第32話 子ども達の笑顔のために

 夕方近くになり、辺りが闇に包まれ始めた頃、ロビーに置かれた白いクリスマスツリーは色とりどりの電球が点滅し始めた。カラフルな明かりを目の前にしながら、保育園の先生をしている木下美咲はピアノを弾き始めた。

 先日のお遊戯会ではピアノの伴奏という大役を見事に果たし、先輩たちからの信頼を得た美咲は、今月下旬に行われるクリスマス会での伴奏も行うことになった。お遊戯会が終わってホッとしていた矢先に再び大役を仰せつかり、美咲は肩を落としてしまったが、信頼を勝ち得た結果だと解釈し、園からのオファーを意気に感じて引き受けた。

 美咲は身体を左右に動かし、首を左右に振りながら『赤鼻のトナカイ』を演奏していた。恵理子のアドバイスを元に、園児たちに楽しく唄ってもらえるよう、美咲自身も園児と一緒に歌を楽しむつもりで演奏していた。

 すると、髪の毛をツインテールにした小さな女の子が美咲の足元にゆっくりと近寄ってきた。女の子は美咲のすぐ真下に座り込むと、美咲の真似をして演奏に合わせて首を左右に振っていた。


「あら、いちかちゃん、どうしたの?」

「だって、楽しそうなんだもん」


 いちかは美咲の問いかけに笑顔で答えた。


「すみません、いちかが練習の邪魔しちゃって」


 いちかの後ろでは、母親が申し訳なさそうな顔で頭を下げていた。


「いいんですよ。私も自分の演奏をいちかちゃんに聞いてもらえて嬉しいですし。じゃあ、次は『あわてんぼうのサンタクロース』ね。いちかちゃんも知ってる?」

「しってる~!」


 明るく軽快なリズムを刻みながら、美咲は『あわてんぼうのサンタクロース』を演奏した。真下に座るいちかの顔を見ると、目を輝かせ屈託のない笑顔を見せていた。美咲が歌詞を口ずさむと、いちかもそれに合わせて元気な声で歌ってくれた。


「はい、今日はここでおしまい。ありがとう、いちかちゃん」

「ええ?もうおしまい?」

「うん、気持ちは分かるけど……まだ弾ける曲が少なくてね。一人で練習したいんだ。ごめんね」

「もっとききたい。もっとうたいたいのに!」


 いちかの目には、みるみるうちに涙があふれてきた。


「ちょっと、ダメでしょ?ここで終わるなんて。この子がもっと聞きたいって言ってるのに」

「え?」


 美咲が振り向くと、そこにはスーツ姿で小さなショルダーバッグを肩から下げた恵理子の姿があった。


「いちかちゃんの気持ちは分かります。でも、私も園のクリスマス会の伴奏の練習をしなくちゃいけないんです」

「何しけたことを言ってるのよ。いちかちゃんがもっと唄いたいって言ってるでしょ? さ、席を変わってくれる?」

「は、はい……」


 恵理子の言葉に圧されるままに、美咲はピアノの椅子を降りた。

 恵理子はバッグを床に置くと、ピアノの鍵盤の上を滑るように指を動かした。


「わあ! えりこお姉さんだぁ。ねえねえ、クリスマスのうた、なんでもいいからやってちょうだい」

「じゃあ『ジングルベル』でいい?」

「うん! いちかもいっしょにうたっていい?」

「どうぞ、思い切り大きな声で唄って! 私も歌うからね」


 恵理子の奏でるピアノの音に合わせ、いちかは首を左右に振りながら大きな声で『ジングルベル』を唄い出した。恵理子もいちかの首の動きに合わせ、首を左右に大きく振った。傍から見ると、二人とも心から歌うのを楽しんでいる様子だった。

 すると、二人の歌に釣られるかのようにソファーの後ろ側から小さな男の子と母親らしき女性が姿を見せ、ピアノの近くに陣取って一緒に手を叩きはじめた。


「あら、しょうま君とお母さん?」

「そうです。えりこ姉さんがピアノを弾いてるのをしょうまが見つけたんです」


 やがてしょうまはいちかの隣に立って、声を揃えて『ジングルベル』を唄い始めた。普段は静かなロビーは、子どもたちの屈託のない歌声で一気ににぎやかになった。美咲はその様子を立ったままじっと見ていたが、子ども達の心を読み、心をつかむことは、現役の幼稚園教諭の美咲よりも退職した恵理子の方がまだまだ上手なように感じた。


「ねぇえりこお姉さん、クリスマスのうた、もっとおしえてよ! もっとひいてよ!」


 しょうまはピアノの下で頬杖を付きながら、恵理子の横顔をじっと見ていた。

 すると恵理子は顎に手を当ててしばらく考え込むと、


「そうね……じゃあ、次にここにいる美咲お姉さんに弾いてもらおうかしら?」

 と言い、不敵な笑みを浮かべて美咲の方を振り向いた。

 恵理子から突然役目を振られた美咲は驚いた。


「だ、だって……クリスマスの曲はまだレパートリーが少ないんですよ。だからさっき、いちかちゃんにはこれ以上弾けないって言ったんですけど」

「そうなんだ。じゃあ、練習中の曲をやってみたら? 大丈夫よ、クリスマス会本番じゃないんだから。ね? いちかちゃんとしょうま君。みさき先生のピアノ聞きたいよね?」


 自信なさそうに答える美咲に、恵理子は笑いながら答えた。

 すると、いちかとしょうまは恵理子の隣に立ち、笑顔で大きくうなずいていた。


「じゃ、じゃあ……一曲だけ。『きよしこの夜』を」

「しってる~! はやくきかせてよ」


 しょうまといちかは歓声を上げた。

 美咲は胸の辺りを押さえて気持ちを落ち着かせた後、両手を大きく上へと振りかぶりピアノの鍵盤に手を移した。


「きーよしーこのよるー……ほーしはーひーかりー♪」


 美咲は恵理子の真似をして、「星は光り」の所で頭の上に手のひらを立て、星が輝いているようにばたつかせた。子ども達も美咲を真似て、楽しそうに手のひらを動かしていた。


 美咲は『きよしこの夜』をまだ練習している最中のため、途中演奏が止まってしまうこともあったが、何とか演奏を終えることが出来た。

 いちかもしょうまも満足した表情で、美咲に向けて手を叩いていた。


「二人とも今日は一緒に歌ってくれてありがとう。けど、ごめんね。お姉さんがクリスマスの歌で弾ける曲はもうないんだ。二人に聞かせられる曲が増えるように、それに、お姉さんの幼稚園で今度クリスマス会があるから、もっと練習したいのよ」


 二人の子ども達はお互い顔を見合わせていたが、しばらくすると美咲の言葉を理解したのか、大きくうなずいた。


「じゃ、またこんどね、みさきお姉さん」


 美咲はしょうまの言葉にホッと胸を撫でおろすと、二人の前で頭を下げた。しょうまの母親は、ロビーに置かれたクリスマスツリーをしばらく見つめた後、美咲の方を振り向いて尋ねた。


「クリスマス会かあ……うちの子、来年からは幼稚園に通わせるけど、今年は親子で寂しくクリスマスを過ごすしかないのかなあ」

「そうよね、この辺りでは子ども達が楽しめるようなイベントって少ないですよね」


 母親達の話を聞いた美咲は、答える言葉が見つからず、思わず苦笑いした。

 すると、恵理子は何かひらめいたのか、突然美咲の肩に手を当てると、笑いながら語り掛けた。


「だったら、私たちが主催者になって、ここでクリスマス会をやればいいじゃん。私たちのピアノを聞きに来る子ども達へのクリスマスプレゼントとして、ね」

「ちょ、ちょっと、恵理子さん! 本当にやるんですか?」


 美咲は仰天して恵理子の顔を見つめた。しかし恵理子は笑顔のまま何度もうなずいていた。その様子を見て、しょうまの母親は手を叩いて喜んだ。


「しょうま、やったね。クリスマス会だって!」

「やったあ! いちかちゃんもくるんでしょ?」

「うん、いくよ! おともだちもさそおうかな? えりこお姉さんもピアノでいっぱいうたってくれるんでしょ?」

「もっちろん! みんなが好きな曲をいーっぱいひいちゃうからねっ」


 恵理子は両手でピースサインをしながらいちかに笑いかけた。


「じゃあ、日付が決まったら教えますからね! お友達も誘ってきてくださいね」

「ありがとうございます。子ども達、嬉しくて仕方がないみたい。しばらく眠れないかもしれないですね」


 母親達は、恵理子に何度も頭を下げていた。

 やがて子ども達はそれぞれの母親と一緒に手を繋いでロビーを去っていった。

 美咲はその様子を、呆然とした様子でずっと眺めていた。


「ちょっと恵理子さん! いくら何でも勝手過ぎませんか? 私の意見も聞かないで」

「どうして? いちかちゃんもしょうま君も喜んでたでしょ?」

「でも、今の私は自分の勤める幼稚園のクリスマス会のことで頭がいっぱいなのに……仕事を増やさないでくださいよ」

「大丈夫よ、段取りとかは私が考えるから」


 そう言うと恵理子は美咲を手招きし、ロビーの柱に貼ってある一枚のチラシを指さした。


「撤去?このピアノを?」

「そうよ、今月いっぱいでこのピアノはここから無くなるのよ。こないだ撤去に反対する人達が抵抗したみたいだけど、結局このまま撤去されるみたいね。でも、このピアノが無くなったら、あの子達の楽しみが一つ奪われることになる。だから私、このピアノが置いてあるうちに、子ども達に楽しい思い出を作ってあげたいって思っていたのよ」


 美咲はしばらくの間、チラシに視線を置いたまま身動きが出来なかった。


「日程決まったら、美咲さんにも教えるからね。きっと子ども達だけじゃなく、大人たちも沢山来るかもね?」


 恵理子はそう言って笑うと、床に置いたバッグを拾い、足早にエレベーターに乗り込んでいった。

 恵理子が姿を消した後、美咲は一人で園のクリスマス会で唄う曲の練習を再開したが、いまいち手が思うように動かなかった。恵理子の言う通り、このままではマンションの子ども達にかわいそうな思いをさせてしまう。そう考えると美咲は、胸が張り裂けそうになった。


「自分のことばかり考えてたな、私……」


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