第29話 ピアノの気持ち
「僕……逃げませんよ。もう逃げることは絶対したくないんで」
かつては総務省で一緒に仕事をした小川が、陰からピアノ撤去を迫った人物だと分かったものの、小川は尚史の言葉に逆上し、尚史の胸倉を掴んで恫喝し始めた。しかし尚史は、震えながらも毅然とした表情で小川を睨みつけていた。
「総務省にいたとき、あれほどかわいがってやったのに、そのことは忘れたのか? 内閣府のお前の上司に言いつけて、来年の人事で痛い目に逢わせてやっても良いんだぞ?」
「だから何だというんですか? 何でこのピアノのことでそこまで冷酷になれるんですか?」
「お前に語る必要はない!」
小川が尚史の胸倉を掴む手に、徐々に力が入っていった。尚史は必死に耐えていたが、ネクタイが徐々に締まり、呼吸が徐々に苦しくなり始めた。
「やめろ! 何やってるんだよ!」
二人の後方から、誰かが叫ぶ声がした。
その声が合図になったかのように、ソファーの陰から、ピアノの陰から、さらには玄関から、続々と人影が現れ、小川と尚史の二人を取り囲みだした。
ミュージシャンである銀次、養子に入り兄妹となった穂乃花と僚、ピアノを通して付き合いが始まった英二と早智子、最近徐々に学校に行き始めた『Lemon』を弾く高校生の斗馬、そしてトレーダーの安典……いずれもピアノを通して絆を築き上げた住民達だった。
「な、なんだよ、お前たち」
住民達は周囲からじわじわと二人に迫り、やがて、逃げ場がなくなるほどの至近距離まで近づいてきた。
「その人から手を離せ!」
集まった住民達の中でもとりわけ体の大きい安典が、ロビー中に響くほどの大声で叫ぶと、身を乗り出して、小川の手から尚史を引き離した。小川は抵抗を試みたが、身体が大きく体力もある安典には敵わず、あっけなく振り切られた。
小川は振り切られた勢いで床に倒れ込むと、這いつくばりながら住民達の前から立ち去っていった。
「くそっ、何なんだ? お前たちは。このマンションの住民か?」
「そうさ。このマンションに住んでるんだ。尚史さんから話は聞いたよ。ずいぶん汚いやり方するんだな。ここでピアノを楽しむ仲間として、絶対に許せない!」
「仲間だと? ふん、何バカなこと言ってるんだ!」
小川は取り乱しながらも、ものすごい剣幕で怒鳴り散らした。
「このマンションの住民は狂ってる! お前たち、全員覚悟しろよ!」
そう叫ぶと小川は立ち上がり、ちょうど到着したエレベーターに乗り込んでいった。
「あいつ、さっきから話を聞いてたけど、随分偉そうな態度だな」
「気をつけた方がいいぞ……あの人、マスコミには相当顔が利くからな」
尚史は小川に掴まれてくしゃくしゃになったネクタイを整えながら立ち上がると、エレベーターに乗り込んだ小川の後ろ姿を睨みながら、胸の中の不安を吐露した。
★★★★
夕方、学校帰りの学生や仕事帰りのサラリーマン達が続々とマンションへと戻ってきた。その頃合いを狙ったかのように、大きなテレビカメラを抱えた男性と、黒いコートを着込んだ女性のレポーターが玄関の前で徘徊していた。彼らは玄関を通り自室へ戻ろうとする住民達に片っ端からマイクを向けていた。
「このマンションでは、撤去が決まったピアノを戻そうとする一部住民が過激化して、数の力でピアノの音を聞きたくない住民達に圧力をかけたと聞きました。どうお考えでしょうか?」
ピアノ撤去に反対する住民達は尚史から事前に情報を得ており、断固としてコメントするのを拒否する一方、ピアノにあまり興味のない住民達は、深く考えずにまともにインタビューを受けてしまっていた。
「ピアノ撤去? そうなんだ、残念だけど、聞きたくない人がいるんじゃ、仕方ないよねえ」
「たしかに、あそこでピアノを弾いてる人達って住民全員じゃないからね。自分たちが弾きたいからって、聞きたくない人の気持ちを踏みにじっていいものではないよね」
女性レポーターがまるで彼らに同情するかのように、うんうんとうなずきながらマイクを向けていた。
「そうですよね~。ピアノの音を聞きたいという人ばかりじゃないですからね」
そう言うと、レポーターはマイクを持って、カメラの前で真剣な顔つきで話し出した。
「マンションという場所は様々な人間が同じ建物で暮らす以上、ささいなことで軋轢が起きやすいと言えます。だからこそ、設置する際にもっと住民同士が話し合うべきだったんじゃないでしょうか? 今回のピアノ撤去という結果は、ピアノが好きな住民の皆様にとっては残念な結果ですが、正当な手順を踏まないで一方的に設置したという経緯を考えると、当然の帰結と言えると思います」
★★★★
「博也……これって、私たちのマンションよね?」
自室のテレビで夕食を食べながら夕方のニュースを見ていた博也と友美恵は、突如として始まったマンション前の中継映像に驚き、食い入るように見つめていた。
「……やっぱり。予想通り妨害してきやがったな」
「どうしたの? こないだ、尚史さんがピアノ撤去に反対する人達に声をかけて、小川さんに直談判したみたいだけど、そのことで?」
「たぶんね」
レポーターは何人かの住民にインタビューをした後、もっともらしいことを延々と語り、そこで中継が打ち切られた。
「ちくしょう、何ていうやり方だ……」
博也は悔しさをかみ殺すように、震える拳を握りしめ続けた。その時、誰かが入り口のドアを叩く音が響き渡った。
「は~い!」
友美恵が慌てて玄関へ走ってドアを開けると、そこには堀井が立っていた。
「堀井さん?どうしたんですか、急に」
「実は……ちょっとご相談がありましてね。申し上げにくいことですけど」
「は?」
堀井は後ろ手でドアを閉めると、頭を掻きながらうつむき加減の姿勢で語りだした。
「ピアノの撤去なんですが、今年の年末までじゃなく、もっと早めてくれっていう電話がうちの本社にかかってきましてね。最初は断ったんですけど、ピアノの問題でマスコミを本社に差し向けるからって言われたようでして。本社からも私に、ピアノを出来るだけ早く撤去するよう、住民の皆様に話してくれないかって依頼されましてね」
「じゃ、じゃあ……いつ撤去しろと?」
「今週末の土日なんかどうでしょう? 西岡さんが了承して頂けるならば、すぐにでも専門業者に撤去するよう手配しますから」
友美恵は気が動転し、その場に座り込んでしまった。その様子を見て博也が駆け寄り、友美恵の背中をそっと支えた。堀井は二人の前で、申し訳なさそうな顔で、深々と頭を下げた。
すると、博也は友美恵の身体を介抱しながら、堀井の顔を見上げた。
「堀井さん、それってもう決定したんですか?」
「いや、決定じゃないです。ただ、本社としては出来るだけ早く撤去したいとの意向で……」
「わかりました。じゃあ僕が、説得してきますから」
「説得って、誰を? 本社をですか?」
「いや、今回のピアノ撤去を迫っている人物にです」
「知ってるんですか?」
「ええ、このマンションにいますよ。しかも、僕が学生時代に会ったことのある人物です」
「ほ、ホントに?」
「とにかく、僕が説得してきますよ。堀井さんは本社に結論出すのを待つよう伝えて下さいませんか? 今度、調律の仕事でもう一度鎌倉に行ってくるので、堀井さんの大好きなレーズンウイッチ、たっくさん買ってきますよ」
堀井は、「ま、レーズンウイッチが食べられるなら……がんばってみるか」と小声で呟きながら博也の前からとぼとぼと去っていった。
「博也、大丈夫なの?ピアノ、守れるのかな?」
「大丈夫、やれるだけのことはやってみるよ。ただ、小川は東大出で頭がいいし弁がたつから、一筋縄じゃないだろうな」
そう言うと、博也は友美恵の肩を支えながら入口のドアを閉めた。
数日後、博也は調律用の道具を持って、ロビーのピアノの手入れを始めた。
埃を払い、ネジを締め、何度も音を確かめた。
「何だよ、いつもに比べて悲しそうな音を出すんだな」
博也は調律をしながら首をひねった。心なしかいつもより音の出方が弱いように感じた。
「ここを去るのが嫌なのか?」
博也の問いかけに対し、ピアノの音は、ただ物哀し気に響くだけだった。
その時、ソファー越しに住民同士の声が聞こえてきた。
「こないだニュース見た? ピアノ撤去に賛成してる人達がいるんだね」
「ピアノの演奏を聴くのが毎日楽しみだったのにさ。撤去賛成してる奴を見つけたら、ぶん殴ってやりたいよ」
しばらくすると、別な住民達の声が耳に入って来た。
「さっき玄関で雑誌社の人に声掛けられたのよ。ロビーのピアノのこと聞かれてさ。本当にしつこくて困っちゃう」
「撤去するなって騒いでるのは一部の人達でしょ? 関係ない私たちまで巻き込まれて、本当にいい加減にしてほしいわよね」
住民達の声が聞こえなくなると、博也は大きくため息をついた。
最近、ピアノ撤去をめぐって住民の意見が二分化されてきていた。
ピアノを置いてほしいと願う人達、そしてピアノを撤去してほしい、撤去しても構わないと思う人達。
ピアノがここまで紡いできた住民同士の絆が、このままでは再びほつれてしまう。
「みにくい争いばかりで、お前も悲しくなるよな。でも、お前のことは俺が守るよ。何が起きても、絶対にお前を守るから……だからそんな悲しい音を出さないでおくれよ!」
博也はそう言うと、調律の道具をしまいこみ、ピアノの蓋をそっと閉じた。
ピアノを守れず無力な自分が悔しくて、目にはほんのちょっとだけ涙を浮かべながら。
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