第4章 旅立ち

第31話 幸せな余生

 十二月に入り、ロビーには白く大きなクリスマスツリーが飾り付けられた。

 平日の午後、クリスマスツリーを背に、ロビーにはマンションに住む老夫婦たちが茶や菓子を持ち寄って集まってきた。

 今日は征三が、日本では見かけない珍しいデザインの包装にくるまれた箱を持ち込んでおり、テーブルの上で開封した。


「今日はギリシャに住む友人があちらのお茶を送ってくれたので、持ってきましたよ。『グリークマウンテンティー』というハーブ茶で、すっきりした味わいがたまらなくてね。僕も航海中に愛飲していましたから」


 鮮やかな緑色の茶がカップに注がれると、「こんな綺麗な色のお茶、初めて見たわ」と三枝子は驚嘆した。「ちょっとずつ飲んでごらん」と征三が言うと、三枝子はゆっくりと口の中に流し込んだ。


「おいしい! すごくさわやかですっきりしてる味ね。これなら何杯もいけちゃう」


 老夫婦たちはお茶を飲みながら、しばらく時を忘れて談笑していた。そんな中、昭三は一人、お茶をすすりながら時折大きなため息を付いていた。


「このピアノ……いよいよ今月で撤去されるんですね。何とも勿体ないことですよね」

「しょうがないわよ。このピアノを撤去しろって騒いでる人がいるんでしょ?自分の意見を押し通すためにマスコミ連れてきて大騒ぎするし、質が悪いよね」


 澄子は昭三の隣に座り、どことなく納得のいかない様子でお茶を口にした。

 老夫婦たちはしばらくの間、ロビーでお茶会を開くのを自粛していた。ロビーにはマスコミ関係者がうろつき、通りかかるとピアノ撤去について意見を求められ、下手に反対を唱えると徹底的に論破してくるので、落ち着いてお茶を飲むことも出来なかった。マスコミがマンション内から姿を消した頃合いを見計らって、老夫婦たちは再びお茶会を始めた。


 その時、杖を手にした一人の男性が、足を引きずるように歩きながら老夫婦たちに近寄ってきた。


「皆さん、久し振りですね。元気でしたか?」


 老夫婦たちがその言葉を聞き、一斉に男性に視線を浴びせると、男性は頭を掻きながら照れ笑いを見せた。


「貞夫さん!?」

「本当だ! 貞夫さんだ。無事に帰ってこれたのね? 良かった……」


 貞夫がソファーに腰かけようとすると、妻の三枝子が立ち上がり、貞夫とともに頭を下げた。


「みんなには心配かけて、本当にごめんね。貞夫さん、ついこないだ退院したの。何とか最悪の事態は逃れて、また自宅療養に戻ったからね」


 すると澄子は立ち上がり、笑顔を見せながら三枝子の背中をさすった。


「いいのよ。貞夫さんが助かったなら、もうそれだけで嬉しいから」


 貞夫は照れ笑いしながらも、無事に病気を乗り切り、安堵している様子が伺えた。


「それでね、せっかくここに戻ったばかりですみませんが、皆さんにもう一つ、お話したいことがあるんですよ」


 貞夫がそう切り出すと、他の老夫婦たちは再び緊張した様子で貞夫を見つめた。


「まさか、一命は取り留めたけど、病気が想像以上進行していたとか……?」


 澄子の答えに、貞夫は声を出して大笑いした。


「まあ、そう思われてもしょうがないかな。実はね、私ども夫婦はこのマンションを引き払い、再度実家に戻ろうと考えてるんですよ」

「え? せっかく都会に出てきて、こうして仲間もできたのに?」


 昭三は目を丸くして驚いた。


「自宅療養っていっても、多分老い先は短いと思うんですよ。病院の先生も『もう歳なんだから大きな手術は難しいし、出来る限り精一杯の処置はしたけど、それ以上のことは出来ません』って言ってたし。だから、いつ再発して、自分の命が終わってもおかしくはない。そう考えた時、自分の人生にいつ終わりが来ても良いように、悔いが無いように好きな場所でとことん好きなことをやろうじゃないかって決めたんですよ」


 そう話す貞夫の顔は、病気が完治していないと言うのに奇妙なほど清々しかった。


「今までみなさんには、短い間だったけど、本当にお世話になりました。このマンションで出会った皆さんのことは、絶対に忘れません」


 三枝子は深々と頭を下げた。


「寂しいわね……折角お友達になれたのに。私たちも時々会いに行っていいかしら?」


 澄子は三枝子の手を握りながら、寂しそうに顔を見つめた。


「いいわよ。待ってるから、いつでも来てね。私たちもこっちに来ることがあったら、ひょいと顔を出すかもしれないから、その時はよろしくね」


 三枝子は澄子の手を握り返し、満面の笑みを浮かべた。


「じゃあ、二人の新しい門出を祝って、はなむけの曲を演奏しようかしら」


 そう言うと澄子はピアノの前の椅子に腰かけた。

 三枝子が以前弾いてくれた『野ばら』だった。三枝子は貞夫とともに、澄子のピアノに合わせて小さな声で唄った。


「良い曲ね。私、学生の頃からあちこちでこの曲を聴いて、自分でも弾いてみたけど、澄子さんの弾く『野ばら』が一番好きだよ」

「本当?嬉しい!」


 二人でにこやかに会話している傍らで、昭三はいまいち浮かない顔をしていた。


「でもさ、俺たちも妻の弾く『野ばら』をもう聴けなくなるだろうな」

「え?どうして?」

「このピアノ……今月末で撤去されるんだそうだ。そこにも貼紙があるだろう?」


 昭三が指さす先には、以前堀井が貼り付けたピアノの撤去を予告するチラシがあった。


「そうなんだ……何があったのかは知らないけど、残念ね」


 三枝子はがっかりした様子で澄子を見ると、澄子は気丈に振舞った。


「大丈夫よ、ピアノが無くてもここに来れば仲間に会えるんだし。無くなっても平気だよ」


 澄子が元気そうに振舞う一方、昭三はまだどこか吹っ切れていない様子でピアノを眺めていた。


「このピアノ、どうするんだろうな。どこか中古の楽器店にでも持っていくのか、学校とかに寄付するのか、それとも……」

「それとも?」

「不用品として処分されてしまうのかな、なんて」


 澄子は突如表情を曇らせ、どこか落ち着かない様子を見せ始めた。


「処分? そんなの絶対許さない! とても受け入れられないわ」


 澄子は興奮気味に、拳を握りしめながら叫び散らした。すると貞夫は立ち上がり、にこやかな表情でピアノの前に歩み出ると、澄子に微笑みかけた。


「このピアノを処分するんですか? じゃあ、私らが持っていきましょうか?」

「ど、どこに持っていくんですか?」

「田舎にある我が家ですよ。私ね、ここでみんなと一緒にピアノを弾くうちに、演奏するのがこんなにも楽しいんだって分かった気がするんですよ。我が家ならば昔子ども達が使っていた部屋が空いているから、そこに入れようと思います。どうですか? もし、撤去した後どこも引き取り手がないなら、私が受け取ります」


 貞夫の言葉を聞き、ロビーの中は静まり返った。

 しばらくすると、静寂を破るかのように澄子が口を開いた。


「ピアノって、置く場所を探すのも大変だけど、音が狂わないよう定期的に調律とかも必要だって聞いたことがあるわよ」

「大丈夫。近所に昔中学の音楽の先生やってた人が住んでるし、もしどうしても私どもの家に置けなくなった時は、町の公民館にでも置いてもらおうと思います。公民館には学校で使わなくなった卓球台とか、町の祭りで昔使っていた太鼓とかも大事に置いてあるし。そもそも、私のいた町には単に邪魔だから、気に入らないから捨てようなんて考えの人はいないですよ。な? 三枝子、そうだろ」


 いきなり話題を振られた三枝子は目を丸くして驚いたが、貞夫の方を向いて大きくうなずいた。


「そうか。じゃあ、貞夫さんにこのピアノを託そうか。みなさん、どうでしょうか?」


 征三は立ち上がり、手を叩きながら辺りを見渡した。


「そうだね。誠実な貞夫さんと、優しい三枝子さんなら、きっと大事にしてくれると思う」

 昭三もうなずき、征三の後を追うように手を叩いた。


「うん、下手に管理会社に任せたら何されるか分からないわよね。良いかしら?貞夫さん」

 澄子も納得した様子で、貞夫の顔を見つめながら手を叩いた。


「ありがとう、みなさん」

 老夫婦たちからの沢山の拍手を聞きながら、貞夫は大きくお辞儀をした。


「貞子さんと三枝子さんがもうすぐここから離れるのは寂しいわね。でも、二人には幸せな余生を送ってほしいと思ってるから」


 そう言うと澄子は立ち上がり、ピアノの前の椅子に腰掛けると、哀愁を帯びたメロディーを奏で始めた。


「わあ!ペギー葉山の『学生時代』かしら?懐かしいわね」

「そうよ。みんなで唄いましょ。歌詞は覚えてる?」

「ああ、昔は歌声喫茶でこの曲をよくみんなで唄ったよ。こうやって、肩を組みながらね」


 そう言いながら昭三は隣に座る貞夫と肩を組んだ。すると、老夫婦たちは隣同士で次々と肩を組み、澄子の奏でるピアノに合わせて『学生時代』を声高らかに合唱した。ロビーの一角だけが、まるで五十年以上前の歌声喫茶のような穏やかな雰囲気に包まれていた。

 その様子を、ロビーを通りかかる住民達が不思議そうに見つめていた。買い物袋を抱えた友美恵も、エレベーターを待ちながら遠目でその様子を見ていた。


「いいなあ、私も交ざりたいな」


 友美恵の気分は久しぶりに高鳴り、心が躍りはじめた。

 その時、ピアノを弾く澄子が端からじっと眺めている友美恵の姿に気づき、演奏を止めると大きく手を振って手招きした。


「あなたも一緒に歌いたいの?」

「え、いや、私、その……」

「ご一緒にどうぞ。昭三さん、隣に入れてあげて」

「良いですよ、こちらにどうぞ」

「は、はい」


 友美恵は昭三の隣に立つと、肩を組み、老夫婦たちと一緒に歌った。

 楽しそうに歌う老夫婦たちの横顔を見て、友美恵には確信したことがあった。

 このピアノが紡いだ絆は、そう簡単にほつれていない。

 一連のピアノ撤去騒動で疲れ果てて、人間不信に陥いりそうだった友美恵にとって、何よりも嬉しいことだった。

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