第30話 消えなかった遺恨
夕闇が辺りを包み込む頃、マンションの玄関はにわかに賑やかになる。
学校帰りの学生、会社帰りのサラリーマン、さらには習い事に通う小中学生とその親……たくさんの人達がエレベーターから玄関の間を行き交う。
そんな賑やかな時間帯、博也は一人でロビーのピアノに向かっていた。
今日の博也にはどうしても弾きたい曲があった。はるか昔、博也が大学生の時代にピアノコンクールで耳にした曲だ。
博也は目を閉じて、当時の光景を思い出しながらゆっくりと鍵盤の上に指を這わせた。
その時、博也の視界には会社帰りのサラリーマン達に交じって、挙動不審な動きをする男の姿が目に入った。男は博也の演奏する姿を見ると、まるで恨みでもあるかのようなきつい表情で博也を睨みつけ、その後、慌てた様子で到着したエレベーターに乗り込もうとした。博也は、男の表情に見覚えがあった。
「ちょっと、待ってくれませんか! 小川さん」
博也は、ロビー全体に響く程の大声をあげ、椅子から立ち上がった。やがて博也は全速力でエレベーターの前へと駆け寄り、男の前に立ちはだかった。
「何なんだ、あんたは?」
「お忘れですか? 小川さん。この場所にピアノを設置した西岡ですよ」
「何で俺のことを知っているんだ?」
「あなたとは学生時代、コンクールでよくご一緒しましたからね。それに、僕の名前に覚えはありませんか? 僕の名前は、西岡博也と言います。
博也は壁に片手を付けると、真上から見下ろすような姿勢で、不敵な笑みを浮かべながら話しかけた。
「音大の連中なんて知らないよ。俺は東大を出て総務省に入った。音楽とは縁の無い人間だ」
「それはどうでしょう? 今、あなたは僕が演奏していた曲をご存じのはずだ。さっき曲を聴いて突然表情が変わりましたよね?」
「バカ言うな!音楽をやってないのに、曲名なんか知るわけないだろ?」
「今はそうでしょうけど、昔はどうでしょうね? この曲、あなたが四年生の時の全日本学生ピアノコンクールで演奏した曲ですよ?知らないとは言わせませんが」
「だから何度言わせるんだ。俺は音楽とは縁のない人間だ」
すると博也はポケットから一枚の写真を取り出した。
先日、尚史にも貸し出した、学生ピアノコンクールの写真であった。
「僕もこの大会に出場しましてね。東大の小川雄登さんが奨励賞を受賞していた記憶があります。当時の小川さんは学生音楽界のホープで、僕ら音大の仲間内でもすごく話題になってましたよ」
「何の話をしているんだ? 人違いじゃないのか?」
「じゃあ、弾いてみていただけますか? きっとご存じのはずですよね」
博也はニヤリと笑うと小川の手をつかみ、そのままピアノのあるロビーの片隅へ引っ張り出した。小川の顔は心なしか、引きつっているようにも感じた。
「やめろ! おい! 痛い目に逢いたいのか? 夜中にまた嫌がらせの電話をかけてやろうか? マスコミをお前の部屋に差し向けてやっても良いんだぞ? おい、聞いてるのか?」
「しょうがないですね……じゃあ僕が代わりに演奏しますから」
博也はゆっくりとピアノを奏で始めた。時には強く鍵盤を押し、聞き手の胸に迫りくるような演奏を展開した。
「い……嫌だ! やめろ! もう二度と聞きたくない! やめろ!!」
小川は絶叫しながら両手で耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
「どうですか? シューベルト作曲の『魔王』です。あなたが学生音楽コンクールで演奏していた曲ですよ、覚えてますか? 懐かしいでしょ?」
「懐かしい? バカも休み休みにしろ!」
「あの時あなたが演奏した『魔王』が迫力満点で、聞き終えた後にじわっと涙があふれて感動した記憶があるんです。こんなに才能に溢れた人なのに、何でピアノの道に進まなかったんだろうと、僕はすごく残念でしたよ」
すると、小川は不意を討たれたような様子でしばらく硬直していたが、しばらくしてようやく口を開いた。
「……その理由は、今お前が言った『学生音楽コンクール』だよ。俺がそのコンクールで勝ち取ったのは優勝ではなく奨励賞だった。それで俺の人生のすべてが決まったんだ」
「人生の? 一体何があったんですか?」
「俺は親にピアノをやめさせられたんだ。優勝できなかったことを理由にね」
そう言うと、小川は立ち上がり、天井を仰ぎながら大きくため息をついた。
「うちの父親は俺と同じ官僚だった。だから、俺にも官僚を目指すよう子どもの頃から勉強ばかりさせられた。でも、俺は小学生の頃に習い始めたピアノが本当に好きで好きでたまらなくて、内心ではピアニストになりたいって思っていたんだ。当時俺の親は俺がピアノを続けることを猛反対していたんだけど、ピアノの先生が親を説得してきてね。『おたくの息子さん、才能ありますよ』って。それで、親もしぶしぶ俺がピアノを続けることを認めてくれた。ただし、音大に行くことは認めてくれなくてね。ちゃんと勉強して東大や京大、早慶クラスの大学に進学すること、そして出場するピアノのコンクールでは優勝、駄目でも二位か三位になれという条件を突きつけられたんだ。できないならば即刻ピアノを辞めろってね」
「ひどい話ですね」
「まあな。それでも俺は親の約束を守って、ちゃんと勉強して東大に入ったし、ピアノも必死に練習して、出場するコンクールでは全て優勝していた。だけど、お前と一緒に出場した学生音楽コンクールで俺は奨励賞だった。その数日後に、俺の部屋にあったはずのピアノが無くなってたんだ……」
「え?」
「うちの親、俺がいないうちに勝手に処分しちゃったんだ。俺のピアノを」
「……!」
博也は言葉を失った。
「俺は父親に掴みかかって、ピアノのありかを聞きだした。けど、絶対教えてくれなかった。母親も、父親の脇でずっと口をつぐんだままだった。ただ一言『お前が親との約束を破ったから、撤去したんだ』とだけ言われた」
「そうだったんですね……その後、ピアノを探したんですか?見つかったんですか?」
「親戚や友達、都内の中古ピアノの店、あるいは知り合いのピアニストとか、あらゆるつてをたどって探したよ。でも、見つからなかった。それだけじゃない。ピアノの先生が俺に対して『君はもうレッスンに来なくていいから』って言ってきたんだ。俺は自分のピアノを奪われただけでなく、練習もできなくなってしまった。その時、俺はもう先生に見放されたのかな、と思ってたんだけど、後で色々調べたら、やっぱり親が裏から手を回していたらしいんだ」
小川の手は小刻みに震えていた。
コンクールの結果は奨励賞にとどまったものの、当時の小川はピアニストになることは諦めていなかったのかもしれない。しかし、周囲の人達にそのかすかな望みすら奪われてしまったようである。
「じゃあ小川さんは、その一件で……ピアニストを諦めて、官僚に?」
小川は博也の言葉を聞くやいなや、鋭い目線で睨みつけてきた。
「そうさ!自分の夢を諦めずにあがいても、邪魔ばかりされてだんだん心が擦り切れてしまったんだよ。あの時俺に残された道は、親の言う通り官僚になることだけだったんだ……」
小川はそう言うと、悔しそうにピアノの側面をを拳で強く殴りつけた。
「すみません、そんなに思い切り殴ったらピアノに傷が付くし、故障の原因にもなりますからやめてください!」
「だから何だ! 今の俺はピアノの音を聞くのも嫌だし、姿を見るだけで腹が立って仕方が無いんだよ!」
小川はそう言うと、今度は脚の部分を蹴り飛ばした。
「やめろ! そんなことをしたって過去は戻ってこないんだよ!」
「うるさい! お前には関係ない!」
「だからと言って、このピアノに当たるのは間違ってる。ましてやピアノを弾く人たちを目の敵にするのも間違ってる。今あなたがやってることは、あなたの親がやったことと同じだよ。あなたが憎むべき相手は、自分の親であり、ピアニストになるのを諦めた自分自身じゃないのか?」
博也は心の中で思ったことを、全て小川にぶちまけた。
小川はしばらく歯ぎしりをしながら博也を睨みつけていたが、やがてピアノから手を離し、舌打ちをしてジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
「小川さん、あの頃僕は、あなたを実力のあるピアニストの一人として尊敬していましたよ。あなたの演奏する『魔王』、いつかまた聞かせてください」
博也が小川に語りかけると、小川はあきれ果てた表情で苦笑いしながら、小さな声で「バカ言うなよ」とつぶやいた。
「とりあえず、マンションの住民全員が同意していないのにここに勝手にピアノを置いた行為は許せねえ。撤去の約束はちゃんと守ってもらうからな」
小川は博也に背中を見せ、とぼとぼと歩きだしたが、途中で歩みを止め、少しだけ博也の方を振り向いた。
「とりあえず、もう少しの間だけ待ってやる。その間にせいぜい別れを惜しむんだな」
小川はそう言うと、再び背を向け、手を振ってロビーを去っていった。
★★★★
数日後、夕刻になり、博也はいつものように仕事を終えて自室へ戻ろうとしていた。その時、廊下を猛ダッシュで博也に向かって駆けてくる堀井の姿があった。
「に、西岡さん!」
「どうしたんですか? そんなに息を切らせて」
「ロビーのピアノ……撤去をもう少し待ってくれないかって私が本社に交渉したら、最初の約束の通り、年末まで待ってもらえることになったんですよ!」
「ほお、それはよかったですね」
「だから約束通り、アレをもらえますかね?」
「アレ?」
「だから、アレですよ、レーズンウィッチですよ」
「ああ、依頼主の都合で、鎌倉での調律の仕事は無くなりました。ということで、今はありません」
「え? そんな! 約束が違うじゃないですか! せっかくがんばって説得したのに……」
堀井は落ち込んだ様子で、背中を丸めてとぼとぼと帰って行った。
「まあ、俺が小川さんを説得したから、本社の方でも待ってくれたんだろうな」
堀井の背中を見送ると、博也はほくそ笑みながらかばんからレーズンウィッチを取り出し、口を開けて思い切りかぶり付いた。
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