第28話 思いがけぬ出会い

 ロビーの時計が八時を回ろうとしていた頃、仕事帰りのサラリーマンがエレベーター待ちをしている中、内閣府に勤める寺村尚史は、早足でエレベーターの前を通り過ぎ、かばんを片手にピアノへと直行した。

 尚史はかばんを床に置くと、椅子に腰かけ、目を閉じて大きく深呼吸した。

 鍵盤の上でゆっくりと両手を動かすと、優しく包み込むような音色がロビーの中に広がった。

 博也に手ほどきを受けた坂本龍一の「ウラBTTB」を、尚史は最近ようやく一人で弾きこなせるようになってきた。ピアノを弾くと、尚史の仕事で張り詰めた心が徐々に和らいでいった。まるでこのピアノが、そしてこの楽曲が、尚史の心と身体を解き放つ魔術師のような力を持っているかのように……。

 弾き終わると、尚史は目の前の柱に張られた張り紙を見て、ため息をついた。


「あと一ヶ月で、このピアノが弾けなくなるのか……」


 ピアノを撤去された後も、演奏できる場所を探そうと思えば探せるが、やはりこのピアノでないと、心置きなく演奏することができない。

 そう考えた尚史は、このままピアノが撤去されてしまうことにやりきれない気持ちであふれていた。

 尚史が自室に戻ろうと床に置いたかばんを拾ったその時、ピアノの目の前に置かれたソファーに、茶色のツイードのジャケットを着込み、あごに髭をたくわえた男性が座り込んだ。スーツ姿の若い男性がその対面に座り、二人で和やかに話を始めた。


「あれ……あの男、どこかで見たことあるな」


 尚史はソファーの傍を通り抜け、エレベーター待ちをする振りをしながら、遠目に二人の様子を見ていた。


「今日はここまで付き合ってくれてありがとう」

「いえいえ、今日は仕事で大変お世話になりましたから、全然お気になさらないでください」


 尚史は、男性の声と話し方、そして時折見える顔の表情を見て徐々に思い出した。


「小川……さん?元総務省の」


 尚史は、まさかという表情でじっと男性を見ていた。

 仕事の関係で総務省に出入りしていた当時、尚史は小川と何度か顔を合わせたことがあった。当時小川は課長職であり、場に応じた的確な指示と先を読む力に驚かされた記憶があった。その後、同僚から小川が総務省を退職し、大手広告代理店で仕事をしているという話を耳にしていた。

 尚史はしばらく二人の会話を聞いていたが、その時、思いもがけぬ言葉が耳に入った。


「このマンション、立派なピアノが置いてあるんですね。これ、自由に弾けるんですか?羨ましいなあ」

「なんだ大場おおば君、そんなに羨ましいか?」

「だ、だって、普通はマンションに置かないでしょ? 駅とか空港とかなら聞いたことがありますけど」

「僕は、何でここに置いてあるのか不思議でならない。大体、マンション住民全員の意見も聞かずに一方的にここに置くなんて、横暴なやり方が許せないんだよね」

「そうですか?」

「そう思わんのかね? 君も鈍いんだな。まあ、いずれこのピアノはここから撤去されるみたいだから、いいんだけどね」


 しばらくすると小川はソファーから立ち上がり、にこやかに手を振ってエレベーターの方向へ歩き出した。


「ま、まずい! こっちに来るぞ!」


 尚史は慌てて、ちょうど目の前に着いたエレベーターに乗り込んだ。

 ドアを閉めると、尚史はかばんを両手に持って大きくため息をついた。


「博也さんに言わないと……」


 尚史はエレベーターを降りると、同じ階に住む博也の部屋のインタホンを押した。


「はーい……あら、寺村さん?博也にご用かしら?」

「ちょっと、お話がありまして」


 しばらくすると博也がドアを開け、尚史は滑り込むようにその中へと入り込んだ。


「どうしたの?そんなに息せき切って。いつもの堂々とした寺村さんじゃないね」

「ロビーに置いてあるピアノの撤去を要求してきた人のことで……」

「な、何だって?」


 博也はドアを閉めると、スリッパを用意し、尚史を部屋の中に招き入れた。

 尚史はダイニングテーブルに座ると、目の前に座る博也と友美恵を前に、ロビーでの出来事について語った。


「そうなんだ……よりによって、寺村さんの知り合いだったとは」

「知り合いというより、ちょっと仕事で付き合いがあった位ですね。その後小川さんは総務省を辞めて、大手広告代理店のフェリックスに移ったので」

「フェリックス? 超大手じゃない!?そんなすごい人なのに、ピアノが嫌いなんですね」

「理由は分かりません。それに、総務省にいた時は明るい性格でそんな脅迫をするような人じゃなかったから。でも、フェリックスのような会社にいたら、出版社やテレビにもそれなりに人脈ができるはずなんで、そこから圧力をかけさせる、というのは十分に考えられます」


「脅迫」という言葉を聞いた友美恵は、あの手この手で脅迫され続けた日々のことを思い出したのか、陰鬱な表情を浮かべていた。

 一方、博也は尚史の言う小川という名前を聞き、しばらく考え込んだ。はるか昔に、その名前を聞いた記憶があったからだ。


「寺村さん、その小川さんって人の名前は覚えてるかな?」

「確か……小川、雄登ゆうとだったと思います」


 小川の本名を聞き、博也の表情が一変した。


「どうしたの? 博也。小川さんの名前に聞き覚えがあるの?」

「ああ。間違いじゃなければだけど……僕が学生の時、東大生で将来有望だと言われたピアニストが居てね。そいつの名前がそんな感じだったと思うんだ」

「ピアニスト? うそでしょ?」


 すると博也は本棚に向かい、学生時代のアルバムを探し出した。やがて、古びた赤い表紙のアルバムを取り出すと、ダイニングテーブルの前に持ち出した。


「これ、僕が学生の時に参加したピアノコンクールの集合写真だよ。この中央に座ってる人が小川って言ってた記憶がある。彼は優勝こそしなかったけど、特別賞か奨励賞を受賞していたと思うな」

「こ、この人……!」


 尚史は思わず声を上げて驚いた。


「やっぱり、この人なの?」

「そうです。僕が一緒に仕事した時もこの感じに近かったし、今も面影がありますよ」


 写真の小川はおかっぱのような長い髪を七三に分け、眼鏡をかけて柔和な表情を浮かべていた。博也は写真を眺めながら、「懐かしいな」とつぶやいた後、当時の思い出を語りだした。


「この時の小川さんは将来を嘱望されていたよ。東大出のピアニスト誕生なるか?と、マスコミでもちょっと話題になっていたからね」

「でも、そんな人がピアノを嫌いになれるのかしら? 人違いかもしれないじゃない?」

「まあな。決めつけは良くないけど……でも、大学卒業後小川さんはピアニストにならなかったみたいでね。どうしてピアニストの道に行かなかったのか、僕のいた音大の学生の間でも随分と話題になってたよ」

「きっと総務省に入ったんでしょう。そんなにピアノの才能がありながら、どうしてその道に進まなかったんでしょうね?」

「とりあえず、本当に小川さんが今回の脅迫を行った張本人なのか、ちゃんと確かめる必要があるかもね」

「じゃあ、僕が知り合いを当たってみます。総務省で一緒に仕事した人なんですけど、小川さんの連絡先も知ってるでしょうから」


 尚史は立ち上がると、スマートフォンをポケットから取り出して誰かと通話を始めた。博也夫妻を脅迫した張本人がついに顔を見せてくれるのか? 二人の中には、これがピアノ撤去を阻止する一縷の望みになるという期待と、再び脅迫されるのではないかという不安が渦巻いていた。


 ★☆★☆


 夕方、ピアノの置かれたロビーで、尚史は一人座り込んでいた。

 時折腕時計に目を遣りながら、じっと座って待ち合わせの相手がやってくるのをひたすら待ち続けていた。


「こんばんは。久しぶりだね、寺村君」

「あ、お久しぶりです、小川さん」


 尚史の目の前に、ツイードのジャケットを着込んだ小川が姿を見せた。

 尚史は、総務省で仕事をした時の知人に仲介を依頼し、小川に連絡を取ってもらった。小川は尚史のことを覚えていたらしく、このマンションで会うことを快諾してくれた。


「まさか同じマンションにいるとは思わなかったよ。ずっとここに住んでいたのかい?」

「僕がここに引っ越してきたのは、去年ですかね」

「俺はつい半年前だよ。ここは交通の便が良いからね。以前住んでた都心のマンションは便利だけど、いまいち治安が悪くて落ち着かなくてね。引き払ってここに引っ越してきたんだ」


 小川は足を組んで背もたれに寄りかかりながら、にこやかな表情で話しかけてくれた。


「急にここにお呼びしたのは、実は、ちょっと相談したいことがありましてね」


 尚史はかばんから一枚の写真を取り出し、小川に手渡した。それは、博也から借りた、大学生時代の小川が写っている学生音楽コンクールの写真だった。


「これを何で君が?」

「この写真に写っているこの眼鏡の男性は、小川さんですよね」

「……そうだよ。間違いなく、学生時代の俺だけど?」

「この写真の持ち主は、ここにピアノを置いた西岡博也さんという人です。ご存知でしょうか?」

「……」


 小川はしばらく黙り込んでいた。ついさっきまで笑顔を見せていたが、あっという間に顔中のしわを寄せ、怪訝そうな表情に変わっていた。


「ご存じなんですか? 僕、この人にピアノを習ってるんですよ」


 すると小川はソファーから立ち上がり、尚史の目の前に歩み出ると、そのまま胸倉を掴みだした。


「ここにピアノを置いた奴からピアノを習ってる?  一体どういうつもりかね。しかも、こんな写真を俺に見せつけて」


 小川の表情からはさっきまでの優しさは消え、鬼のような形相で尚史を睨みつけていた。


「僕……逃げませんよ。もう逃げることは絶対したくないんで」

「何だと?」


小川に胸倉を掴まれた尚史は、震えながらも毅然とした表情で小川を睨みつけた。

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