第35話 聖夜の演奏会(その1)
今回の演奏会の司会を務める恵理子と美咲が、トップバッターとして登場した。
ピアノの前に二つの椅子を並べ、連弾で『ジングルベル』を奏で始めた。
二人で首を同じ方向に振り、軽快なリズムを刻みながら歌った。
「ジングルベール、ジングルベール、すずがなる~」
二人の声に導かれるかのように、子ども達が続々と椅子の周りに集まり始めた。リズムに合わせて手拍子したり、歌ったり、首を振ったり……子ども達は自由気ままにピアノの演奏を聴いていた。
「わあ、こんなにいっぱい子ども達が集まってきたね。じゃあ今度は私、恵理子姉さんが『あわてんぼうのサンタクロース』を演奏しま~す!」
恵理子が声を上げると、子ども達は歓声を上げて拍手を送った。美咲は立ち上がり、タンバリンを持って子ども達の周りを歩きながら叩いた。「急いでリンリンリン」の部分では、子ども達も美咲のタンバリンに合わせて手を叩いた。
「はい、次は美咲姉さんの番だね」
恵理子と入れ替わって椅子に座った美咲は、全身に緊張が走った。さっきは恵理子と一緒だったけど、今度は一人で弾くので、ちょっとした間違いもごまかせなくなる。何度も胸を撫で、深呼吸して鍵盤に手を当てた。
「みさきお姉さん、がんばってっ」
その時、いちかの声が美咲の耳に入った。
緊張して表情の硬い美咲を見るに見かねて、いちかはありったけの声を上げて応援してくれているのだろう。本当は美咲がいちか達を盛り上げなくちゃいけないのに。
そう考えた時、美咲はやっと正気を取り戻した。
「お姉さんはだいじょうぶだよ~! さ、みんなもいっしょにうたってね」
美咲は笑顔で子ども達に手を振った。
演奏は上手くいかないかもしれないけど、どんなに辛くても笑顔を忘れず、目の前にいる子ども達を楽しませ、笑顔にすること……美咲は楽譜から目を逸らし、子ども達一人一人の顔を見ながら演奏をつづけた。
演奏が終わると、子ども達は拍手を送った。
「せんせい、またきかせてね」
椅子を下り、お辞儀をした美咲にいちかは笑顔で語り掛けた。
「ありがとう、いちかちゃん」
美咲はずっとこらえていた緊張から解放されたからか、涙を流しながらいちかを抱きしめた。
「美咲さん、今泣いちゃダメでしょ?これからまた司会の仕事があるんだから」
「す、すみません。でも、その、つい……」
恵理子は美咲をたしなめたが、美咲はいちかを抱きしめたままずっと泣きじゃくっていた。
「あ~もういい!時間が押してるんだから先に進めるからね! すみません、私の相棒がずっと泣いてしまってるので、しばらくは私が一人で司会をやります。続いては、エントリー二番・奥野薫さんと娘のリコちゃんで『渚のアデリーヌ』です」
すると、トナカイの帽子を被った薫が、リコを抱いたままピアノの前に座った。リコの頭をゆっくりと撫でて微笑むと、鍵盤に手を置き、どこかぎこちないながらもゆっくりと手と指を動かした。時々演奏に詰まるものの、そのたびに薫は歯を食いしばり、演奏を続行していた。
その時、リコが突如ぐずり始めた。母親の薫がせっかくリコが好きな『渚のアデリーヌ』を演奏しているというのに。
「もう、何でこんな時に……! リコ、もう少しで終わるから待っててちょうだい!」
しかしリコは気分が落ち着かないのか、しゃくりながら声を上げて泣き続けた。司会の恵理子がマイクを置いて慌てて薫に近寄り、そっとリコを抱きかかえると、ゆりかごのようにゆっくりと身体を動かしてリコをあやした。
「ほら、ママががんばって演奏してるよ。リコちゃんが大好きな曲なんでしょ?」
するとリコは次第に泣き止み、指を口にくわえながらじっと薫を見つめていた。
ようやく演奏が終わると、リコは「ア~」と声を上げてまるで拍手しているかのように両手を空中で左右にぶらつかせた。
「リコちゃん、ママがんばったね~って言って拍手してるよ。お疲れ様でした」
会場からも親子に向けた温かい拍手が沸き起こった。恵理子からリコを受け取った薫は、「ごめんなさい」と声を上げ、深々と頭を下げた。
「いいんですよお母さん。リコちゃんきっと、大勢のお客さんが目の前に居てビックリしちゃったんでしょうね。でも演奏した後のリコちゃんの笑顔、最高でしたよ。さ、続きましてエントリー三番、
すると、頭にカエルの被り物をした親子がピアノの前の椅子に座り、場内からはクスクスと笑い声が起こった。
「お母さん……恥ずかしいじゃん、これ。早く取りたいんだけど」
「いいから、たった数分の我慢だよ。ね、いいでしょ?」
母親の冴子にたしなめられながら、まりえは終始不満そうな様子で椅子に腰かけた。
まずは冴子が最初に演奏し、次の小節に移った瞬間にまりえが冴子の演奏した小説を遅れて演奏し始めた。
博也が冴子に教えた「カノン」という奏法により、まるで輪唱するかのように二人の演奏は繰り返された。最後の小節を冴子が演奏し終えると、まりえが演奏を終えるのを待つかのようにそのまま同じ小節を繰り返した。
そして最後に、二人で息を合わせてぴたりと演奏を止めると、声を合わせて大声で叫んだ。
「ゲロゲロゲロゲロ、グワグワグワ~~!」
会場からは拍手に交じり、笑い声が上がっていた。
まりえは冴子を待つことなく立ち上がると「帰る!」と言い放ち、きまりが悪そうな顔でそそくさと客席の向こうへと走り去っていった。冴子も頭を下げると、まりえの後を追いかけた。
「お母さんと娘さん、息の合った演奏でしたね。娘さんは恥ずかしそうでしたけど、ちゃんと演奏出来ていたし、全然恥ずかしがることはないですよ。私の周りに座ってる小さな子ども達も楽しそうに唄ってましたからね。さ、次は……エントリー四番・
すると、クリスマスツリーの前に白いシャツに黒いズボン、黒いスカートを穿いた老夫婦たちがぞろぞろと集まってきた。
代表である澄子は恵理子からマイクをもらうと、おだやかな口調で語りだした。
「私たちはいつもこのロビーで、お茶を飲みながら楽しくお話したり、ピアノを弾いたりしています。もうすぐこちらにいる斉藤さん夫妻が引っ越してしまうので、私たちも寂しくて仕方がありません。でも、このピアノが紡いでくれた友情を私はいつまでも忘れることはありません。今日は三曲演奏しますから、皆さんも私たちと一緒に唄いましょう」
まずは貞夫がピアノの前に座り、流暢に「昴」のメロディを奏で始めた。演奏に合わせ、昭三と征三が二人で一枚の楽譜を持ち、合唱した。
貞夫の演奏は特に技術的に優れているわけではないが、焦ることなくゆっくりと音を刻み、二人の歌い手は途中とまどうことなくピアノに合わせて歌っていた。昭三の力強い声と征三の艶やかで伸びのある声が重なり合い、まるでハーモニーを作り出しているように聞こえた。
貞夫の演奏が終わると、入れ替わるように澄子がピアノの前に腰掛け、「野ばら」を演奏し始めた。懐かしさと温かみを感じるメロディに三枝子と晴代が声を高らかに響かせると、二人の声に合わせて小さく口ずさむ声が、会場のあちこちから聞こえてきた。
「じゃあ、最後に全員で『学生時代』を演奏します」
演奏を終えた澄子が男性二人を手招きすると、女性たちとともに一列に整列し、演奏開始とともに隣同士で肩を組んで合唱を始めた。
「素敵ね。昔の歌声喫茶みたい」
「みんなすごく楽しそう。羨ましいよなあ」
一番、二番……と歌が進み、最後の部分に差し掛かった時、澄子は演奏しながら大きな声で観客に呼び掛けた。
「さあ、最後はみんなで一緒に唄いませんか?私たちに声を合わせて唄ってください」
すると、観客の数人が椅子から立ち上がり、前方に立つ老夫婦たちと一緒に唄い始めた。
「一緒に唄おう! 遠慮しないで、ここにいらっしゃい!」
貞夫は立ち上がった観客たちを手招きした。最初は皆とまどっていたが、次第に一人、二人と老夫婦たちの隣に並び、一緒に肩を組んで歌いだした。
「すばらしいあのころ~。がくせ~い~じ~だ~い~」
演奏が終わると、老夫婦たちは飛び入りで参加した観客たちと握手を交わし、互いに讃えあった。
「人前で唄うのは恥ずかしかったけど、楽しかったです。昔の歌声喫茶で唄った時のことを思い出しました。ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。今度良かったら一緒にお茶でも飲みませんか?この場所で平日の午後に集まってますんで」
「いいんですか? 私らみたいな見ず知らずが入っても」
「良いですよ。いつでも誰でも大歓迎ですよ」
老夫婦たちが新しい仲間を見つけ、喜びを分かち合っているのを見届けながら、恵理子は客席の方に向き直った。
「いいなあ、年を取っても友達を大事にしたいですね。さて、続いてはエントリー五番・寺村尚史さんによる『energy flow』です」
尚史は鋭い眼光で前を見据え、真ん中分けの髪をかき分けながら早足でピアノの前に向かうと、そそくさと椅子に腰掛けた。そして大きな咳ばらいをし、楽譜にじっと目を遣った。友美恵は、その様子を心配そうに見つめながら隣に座る博也に問いかけた。
「尚史さん、大丈夫? せっかくここまで場が和んできたのに……」
「いいんだよ、あの人は以前に比べたら随分まともになったよ」
確かに尚史の奏でる曲は浮遊感があり、観客の心をそっと優しく包み込むように感じた。まるで音楽が聴く人達の心を優しく撫で、いたわるかのように。
演奏が終わると、尚史は突然立ち上がり、口に手を当てて大声で叫び出した。
「ああ、ちくしょう! このピアノが無くなったら、一体誰がこの僕の気持ちをなだめてくれるんだ!」
会場は尚史の叫びに一瞬凍り付いていたが、見知らぬ誰かが客席から落ち込む尚史に向かって声を上げた。
「大丈夫だよ。ここにいるみんなが付いてるから!」
客席から温かい拍手が沸き起こった。
尚史は深々と頭を下げると、涙が溢れたのか、目元を拭いながらとぼとぼと客席に戻っていった。博也は客席に戻る尚史の背中を見て、苦笑いしつつも温かい拍手を送り続けていた。
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