ友美恵、気晴らしに銀座に買い物に行こうか? 家に居たって、憂鬱な気分になるだけだからさ」


 博也はうつむいたまま暗い表情を浮かべる友美恵を気遣い、二人で外出することを提案した。


「美味しいものを食べて、デパートで買い物して、楽器店でも覗いてこようか」

「そうね。家にばかりいても気分が重いし、行こうか」


 友美恵は顔をもたげ、わずかな笑みを見せてくれた。

 博也は友美恵の表情を見て安心し、早速着替え、そそくさと行く準備を進めた。


「博也、そういえば最近、私のことデートに連れてってくれないよね」

「ば、バカ言え。ちょっと前に一緒に鎌倉に行っただろ?」

「あれは半分仕事でしょ?」


 二人はエレベーターに乗り、ロビーに出ると、ちょうど薫とリコの親子とすれ違った。


「あら、薫さん、それにリコちゃん! 元気? 見ない間に大きくなったねえ」

「友美恵さん。おはようございます。ほら、リコ。ゆみえさんだよ」


 リコは薫の胸元で無邪気に笑っていたが、リコを抱く薫の顔は、どこか元気が無かった。


「どうしたの? 元気ないね」

「さっき、そこでピアノを弾いてたら、マスコミの人に声を掛けられて」

「マスコミ?」

「『このピアノで精神的苦痛を負ってる人がいるのを知ってますか』とか『このピアノをここに置くことで、苦痛を負う人がいることをどう考えてますか?』とか、しまいには『あなた方も加担してるんですよ』って……それも、私たちが演奏してるのに、その傍で延々と……」


 博也がピアノの方向に目を遣ると、そこには茶色のジャケットを羽織った怪しげな中年男性がピアノの上で頬杖を付きながら何やらメモを取っていた。


「マスコミって、あの男のこと?」

「そうです。『週刊サースデー』ってって言ってたかな? 私たちの隣に住んでる中学生の千晴ちゃんも、こないだピアノを弾いてる時にマスコミが来て、根掘り葉掘り聞かれて嫌だったって言ってたけど、本当だったんだね」

「……ごめんね。私たちがここにピアノを置いたばかりに」


 友美恵は申し訳なさそうに薫を見つめたが、薫はそれ以上何も言わず、頭を下げると到着したエレベーターに乗り込んでいった。

 博也は週刊誌の記者を問い詰めようと近づいたが、記者はメモを取り終えると、腕時計に目を遣り、慌てた様子で玄関へと走り去っていった。おそらく次の取材の約束でもあるのだろう。

 博也は記者を追いかけたが行方を見失い、深いため息をついた。博也がロビーに戻ると、友美恵が両手で顔を押さえて泣き続けていた。


「まあ気にするな。またここに来たら撃退するからさ。さ、行くぞ!」

「でも……ここにピアノがある以上、こんな辛い思いをしなくちゃいけないんでしょ? ピアノを弾く人たちが嫌な思いをするんでしょ? 私、もう嫌だ、もうこれ以上耐えられない」

「友美恵……」


 博也は泣き続ける友美恵の背中を支えながらも、胸中は複雑だった。

 ピアノを守るため、このまま戦い続けるべきか? これ以上戦うと自分たちはおろか、マンションの人達まで危害が及ぶ可能性もある。何より、友美恵の精神状況は非常に不安定で、このまま奮い立たせようにも限界があった。


「とりあえず今は気分転換しようか。出かける間、嫌なことは忘れようよ」

「うん……」


博也は友美恵の背中をさすりながら玄関を出て、駅の方へと歩み出した。


★☆☆★


 博也と友美恵が銀座から戻りマンションにたどり着いた時には、すっかり空が暮れなずみ、ロビーにはまばゆいばかりに明かりが灯っていた。


「すっかり楽しんじゃったね。久しぶりに食べたけど、美味しかったな、煉瓦亭のハヤシライス」

「あれ、忘れちゃったの? 私たちの最初にデートした場所でしょ?」

「ああ、そうだったね。俺すっかり忘れてたわ」


 友美恵は出かける前に比べると、少し恐怖心が和らいで心に余裕ができたのか、笑顔を見せたり博也をからかったりするようになった。

 ロビーに到着すると、誰かがピアノでエルガーの『威風堂々』を奏でている音が耳に入って来た。


「なかなか力強い演奏だな」


 博也は背後からそっとピアノを弾いている女性に近づいた。

 長い髪を明るい茶色に染め、パーマをかけて大人びた雰囲気があったが、顔に少しあどけなさが残り、見た感じまだ高校生位の子だろうか?


「すみません。演奏、お上手ですね」

「どういたしまして」

「ここで弾いてて、マスコミとかに邪魔されたりしませんか?」

「ああ、さっき来ましたよ。二社、いや、三社くらい来たかな?」

「三社も?」

「でも、聞いてくることが揃いも揃って馬鹿の一つ覚え。『このピアノを弾いててあなたも被害者を苦しめてるんですよ』って。あんた達だってここでピアノを弾いてる人達を苦しめてるだろって言って、追い返してやったけど」


少女はピアノを奏でながら、悠然とした態度でさらりと答えた。


「あなた、強いのね。高校生かしら?」

「高校になんか行ってないよ。中学からずっと不登校。フリースクール通って、今は大検目指して専門学校行ってるんだ」

「ふうん、大変だったんだね……」

「私、中学の時名古屋からこのマンションに引っ越してきたんだ。でも、転校先ですごいいじめにあってね。学校は守ってくれなかったし、親も私の叫びを聞いてくれなかった。それから不登校になって、ちょっとグレてたりもした。フリースクールに通いだした時かな? そこの先生が『親も先生も信じられないなら無理して信じなくていい。柚葉ゆずはは柚葉を信じればいいじゃないか』って。そこでやっと目が覚めたんだ!今の自分はひとりぼっちだけど、自分自身を信じられれば、それでいいじゃんって」


 そういうと柚葉は演奏を止め、椅子を下りて博也と友美恵に顔を近づけ、いたずらっぽい笑みを浮かべながら目の前で手を振った。


「どうしたの?すっごい暗い顔してるよ、二人とも」

「知らない誰かにこのピアノをすぐにでも撤去しろって言われて、どうしようかって考えてたんだ。僕たちがこのピアノをここに持ってきたからね」

「ふーん、どうして撤去? 私はここでたまにピアノ弾くのが気分転換になるし、ここで顔を合わせる人達も、みんな口をそろえてピアノ弾くのが楽しいって言ってたけど?」

「その人ね、ピアノの音で精神状態がおかしくなったからって言って、あの手この手で僕たちを脅迫してきてるんだよね」

「へえ、脅迫? 勝手にやらせておけば? きっと孤独なんだよ、その人。昔の私みたいに、自分のことを信じられなくて自暴自棄なんじゃないの。じゃ、私はこれから帰って大検の勉強しなくちゃ」


 柚葉はにこやかに手を振ってエレベーターに乗り込んでいった。


「しっかりしてるなあ、若いのに『威風堂々』を体現してるよ、あの子。もっと自分を信じろって、強く背中を押された気がするよ」

「うん、何だか私まであの子に力をもらった気がする」


 友美恵は笑顔で柚葉を見送ると、後続のエレベーターに乗り込んだ。

 自室に戻ると、相変わらず電話の「メッセージ録音あり」のボタンが点滅し続けていた。


「また来てるぞ。どうする友美恵? メッセージ、聞いてみる?」

「うん。ちょっと怖いけど……いいよ」


博也は、恐る恐るボタンを押し、メッセージを再生した。


『西岡さん? 今日も電話したよ。まだ観念しないようだね。無視し続けるのも結構ですけど、ふざけた真似をするならば、こちらもいつか実力行使をとらせていただきますからね』


 友美恵はメッセージを聞き終えると、突然青ざめた表情で口元を押さえ、トイレに駆け込んでいった。トイレからは、何度も激しく咳き込む声が響いた。


「おい、大丈夫か?」

「ごめん……やっぱり、聞かなきゃよかった。ゲホッ!」


博也達にピアノ撤去を迫る相手は相当にしぶとく、したたかな人間なのは確かだ。相手は果たして自分の要求のために手段を選ばない冷酷な人間なのか、それとも、柚葉の言う通り、自分を信じ切れず孤独を背負っているかわいそうな人間なのか。

暗闇の中で「メッセージ録音あり」のランプは、今晩も赤く点滅し続けていた。


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