第34話 演奏会がはじまるよ

 朝から小雪が舞うクリスマスイブ、マンションのロビーには沢山のごちそうとお菓子、それにワインやビール、子ども向けのジュースが並べられた。

 壁には金銀の飾りと人形や丸玉の付いたクリスマスオーナメントが取り付けられ、窓から見える植栽には白い電球のイルミネーションが灯された。

 恵理子と美咲が朝早くから飾りつけを行い、高所の部分はトレーダーの安典が手伝っていた。


「ごめんね長谷部さん、通りすがりでチラシを受け取っただけでも嬉しいのに、ここまで手伝ってくださって。仕事、忙しいんでしょ? あとは私たちがやるから大丈夫ですよ」

「気にしないでよ。俺、こういう祭りとかイベント事は好きだから。学生時代は体育祭の実行委員長もやったことがあるからさ」

「そうなんですね、すごく助かります。最初はマンションに住む小さな子どもと親御さんに楽しんでもらう小さなイベントにする予定だったけど、いつの間にかマンションを巻き込む大掛かりなイベントになっちゃって、私たちだけじゃ準備が追い付かなくて」

「ああ、俺がチラシを『ピアノ仲間』にも見せたからね。そしたら予想以上の反響でさ」

「長谷部さんが誘ったんですか?」

「そうだよ。俺たちはこのピアノを通して音楽に目覚めたり、見知らぬ人との出会いや繋がりが出来たり、本当に感謝してもしきれなくてさ。それなのに撤去が決まって、正直みんな意気消沈していたんだよ。だからこそこのイベントをやると聞いて、みんなこぞって参加したいって言ってくれたんだ」

「私たちもそうですよ。このピアノがあったから、子ども達と触れ合えたし、現役の先生してる美咲さんにも出会えたし、ね?」


 恵理子は美咲に目配せすると、美咲は照れながら顔を横に背けた。

 安典は笑いながら、テーブルに目を遣ると、そこにはたくさんの食べ物と酒が用意されていた。


「うわ、こんなに沢山の料理やお酒、自分で用意したの?」

「ううん。マンションに住んでる人達からもカンパしてもらったんですよ。ここのお菓子とワインは、元船乗りっていうおじいさんからいただきました。みんな親切ですよね」

「へえ、カンパなんだ?」

「そうです。パーティの足しにしてくれって言って、こんなに頂いてしまったんです」

「俺も何か出そうかな? 愛飲してる焼酎の大五郎でも持ってくるかな?」

「良いですけど、それって自分が飲むためですよね?」

「まあな、ハハハハ」


 イベントの準備が進むうちに、次第に夕闇が辺りを包み込みはじめた。

 やがて、マンションの四方八方からロビーに客が集まり始めた。まずは小さな子どもとその母親たちが、ピアノの周囲に設けられた椅子に腰掛けた。

 サンタクロースを模した白いファー付きの赤い帽子とケープをまとった恵理子と美咲は、笑顔で子ども達を出迎えた。


「あら、いちかちゃん!」

「えりこお姉さん、こんばんは~」

「みんな来てくれたんだね。いちかちゃん、サンタのコスプレしてきたんだね?」

「ママがつくってくれたんだ」

「すごい、いちかちゃんのママ、お洋服作るのがじょうずだね」

「しょうまくんもきてたよ。あと、こうすけくんもりゅうだいくんも」

「みんな来てるんだね。今日はお菓子も料理もいっぱい用意したから、お腹いっぱい食べて帰るんだよ」

「は~い!ねえ、みんな、あそぼあそぼ」


 子ども達はクリスマスツリーの周りで、輪を描くように追いかけっこを始めた。

 歓声が響く中、到着したエレベーターから昭三と澄子夫妻が手を繋いで現れた。二人はソファーに腰掛けると、ツリーの周りを嬉しそうに駆け回る子ども達の姿を目を凝らして見つめていた。


「あらあ、おチビちゃんたち。元気ね」

「そうだね。俺たちの孫くらいの子達かな、それよりも小さいかな?」


 大きな声で元気いっぱい走り回る子ども達を、澄子は手招きした。


「ねえ、お嬢ちゃん、お名前は?」

「はしもと いちか……」

「いちかちゃん? かわいいなあ。ちょっとまって、持ってきたお菓子をあげるから」


 澄子は笑顔で懐から取り出した「たまごボーロ」を見せたが、いちかはとまどった様子でしばらく澄子の手のひらの上のお菓子を眺めていた。


「あれ? いらないの? 美味しいのに」


 すると傍にいて見兼ねた母親が、いちかの耳元で何か話しかけると、ようやくいちかは手を出し、澄子の手からたまごボーロを受け取った。


「ごめんなさいね、うちのいちかもそうですけど、今の子達は見知らぬ人に声掛けられたりお菓子をもらったりすることが無いし、最近は物騒な事件が多いので、声掛けられたら変な人かもしれないからねって教えてるから、怖かったんだと思います」

「そうなんだ……」


 澄子はがっかりした表情を浮かべていたが、いちかが美味しそうにたまごボーロを食べているのを見て、ホッとした表情を見せていた。

 すると、さっきまで駆けずり回っていたしょうま達がいちかが手にしたお菓子を見て、引き寄せられるようにやってきた。


「おいしそう! いちかちゃん、ぼくにもちょうだい!」


 その様子を見た澄子はしょうまに近づくと、たまごボーロの袋をそっと手渡した。


「みんなで分けてね。取り合いしたらダメよ」


 しょうまはいちかと同様に緊張した様子を見せたが、澄子が笑顔で手渡すと、袋をそっと持ち去り、他の男の子達とともに食べ始めた。


「にぎやかですなあ。こんなに子ども達がいっぱいいたんですね、このマンションには」


 丁度その時、貞夫と三枝子夫妻と、征三と晴代夫妻も到着し、お菓子を食べながらおしゃべりに夢中になる子ども達の姿を微笑ましく見つめていた。


「テーブルのお菓子とお酒は、僕がイタリアやギリシャから取り寄せたものです。いっぱいあるから、この機会にみんなにもおすそ分けしようと思いましてね」

「さすが征三さん、世界を股に掛けた人は違うねえ」


 征三が鼻高々に話す後ろで、通りすがりの若い夫婦が物珍しそうにお菓子の袋を手に取って眺めていた。


「なにこれ? 小さなパンみたいなお菓子。ラスクかな?」

「ああ、それはカントウッチーニと言って、イタリアのアーモンドビスケットですよ。ワインによく合うので、ワインと一緒にどうぞ」

「へえ、本当だ。ワインもイタリアから?」

「そう。これもイタリアのトスカーナから取り寄せたんです。赤ワインのキャンティ・クラシコ、濃厚でしょ?」

「本当だ。このビスケットにも合うよね。じいさん、すごいなあ」

「いやはや、そんな。イタリアはマリアとの苦い思い出もありますが、食事は世界一だと思いますからね」


 征三がワインやお菓子のうんちくを語っている最中に、ロビーの中にはいつの間にか沢山の住民達が訪れ、足の踏み場もない状態になっていた。

 発表の練習を兼ねてピアノを弾く人、テーブルに並べられた珍しい食べ物を見つけては食べ歩く人、お酒を飲んで真っ赤な顔で気分よさげにソファーにもたれかかる人、友達同士で話に花を咲かせる人。今まで通り過ぎるだけの場所、待ち合わせの場所だったロビーが、いつのまにか住民達が集まり、交流し、自由に時間を過ごす空間になっていた。

 その様子を、博也と友美恵は遠くから見つめていた。


「すごいわね。これって本当に私たちのマンションなのかしら? 来たばかりの頃なんて、あんなに白々しく冷めきった雰囲気だったのに」

「そうだね。まるで別な場所にきたみたいだよな」


 博也はタキシードに蝶ネクタイ、友美恵は肩と背中が少し開いたベージュのドレス姿で、会場の中に入っていった。


「どう、似合う? もう十数年前に着たきりだけど、まだ着れたからビックリしちゃった」

「ま、まあな。似合うんじゃないか?」

「博也さんも久し振りよね、タキシード」

「今回だけだよ。これ着ると、プロのピアニスト目指して苦しんでいた時のことがよみがえるんだよな」

「そう? 私はあの頃の一途な博也さんが好きだったんだけど」


 友美恵の言葉を聞いて、博也は背中が凍り付いた。

 若い頃、ピアニストを目指すことに息苦しさを感じていた博也は、タキシードを着ると、当時の嫌な思い出が少しだけよみがえったように感じた。


 ロビーには、親子連れに交じってこの後行われる演奏会に参加する人達の姿もあった。彼らはこぞって着飾り、会場はちょっとした仮装パーティのような雰囲気になっていた。


「うわあ、友美恵さん!来てくれたんですね?」


 トナカイの帽子を被った薫が、娘のリコを抱っこしながら笑顔で友美恵に手を振っていた。


「まあね。だって、このピアノで演奏会するなんてこれが最初で最後になるんだもん。出ないわけには行かないでしょ?」

「ですよね。そのことはみんな話していましたよ。ピアノが撤去されたら二度とここで演奏会が出来なくなるからって。ね、リコも寂しいもんね?」


 博也も友美恵も、そして参加者たちも思っていることは一つだった。

 この演奏会は、そのままこのピアノとのお別れ会になるということ。

 だから、誰もが気合を入れてこの会に臨んでいるように感じた。

 しばらくの間ロビーでは歓談が続いていたが、やがて恵理子と美咲がマイクを持ってピアノの前に立った。


「皆さん、お待たせしました!これからいよいよ今日のメインイベントである、ピアノ演奏会を始めます。今日は何と二十組ものエントリーがあり、私たちも正直驚いています」


 恵理子のアナウンスを聞いて、会場からは大きなどよめきが起こった。

 まさか二十組も参加者がいたなんて。


「トップバッターは、私たち司会を務める現役幼稚園の先生と、元幼稚園の先生のコンビで、子ども達に捧げるクリスマスキャロルを演奏します」


 波打つように場内のあちこちから拍手が沸き起こった。 

 いよいよ、ロビーのピアノにとって最初で最後となる演奏会が始まろうとしていた。

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