第36話 聖夜の演奏会(その2)

 尚史の演奏が終わると、ようやく気分が収まった美咲が司会に復帰した。


「大丈夫? ダメだよ、司会が泣いたりしちゃ」

「ご、ごめんなさいっ。いちかちゃんの優しさが嬉しすぎて、つい泣いちゃって……ようやく落ち着いたので、ここから頑張りますっ! 次はエントリー六番・梶原沙月さんと羽田千晴さんです」


 美咲が演奏者を紹介すると、セーラー服をまとった二人の女子中学生がピアノの前に歩み出た。美咲からマイクを受け取った沙月が、はにかんだ笑顔を浮かべて語りだした。


「私たちはお互いよその町から転校してきました。最初は知らない者同士でしたが、このピアノを通して知り合い、今は仲良く一緒にピアノを弾いています。今日は二人が知り合うきっかけになった曲を演奏します。『You’ve got a friend』……君の友達。そう、今の私たちそのものです」


 そう言うと、沙月と千晴は椅子に座り、沙月が導入部分を演奏し始めた。

 その後、千晴が歌の部分の音階を演奏し、二人の演奏は見事に重なり合った。


「ピアノは無くなっちゃうけど、私たちはずっと一緒だよ。これからもよろしくね」

「うん」


 演奏を終えると、二人は立ち上がり、固く握手を交わした。

 客席からは、温かい拍手が二人のこれからを祝うかのように降り注がれた。


「私も見ていて気持ちがほっこりしました。さ、続きましてエントリー七番・栗橋まゆ香さん」


 美咲のアナウンスとともに、来場した男性陣の目は一斉に後方に向けられた。

 そこには、大きな蝶が描かれた黒のワンピースを着こんだまゆ香の姿があった。ミニのホルターネックのワンピースからは、背中と脚、そして胸の谷間が露出していた。甘い香水の香りを漂わせながら、ヒールの音を響かせてゆっくりとピアノへと歩みよるまゆ香の姿を、男性たちはずっと目で追っていた。


「皆さん、メリークリスマス!いつもは仕事上、私がお客さんを楽しませるのですが、今日は私も皆さんと一緒に楽しみたいと思います」


 まゆ香は椅子に座ると、鍵盤の上で蝶のように指を舞い上がらせ、優しい音色を響かせた。


「ふーん、プッチーニ『蝶々夫人』の『ある晴れた日』か。見た目で判断するのはあまり良くないけど、すごく上手ね」


 友美恵は、まゆ香の演奏を感心しながら見続けていたが、会場中の男性の目線は彼女の露出した部分にばかり向いていた。博也も他の男性達と同様に、友美恵が視線を逸らした隙にそっと覗き込んでいた。

 演奏を終えて椅子を立ち上がると、ピアノの前で深々とお辞儀した。


「このピアノが、今の私を新しい世界へ導いてくれました。ずっとキャバクラで働いて悶々としていた私に、新しい世界に飛び立ちなさいって。今、エステティシャンの勉強をしていて、近々自分のお店を出す予定です。私の恩人であるこのピアノが無くなっちゃうのは本当に残念だし寂しいけれど、次に行く場所が決まったら、また弾きに行くからね」


 まゆかは笑顔でピアノに手を振ると、拍手の起こる中ヒールの音を響かせて客席に戻っていった。すると、客席にいた男性が続々とまゆ香の元に押し寄せていった。


「ねえ、これ終わったら一緒に飲みに行かない?」

「俺の部屋に来いよ。いいお酒あるよ」

「この後、俺とこっそり抜け出してドライブいかない?」


 演奏会後のお誘いを仕掛ける男性達の様子を、博也と友美恵は呆れ顔で見ていた。


「ったくしょうがないな、男ってやつは」

「ふーん、博也さんもまゆ香さんの背中や脚を見てたじゃない」

「ま、まあ……ちょっとだけな」


博也は「バレたか」と友美恵に聞こえない位の小声で呟きながら、頭を掻いてごまかそうとした。


「栗橋さん、このピアノを弾きながら自分らしい生き方を見つけられたようですね。さて、続いてはエントリー八番・野口寿人さん」


 すると、少しくたびれたスーツ姿の寿人が、ぎこちなさそうに椅子に座った。寿人はしばらくの間、無言のまま目を閉じていたが、やがて両手を鍵盤に置くと、静かに前奏部分を弾き始めた。バーブラ・ストライサンドの『追憶』だ。


「この曲……俺が野口さんに教えたんだ。奥さんが野口さんと別れる前にここで演奏していた曲なんだよ」

「そ、そうなの?そんな遺恨がある曲をどうして?」

「この曲を弾くことで、野口さんの中で奥さんとの楽しい思い出が甦るのさ」


 友美恵は博也の言葉に驚いていたが、博也は頬杖を突きながら、寿人の演奏する姿を飄々とした様子で眺めていた。曲の後半、曲調が徐々に盛り上がっていく部分では、寿人は何かを振り切るように体を揺らし、力強く鍵盤を叩いた。

 演奏を終えた寿人は、大きなため息をつくと、額の汗を拭いて深々と一礼した。


「恥ずかしい話、今の僕は妻と別れ一人でこのマンションに暮らしています。辛く悲しいけれど、この曲を弾くと妻との楽しかった日々がフラッシュバックのように僕の目の前に戻ってきて、それが今までの僕の心の支えになっていました。でも、近々このピアノが無くなると聞きましてね。寂しいけれど、もう思い出に頼らず、独り立ちしないといけないのかなって思っています」


 そう言うと、寿人は糸がほつれたスラックスの裾を引きずりながら客席へと退いていった。


「素敵な思い出ですね」


 椅子に座った寿人の目の前に、さっきまで男性客達に囲まれていたはずのまゆ香の姿があった。寿人は、目の前に立ちセクシーな衣装で微笑むまゆ香を見て、思わず赤面した。


「よかったら、そのお話、私に色々聞かせていただけます?」

「良いんですか? でも……あなたのように華やかな人生を送っている人が聞いたら正直笑っちゃうと思いますよ」

「いいですよ。私、あなたの演奏を聴いて、あなたの楽しかった思い出を共有したいなあって心から思ったから」


 そう言うとまゆ香は寿人の隣に腰掛け、短いワンピースから露出した太ももの上に白いバッグを置いた。


「おい、ずるいぞ! 不幸な話なら俺だってあるから、一緒に聴いてよ」

「そうだ。俺はもう何年も女房に相手にしてもらってねえんだぞ。だからさ、今晩は俺の相手になってほしいよ」


 寿人の隣に座ったまゆ香を見て、ふて腐れた男性たちが次々と言い寄ってきたが、まゆ香は全く相手にすることもなく寿人に膝を突き合わせ、長いまつ毛の付いた大きな目を見開いて寿人の話をじっと聞いていた。


 「おや~? 昔の思い出に踏ん切りをつけた結果、新しい出会いが生まれそうな予感がしますね! 野口さんの新しい人生に幸あらんことをお祈りしまして……さて、続きましてはエントリー九番、松崎斗馬まつざきとうまさん」


 美咲のアナウンスと同時に、額を覆う位まで無造作に伸ばした長い髪を掻きながら、大きめのトレーナーにぶかぶかのズボンを着込んだ斗馬が登場した。

 斗馬は客席に愛想を振りまくことも、挨拶をすることもなくピアノの前に着座すると、米津玄師の『Lemon』を演奏し始めた。しかしその演奏は、以前の何かに取りつかれたような荒れ狂ったものではなく、穏やかに、そして流れるように展開していた。


「心地よくて、優しい演奏だね」

「彼はこの曲を弾きながら、亡くなったお母さんのことを思い出すんだって。でも、私はそれじゃダメだっていったの。この曲を弾きながら昔の思い出に逃げ込むんじゃなくて、思い出を胸に前に踏み出していく決意をしなさいって言ったの」

「へえ……そうなんだ。じゃあ今の彼は、一歩前に踏み出すことができたのかな?」

「うん……演奏を聴いた限り、そうなのかもね」


 演奏を終えた斗馬は、椅子の背もたれに寄りかかって天井を眺めると、思い切り息を吐き出し、ようやく立ち上がった。

 すると、友美恵は立ちあがり、斗馬に手を振った。


「カッコよかったよ、斗馬君!」


 斗馬は照れくさそうに手を振り返すと、自席に戻らず、肩をすぼめながら友美恵の方へとやってきた。


「今日の斗馬君の演奏、内にこもらず前向きだなあ、って感じたよ。今のあなたを見てきっとお母さんも嬉しいと思ってるよ」


 友美恵が嬉しそうに語り掛けると、斗馬は嬉しそうな顔で何度も頭を下げた。


「西岡さんに『Lemon』の歌詞の意味をちゃんと教えてもらって、やっと目が覚めたんです。俺、この曲の中に逃げていたのかもしれないってやっと気づいて、それ以来、自分の母親に『俺、頑張ってるよ』ってメッセージも込めてこの曲を演奏できるようになったんです」

「だから、今日の演奏は私たちの心に訴えてくるものがあったのね。私の方が、斗馬君から背中を押された気がする。ありがとう」

「そ、そんな……俺、そんなつもりじゃ」

「おや、斗馬君のズボンのポケットから携帯電話の着信音が聞こえてるよ? 応答しなくて大丈夫?」

「あ、すみません……もしもし」


 友美恵に指摘され、慌てた様子でスマートフォンを取り出した斗馬は、演奏会の邪魔にならないよう、玄関を出たうえで通話を始めた。

 しばらくして、通話を終えた斗馬は頭を掻きながら、再び友美恵の元にやってきた。


「これから俺、ちょっと出かけて来るんで、これで失礼します」

「ああ、今日はお疲れ様。ちなみにどこへ出かけるのかい?」

「ちょっと……デートの約束なんですよ。イブだから一緒に過ごそうって」

「うそ! 出来たの? 彼女……」

「学級委員長の蘭子なんですよ。あいつとは相変わらずケンカばかりだけど、俺のこと誰よりも気にかけてくれて。俺もそれが嬉しくて……気がついたら、彼氏彼女の関係になっていました」


 そう言うと、斗馬は照れくさそうに手を振って、再び玄関を飛び出していった。

 友美恵は斗馬の後を追い、玄関から飛び出すとどんどん遠くへ歩き去る斗馬の姿を見つけた。友美恵はその場で大きく息を吸うと、思い切り声を絞り出した。


「彼女と素敵なクリスマスを過ごすんだぞ! お母さんも今の斗馬君を見て、すごく喜んでるよ!」


 斗馬は少しだけ友美恵の方を振り向き、そっけなく「ありがとう」とだけ言うと、背中越しに親指を立て、イルミネーションが輝き仕事帰りの人達で賑わう駅の雑踏の中に消え去っていった。

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