第26話 最後通牒
夕暮れ時、マンションには次々と仕事や学校から戻る人達が玄関をくぐり、ロビーでエレベーターが降りてくるのを待っていた。
以前ならば、誰かがピアノを演奏している音が響き渡り、エレベーターの待ち時間もそれほど退屈を感じなかった。
しかし、最近は演奏を耳にすることはほとんど無くなった。ピアノを弾いていると、どこからともなく雑誌関係の記者が近づいてきて、執拗な位に質問責めを受けた。しかも最近は、雑誌だけでなくテレビの取材まで入るようになった。その結果、今までここでピアノを弾いていた人達は、取材に巻き込まれることを嫌がって次第にピアノを避けるようになっていった。
マンションの雰囲気を少しでも変えたい、気軽に挨拶や会話を交わすことができる雰囲気を作りたい、そんな想いからこのマンションにピアノを置いたのに、これでは以前と同じか、それ以上に雰囲気が悪化しているように感じた。
その時、博也の視野にこのマンションの管理を担当する堀井の姿が入って来た。堀井は何やら大きな張り紙を片手に、ピアノの周囲を右往左往していた。
博也はエレベーター待ちの列から離れ、堀井の目の前に立つと、睨みつけながら「何してるんですか?」と、凄むような口調で尋ねた。
「いやね、この張り紙をどこに張ろうかと思いましてね」
そういうと、堀井は手にしていた張り紙を博也の目の前に差し出した。
博也は、張り紙に書かれた文字を見て腰を抜かしそうになった。
「『このピアノは、十二月中にこの場所から撤去いたしますので、ご了承ください』……?」
「そうです。このたび、このピアノの撤去期限をハッキリと設けさせて頂きました。本社の方では、すぐにでも撤去しろとの命令があったのでね」
ひょうひょうとした態度で答えた堀井を見て、博也は怒りのあまり張り紙を取り上げ、堀井の胸倉を掴んだ。
「僕、こないだ言いましたよね? 苦情をよこす相手と直に話し合ってくるって。それまでは撤去するのを待ってくれって。なのに、僕に相談も無しにこんなふざけた張り紙を貼って!」
「ちょ、ちょっと……確かに相談しなかったのは申し訳なかったですが、こうせざるを得ない状況なんですよ。私の話も聞いて下さいよ!」
突然胸倉を掴まれ恐れおののいた堀井の様子を見て、また、何事かとこちらを注視するエレベーター待ちの住民達の姿が目に入り、博也は思わず堀井のシャツから手を離した。
「で、話って何ですか? 包み隠さず、ちゃんと教えて下さいよ」
「実はですね。先日、テレビ大江戸の情報番組『ホンネ屋』でこのマンションを取材したようです。住民の誰かがロビーに勝手にピアノを置き、ここを通るたびに聞きたくもないピアノの音を聞かされて困惑しているという内容です。しかも、ピアノを弾いてる住民にも直接インタビューして、住民も加害者であるかのように扱っているんですよね。後日全国放送されて、私らの本社に管理責任を問う苦情の電話が殺到しているんですよ。あなた達に懇願されて私もここまで本社に言わず内々で対応してきましたが、先日本社の方から問題提起されて、正直もう逃げようがなくなりました」
堀井の言葉を聞きながら、博也は歯ぎしりをしながら拳を強く握り締めた。
「私だってね、本社の言うことを素直に全て受け入れてきたわけじゃないんですよ。本社はすぐにでも撤去しろって言ってましたけど、少し粘って交渉し、何とか今年いっぱいは待ってもらうことになったんですよ」
堀井は髪を掻きむしりながら、再び張り紙を貼り始めた。その姿を、博也は怒りで全身を震わせながら見続けていた。
「どうして私たちピアノを置いた側の意見や、ピアノを弾くことが楽しいと言ってくれる住民の意見を聞かないんですか? ごく一部の偏った意見をそこまで持ち上げるんですか?」
「そ、そんなこと言ったって……私たちだって、不本意ですよ!こんな形で私たちの会社が標的にされるなんて」
「自分の会社がそんなに可哀想なんですか? このピアノが可哀想だと思わないんですか? 僕らマンションの住民の絆を紡いでくれたこのピアノが、こじつけたような理由で一方的に追い出されるなんて、これ以上可哀想なことはないですよ!」
「自分の会社が可哀想? そりゃそうでしょ! 私たちの会社も、このマンションからのピアノ撤去を迫る苦情を電話で聞き続け、そこにきてテレビの取材で悪者扱いされて、社員の士気が低下するばかりです。心を病んで休んでる社員もいるんですよ? もうこれが限界ですよ、正直言って!」
堀井と博也は、ピアノの前で鬼の形相で睨み合った。
「やめて!エレベーター待ちの人達が見てるでしょ?」
二人の背後から、突然女性の金切り声が響き渡った。
博也が振り返ると、そこには友美恵の姿があった。
「お前、何でここに?」
「だって……ピアノがいつか誰かに無理矢理撤去されそうで心配だもん。堀井さんに最初に撤去の話をされた日からずっと、毎日様子を見に来てるんだよ」
友美恵は顔を背け、ぼそぼそと口ごもりながら心情を吐露した。
「それはすみませんでした。でも、奥さんの心配事が現実味を帯びてきたのも事実です」
「だーかーらー、それを阻止するのがあんたたちの仕事だろって」
「だから、私たちはもうこれが限界なんですよ、げ・ん・か・い。分かりますか?」
「その限界を突破しろよ! 何が何でもこのピアノを守り抜くんだよ!」
二人の口論が再び白熱化し始めると、友美恵は両手で顔を押さえてその場にしゃがみ込んでしまった。
「やめて……もうこれ以上、やめてよ。二人とも」
「友美恵……」
泣きじゃくる友美恵に気づいた博也は、慌てて友美恵の隣に座り、背中をゆっくりとさすって気持ちを和らげようとした。
「友美恵、ごめんな。堀井さんがそこに張り付けた張り紙を見ただろ? 俺がここで踏ん張らないと、ピアノが本当に撤去されてしまうんだぞ」
友美恵は博也の問いかけに何も答えず、しばらくじっと黙りこんでいたが、やがて涙を拭いて立ち上がり、博也の脇をすり抜けて堀井の前に立つと、ようやく口を開いた。
「堀井さん……今まで色々迷惑をかけてごめんなさい」
「はあ? お前、何寝言を言ってるんだ?」
友美恵は頭を下げると、片手で博也の体を制しながら語りだした。
「私たち、このマンションに入居した時に感じた冷たい雰囲気を少しでも変えたくて、あやうく廃棄処分にされそうだったピアノをここに持ち込みました。その時、私たちの気持ちばかりが先走って、住民のみなさんの気持ちをきちんと一人一人確かめなかったのは本当のことです。みんながみんな、ピアノの音を心地よいとか、楽しいとか感じてくれるわけじゃない。そのことを忘れて、マンションに住む誰かの気持ちを不快にしていたのならば、それは素直に謝らなくちゃいけません。ここまで騒ぎが大きくさせ、私たちだけじゃなく管理会社やここでピアノを弾いてた人達まで巻き込んだのは、私たちがズルズルと結論を先延ばししていたからに違いありません。だから私……今回の管理会社の決定を受け入れたいと思います」
博也は友美恵の言葉を聞き終えると、驚きのあまり全身が硬直した。
「友美恵……お前、それ本心から言ってるのか? このままだと撤去されちまうぞ。今日だって、ピアノが撤去されるのが怖いから様子を見に来たんだろ?」
友美恵は頷くと、少しだけ笑みを浮かべながら博也の方を振り向いた。
「そうだよ。でも、それはこのピアノがいきなり見知らぬ誰かに撤去されて、どこかに連れ去られて処分されちゃうんじゃないかっていうことへの恐怖心からなんだ。堀井さんがこうして年末まで私たちに時間をくれたんだもん。それに、このピアノを置く時の許可条件で、このピアノを撤去する時は管理会社じゃなく私たちがやることになってるからさ。そう言う意味で私は決して悪くない話だと思う」
友美恵の言葉を聞いた後、博也は彼女が度重なる圧力に屈し弱気になっていると感じたが、よく考えてみると、彼女なりに納得のいく騒動の収め方だから、とも言えるのかもしれない。撤去を受け入れるのは正直悔しいが、これ以上戦い続けることは、自分たちだけでなく、多くの人達を苦しめる結果になるのは目に見えていた。
「分かったよ……悔しいけど、お前の言うこともわかるよ」
博也は友美恵の身体を後ろからそっと抱きしめた。
「ごめんね。私、博也の気持ちが痛い程分かるよ。でも、これ以上戦っても誰も幸せになれないんだもん」
友美恵は博也の胸の中で再び泣き出した。博也も内心は泣きたい気持ちで一杯だったが、目の前に立つ堀井の前で意地を見せたいと思い、ぐっとこらえていた。
「受け入れて下さるんですね? 良かった良かった。これで本社にも良い知らせが出来そうで何よりです」
すると博也の胸の中で泣いていた友美恵が突如顔をもたげ、大きく目を見開いて堀井をにらみつけた。
「な、何ですかいきなり。怖いなあ、ちょっと」
「年末までは意地でもこのピアノを守って欲しい。もしそれまでの間、このピアノに何かあったら、私はあなた達を絶対に許さないからね!」
「は……はい」
普段は心優しく穏やかな性格の友美恵が今まで見せたことのない鬼気迫る表情に、堀井は震え上がり、後ずさりしながら床に置いたカバンを持ち出すと、そそくさと玄関へと走り去っていった。
「さ、帰ろ、博也。夕食もう出来てるわよ。今夜は博也の好きなビーフシチューだよ」
友美恵はさっきまでの泣き顔が噓のような満面の笑顔で、博也を手招きした。
その顔は、ここまで続いた苦悩から解放されることへの安堵の現れなのか、諦めの境地にたどり着いたからなのか……?
ただ、友美恵と対照的に博也の心中は穏やかではなかった。ピアノの撤去を受け入れることは、結果として「ピアノの音で精神的被害を受けている誰か」からの脅迫めいた間接的な圧力に屈したことになる。その「誰か」とは、ここまで全く言葉を交わしていない。その事実を、どうしても受け入れることができなかった。
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