第27話 真の敗北者

 ロビーのピアノが年末までに撤去されることが決まると、毎日のようにかかってきた撤去を迫る電話がぴたりと止まった。そして、神出鬼没のように現れたマスコミの姿も見えなくなった。

 じわじわと迫りくる見知らぬ「誰か」からの圧力が無くなり、博也と友美恵はようやく安堵して過ごせるようになった。あの圧力に悩んだ日々は一体何だったのだろう? そう思えるほど、以前のような平穏な日々が戻っていた。

 日曜の朝、博也と友美恵は二人向き合って朝食を食べていた。

 窓から差し込む朝陽を浴びながらコーヒーを飲むと、目の前に座っている友美恵の表情が以前よりも落ち着いているように感じた。


「すっかり体調が戻ったみたいだね」

「うん。食欲もあるし、ちゃんと眠れてるしね。以前は食べてもすぐ戻しちゃったし、夜も不安で全然寝れなかったもの」

「そうか、ならば良かったけど……」


 その時、玄関のインタホンが突然室内に鳴り響いた。


「はいはい、どちら様ですか?」


 友美恵は立ちあがると、ドアホン越しにインタホンを押した相手と会話していた。


『長谷部安典だけど、旦那さんいますかね?』


 インタホンを押したのは、博也が時々ピアノを教えているトレーダーの安典だった。博也は立ち上がり、玄関のドアをゆっくりと開けた。


「おや、安典さん。どうしたんですか? またレッスンの相談ですか?」

「違うよ。休んでる所悪いけどさ、これからロビーに来てくれるか?あ、出来れば奥さんも一緒にね」

「わ、私も?」


 二人は安典とともにエレベーターを降りると、安典に手招きされるままにロビーへと歩みを進めた。そして、安典が立ち止まったその場所には、沢山の住民達がピアノを取り囲むようにずらりと勢揃いしていた。彼らの表情は、決して穏やかなものでなかった。


「あ、皆さん。おはようございます。どうしたんですか、こんな朝早くから集まって」

「とぼけるなよ。これ、どういうことだよ?」


 安典は、ピアノの椅子から見て正面に張られた張り紙を指さした。先日、管理会社の堀井が貼り付けた、年末までにピアノを撤去することを知らせるものであった。


「ああ、管理会社の方で、このピアノを撤去することが決まったんですよ。この年末までに撤去するそうですよ」


 博也は、どこか他人事のように張り紙の内容を住民達の前で解説した。


「一応、俺の方で管理会社に聞いてみたけどさ、このピアノをここに置いた西岡さんが撤去に同意してくれたからって言ってたけど?」


 安典の言葉を聞き、博也と友美恵は思わずしかめ面をした。堀井は二人を擁護せず、責任をすべて二人に転嫁しようとしているようだ。


「そうですね……それは、本当のことですね」

「そうですね、だと? ふざけるなよ。俺たちに相談なしで、勝手に決めていいのかよ?」

「皆さんも知っての通り、ピアノがここに置いてあることで聞きたくもないピアノの音を聞かされ、精神的に被害を受けた人がいるとのことでね。僕たちも管理会社もその人からさんざんなまでに脅迫を受けて、これ以上抵抗しても益々状況が悪化するだけだと思ったんです」


 博也はゆっくりと言葉を選びながら、撤去に同意した経緯を説明した。


「どうして、もっと抵抗しなかったんですか? ピアノの音で精神的な被害を受けた人よりも、前向きな気持ちになれた人や日々の楽しみが増えた人の方がずっとたくさんいるのに。私らはこのピアノを通して、このマンションで沢山の友達に出会えました。感謝してもしきれません。なのに、どうして!?」


 昭三と澄子は、腕組みをしながら博也に疑問の声を投げかけた。


「私もです。このピアノがなかったら、沙月と出会うことも無く、このマンションでひとりぼっちだったと思います」


 中学生の千晴が、隣に立つ沙月の目を見ながら声を上げた。沙月は千晴の言葉の一つ一つに大きく頷いていた。

 すると、千晴の声に釣られるかのように、ロビーに集まった住民達がピアノが撤去されることへの不満を次々と口にし始めた。


「私たちから、演奏する喜びを奪わないでください!」

「今すぐにでも、管理会社を説得に行ってください!」

「ピアノの音を聞きたくない人の脅しに負ける必要はないよ。ピアノを置いてほしいという人の方が多いんだからさ」


 住民達からの不満の声は、まるで集中砲火のように博也と友美恵に止むことなく投げつけられた。博也は何も言わず黙っていたが、友美恵はこらえきれず、博也の胸元に顔をうずめて泣き出した。

 その時、茶色の長い髪にパーマをかけた少女が、ポケットに手を突っ込んだまま、住民達の真後ろから怒声が飛び交うロビーを睨みつけていた。

 少女は状況を見るに見かねたのか、突然声を荒げて叫んだ。


「ちょっとあんた達! ピアノ弾きたいんだけど、邪魔だからどいてくれる?」

「な、何だよ姉ちゃん。今、大事な話し合いをしてるんだ。悪いがみんながここを立ち去った後来てくれないか?」


 少女は、以前ここでエルガーの「威風堂々」を弾いていた柚葉だった。柚葉は振り向くと、鋭い眼光で安典をにらみつけた。


「大事な話し合い? この人達をみんなで寄ってたかっていじめてるだけじゃん」

「君、今演奏してるピアノ、年末までに撤去されるの知ってる? そこにも張り紙がしてあるだろ? この人達が管理会社がピアノを撤去することに同意しちゃったんだって。馬鹿だと思わないか? だから俺たちは、今からでも考え直すよう、そして管理会社を説得するよう、この人達にお願いしてるんだよ」

「馬鹿? それはあんた達だろ?」

「な、何だと?」

「あんた達、ここでピアノを弾いてた時に雑誌の記者やテレビ局が来た時、何で抵抗しなかった? これ以上絡まれるのが嫌だから、逃げて行ったんじゃないのか? どいつもこいつも、情けないよね。私はあんな連中に負けたくなかったから、一人で抵抗してたけどさ。本当にこのピアノを守るつもりなら、戦えよ! 自分たちはそそくさと逃げて、この人達に全てを押し付けるなんて、卑怯だよ!」


 柚葉の叫び声が、ロビー中に響き渡った。


「だ、だって……質問されるうちに、だんだん私たちが悪者扱いされていくんだもん。耐えられないわよ」

「へえ。それは私も同じだけど? ここに居る二人なんか、もっとひどいことされてたけど?」

「……」


 柚葉は鼻で笑いながら、ピアノの椅子に座り、力強くペダルを踏みこみながら演奏を始めた。友美恵は、鍵盤の上を跳ねるように動かす柚葉の指使いにじっと目を凝らしていた。


「……ビゼーの『カルメン』? 確かこの部分は『ハバネラ』かしら?」

「ああ、そうだね。相変わらず物おじせず、堂々とした演奏だよな」


 柚葉の演奏は自信に満ち溢れ、誰も寄せ付けない、そして誰にも文句を言わせない力強さに満ちていた。

 やがて演奏を終えた柚葉は大きく息を吐くと、椅子から飛び降り、周りを取り囲むように並ぶ住民達を軽蔑するかのようなまなざしで見つめた。


「じゃ、私帰るわ。正直、ここのピアノが撤去されるのはすっごく頭に来るけどさ。その理由は、管理会社がどうのとか、嫌がらせしてくる奴がどうのとかじゃなくて、誰かのせいにして逃げまくってるあんた達だけどね」


 すると、苛立ちが頂点に達した安典が近くの柱を思い切り拳で叩き、そのままの勢いで柚葉の目の前へ詰め寄った。


「なあ、あんたいくつだよ?見た感じ高校生位だけど」

「私? 十七だけど」

「十七歳? まだまだ子どもだろ? そんな奴が俺たちに説教垂れるのか? さっきから聞いてりゃ偉そうに!」


 すると柚葉は安典をじっと見つめ、ケラケラと笑い出した。


「まあ、子どもといえば子どもかな? でもさ、本当に戦うべき時に戦わず、戦いが終わった後になって、負けた腹いせに私のような子どもと戦ってどうするの? ハッキリ言って情けないんだけど、おじさん」


 安典は歯ぎしりをしつつも、何も言い返せないでいた。

 柚葉は、鼻歌を唄いながら安典の真横を風を切って通り過ぎて行った。

 柚葉が去った後静まり返る住民達の前で、博也と友美恵は深々と頭を下げた。


「今までこのピアノを愛してくれて、本当にありがとうございました。とりあえずこのピアノは、あと一ヶ月だけここに置いてもらえますので、皆さん、今までのように遠慮なさらず弾いていただければと思います」


 博也はそう言うと、再び頭を下げ、友美恵の背中を抱きかかえながらロビーから去っていった。友美恵は両手で顔を押さえて、溢れ来る涙を拭いていた。


「ごめんね、私があの時もっと管理会社と戦っていれば……こんなギクシャクしないで済んだのに。あの子の言うとおりだわ」

「良いんだよ、友美恵。とりあえず俺たちが出来ることはすべてやったんだ。戦いに負けたのは悔しいけど、今となってはそれを受け入れるしかないよ」


 二人の目の前にちょうどエレベーターが到着し、数人の男性が降りて行った。

 エレベーターに乗り込もうとする博也とすれ違いざまに、男性のささやき声がふと耳に入ってきた。


『フフフ、ピアノが撤去されて残念そうな顔してる奴がいっぱいいるな』


 博也は声を聞いて思わず振り向いたが、エレベーターを降りて行った人達の姿はすでに無かった。

 博也はその声に聞き覚えがあった。それは、つい最近まで自宅の留守番電話に吹き込まれていたピアノ撤去を強要する声と同じだった。


「どうしたの? 博也。手が震えてるわよ」

「さっき、いたんだよ。俺たちにピアノを撤去するよう脅した奴が」

「ほ、本当に!?」


 友美恵は目を丸くして驚いていた。

 留守番電話で何度も聞いたあの声……すぐそばで耳にした博也は、脅迫に耐え続けた辛い日々を思い出し、怒りのあまり身体中の震えが止まらなくなった。

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