第33話 別れの前に

 夕方、買い物帰りの友美恵は大きな買い物袋を提げながらエレベーターが降りてくるのを待っていた。今日は野菜の特売で、いつもより安い白菜や里芋を沢山買い込んでしまった。


「ふう……重たいなあ」


 ため息をつきながら袋を床に下ろし、なかなか降りてこないエレベーターをひたすら待っていたその時、一人の女性が友美恵に近づき、笑顔で一枚のチラシを手渡した。


「こんにちは。私、このマンションに住んでる住吉恵理子といいます。今度、そこのロビーでクリスマスコンサートをやるんです。小さな子連れの親子向けですけど、大人も参加オッケーですから、良かったらいらしてくださいね」


 恵理子は、友美恵の後ろにいた仕事帰りのサラリーマンにもチラシを渡していた。


「ふーん……親子で楽しむクリスマスコンサートねえ」


 チラシを読むと、赤を基調としたデザインで「ロビーのピアノを弾きながら、みんなで楽しく歌っちゃおう!」と大きく書かれていた。さらに、チラシの下にはさほど大きくない文字で「親子連れ以外の皆さんも大歓迎。大人も気軽にご参加ください!」とさりげなく書いてあった。

 この部分を読んだ後、友美恵は不思議とチラシを持つ手が震えだした。

 友美恵はいてもたってもいられなくなり、チラシを手にロビーを歩き回る恵理子のもとへと駆け込んだ。


「すみません、これって……」

「ああ、このピアノでコンサートをやるんですよ。このマンションって、子ども達が遊べる場所や楽しめる場所も周りに少ないし、それならば私たちでそんな場所を作っちゃおうって思って」

「そうなんだ……ちなみにこのピアノって、今度撤去されるのってご存知ですか?」

「はい。私もそこに貼ってあるチラシを見ましたよ。今年の年末で撤去されちゃうんですよね」


 そういうと、恵理子はピアノの真後ろに立つ柱に貼りつけられたチラシを指さした。


「私は仕事帰りに、童謡とかをこのピアノで演奏しているんですけど、マンションに住む子ども達がいつのまにか集まってくるようになって。でも、ピアノが撤去されたら、私の演奏を楽しみにしてる子ども達が楽しみを奪われてしまい、それはそれで可哀想だろうなって思うんですよね。だから、撤去される前に子ども達への思い出作りを兼ねて、企画してみたんです」


 そう言うと、恵理子は友美恵に片手を振り、再びチラシを手に歩き出し、次々と玄関をくぐる住民達にチラシを一枚ずつ配布していた。

 ちょうどその時、玄関を通り抜けた若い女性が、恵理子の姿を見るや否や、口に手を当てて驚きの表情を見せていた。


「あら、美咲さんじゃない? お仕事お疲れ様」

「恵理子さん……もうチラシ出来ちゃったんですか?」

「うん、だって美咲さんは幼稚園のクリスマス会の準備で忙しいんでしょ? 私の方でレイアウトも印刷も全部やったから。あと、マンションの管理会社にも挨拶してきたから、大丈夫だよ」

「そうだけど……早くないですか? ついこないだ、話題に出たばかりですよね」

「そうよ。でも、時間は着々と迫ってるからね。クリスマスまであとどれくらい?

 そしてロビーのピアノが撤去される日は? 残された時間はあるようで、どんどん無くなってきてるのよ」


 恵理子は迫りくるような勢いで美咲を問い詰めていた。


「わ、わかりました。私もチラシ配るの手伝いますから」

「いいんだよ? 疲れてるだろうし、これからクリスマス会のレパートリーの練習だってしなくちゃいけないんでしょ?」

「ううん。それよりも私はこのマンションの子ども達のことが心配なんです。今まで私たちのピアノを聴きに来てくれた子達の笑顔がもう見れなくなるなんて……何だかすごく酷だよなあって。大人の都合で、ピアノを弾くことも聴くこともできなくなるなんて……」


 そう言うと美咲は両手で何度も目元を拭った。


「ありがと。美咲さんも私と同じ気持ちなんだね」

「え?」

「その気持ち、ありがたく受け取るよ。でも美咲さんには、このマンションのほかにも笑顔にしなくちゃいけない子ども達が沢山いるんだからさ。そのためにもがんばって練習してちょうだい。このイベントのことは私に任せてよ。そもそも、言い出しっぺは私なんだし」


 恵理子はそう言うと美咲の背中を軽く叩き、そそくさと走り去っていった。


「恵理子さん! 私、確かに時間はないけれど、チラシ配り位なら……」


 美咲は恵理子を追いかけようとしたが、恵理子は上階から降りてきたしょうまとその母親を見つけると、ひざを曲げてしょうまに目線を合わせながらチラシを渡していた。


「はい、しょうま君。今年のクリスマスに、そこのロビーでイベントやるから来てちょうだい」

「わあ、決まったんですね! よかったぁ~。しょうま、やったね! 絶対見に行こうね」


 しょうまは満面の笑みで母親と顔を見合わせた。美咲は遠目でその様子を見つめていたが、チラシを手にしたしょうまの笑顔を見て、思わず涙があふれてきた。


「私も園児たちを笑顔にしなくちゃね」


 美咲は表情を引き締めると、ピアノの前の椅子に腰掛け、『あわてんぼうのサンタクロース』を元気よく弾き始めた。


「あ、美咲お姉さんだ!」

「ほんとだ! ねえママ、みさきお姉さんのところにいこう!」

「そうね」


 美咲の元気いっぱいの演奏がロビーに流れる中、恵理子はエレベーターの前に立つ人たちにチラシを配り続けていた。

 しょうまと母親は、美咲の真下でじっと美咲の演奏を見つめていた。

 そして友美恵は、エレベーターが到着しても乗り込まずにその様子をじっと見続けていた。


「友美恵さん。ボケっとしてたらエレベーター逃しちゃいますよ」


 野太い声が友美恵の背後から聞こえた。振り向くとそこにはトレーダーの安典が、腕組みをして仁王立ちのようないでたちで友美恵を見下ろしていた。


「あの人達、クリスマスにこんなイベントをやるんだって」


 安典は友美恵からチラシを見せてもらうと、目を凝らしてじっくりと読みふけった。


「へえ、面白そうな取組だね。俺も出ようかな?」

「安典さんも?」

「まあ、かれこれ半年近く博也さんの教えを受け続けてきたから、その成果を多くの人達に聴いてもらいたいなって思うからね」

「でも、元々は子ども向けのイベントみたいですけど」

「だからこそ出るんだよ。こんな俺でも努力すればここまでやれるんだ! っていうのを子ども達に見せてやりたいんだ」

「は……ははは」


 友美恵は苦笑いしたが、安典は鼻息を荒くして相当気合が入っているようだった。


「俺の『ピアノ仲間』にも声を掛けようかな。もうあのピアノはここから撤去されちまうんだ。最後にみんなで思い出作ろうぜってね」


 そう言うと、安典は友美恵に手を振ってエレベーターに乗り込んでいった。


「友美恵さんも出たらどうですか! あ、そうそう、博也さんにもぜひ参加するよう声を掛けて下さいよ!」


 次第に閉じていくドアの隙間から、安典は大声で友美恵に呼び掛けた。

 安典は体育会出身でバイタリティ溢れる性格ということもあり、このロビーでピアノを弾く住民のリーダー的な存在になっていた。小川に対するピアノ撤去への抗議行動の時も、先陣を切って住民達を引っ張っていたのは安典だった。

 彼のことだから、ピアノをたしなむ住民達に片っ端から声を掛けて参加者を集めて来るに違いない。そう考えると、元々子ども達のために行われるささやかなイベントが、マンション全体を巻き込む大きなイベントになるような気がしてならなかった。


 ☆★☆★


「ただいま。あれ? もう帰ってたの?」

「ああ、今日は仕事を早く切り上げたんだ。特に仕事が入っていなかったからね」「ごめんね遅くなって。急いで夕食の準備するね」


 自室に戻った友美恵は、すでに博也が帰宅していたのを見つけ、慌てて買い物袋に入っていた野菜を冷蔵庫に入れ始めた。


「あ、そうそう。これ見てくれるかな? ロビーでもらったんだ」


 友美恵は冷蔵庫に野菜を入れていた手を止めて、恵理子からもらったチラシを博也に見せた。


「へえ、親子で楽しむクリスマスコンサート?」

「そうなの。でもね、親子とは銘打ってるけど、大人が参加しても良いみたいだよ」

「面白そうなイベントだね」

「それでさ、ちょうどチラシをもらった時に安典さんとすれ違って、自分も参加するつもりだって言ってたわよ。ピアノ仲間にも声を掛けるって」

「ハハハハ、無理はしない方が良いんじゃない? 安典さんはもう少し練習が必要だと思うけどなあ」

「でも、本人は本気みたいだよ。あ、そうそう、私や博也さんも出ませんか? って言ってたよ」

「俺が?」


 博也は髪の毛を片手でいじりながら、いまいち気乗りしない様子を見せた。


「人に教えるばかりじゃなく、たまには自慢の腕を披露したら? 一応はピアニストを目指してたんでしょ?」

「まあ……でも、腕は落ちたよ。人様に聴かせられるもんじゃないよ」

「そうなんだ。じゃあ出なくていいよ。私は出るけどね」

「友美恵が? お前は俺よりもっとブランクがあるだろ? やめとけよ! 笑いものになっちまうぞ」

「確かにね。でも、あのピアノをあの場所で弾けるのはこれが最後だからね。それに、久し振りに人前で弾いてみたくなってね。若い時みたいに可愛い衣装着て演奏しよっかな?」

「やめろ! 年齢がバレて恥ずかしい思いするのはお前だぞ!」

「いいもん。私、まだまだ若いつもりだから」


 そう言うと、友美恵はクリスマスソングを口ずさみながらまな板の上で野菜を切り始めた。

 博也は額に手を当てながら、不機嫌そうに友美恵からもらったチラシに目を通していたが、しばらくすると苦笑いしながらチラシをそっと床の上に置いた。


「しょうがないな。このマンションのために頑張ってくれたのために、俺もひと肌脱ごうかな」


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