第37話 聖夜の演奏会(その3)

「演奏会もいよいよ後半戦に入ります。続きましてはエントリー十番・長谷部安典さんです。長谷部さんは自主的にこの会場の飾りつけを手伝ってくださって、心より感謝しています。何やら気合が入った衣装のようですが、何を演奏してくださるのか、楽しみです」


 司会の恵理子がアナウンスすると、安典が両手を振りながら座席から立ち上がった。野球帽を被り、野球のユニフォームを着込んだ安典は、ピアノの前に立つと、片手を腰に当て、もう片方の手を天井に向け突き上げた。


「どうも、長谷部です! 今日は初めて多くの人達の前で演奏するんで、自分に気合を入れるため、高校時代の野球部のユニフォームでやってきました! 会場の皆さん、元気ですかぁ~!?」


 安典は大声で客席に問いかけると、客席の周りで追いかけっこをしていた子ども達だけが「げんきィ~!」と言ってはしゃぎまわっていた。


「え! 子ども達だけが元気なの? 大人たちこそ、たとえ辛くても元気な姿を子ども達に見せなくちゃ。今から僕が元気の出る曲を演奏するから、耳の穴をかっぽじってよーく聴いておくれよ!」


 そう言いながら安典は人差し指で会場内の大人たちを指さすと、ピアノの前の椅子に腰掛け、「おっしゃあ!」と一言吠えてから鍵盤に手を置いた。

 最初は寂しげなリズムで始まった曲は、次第に少しずつ明るい曲調へとテンポが上がっていった。そう、安典が演奏しているのは、彼にとっての人生の応援歌である、中島みゆきの「ファイト!」である。


「ファイト! 戦う君の歌を 戦わない奴らが笑うだろう ファイト!」


 曲の終盤、サビの部分で安典はピアノを弾きながら大声で唄い始めた。歌い終わると、突然立ち上がり、両手を頭上で叩きながら会場全体を見渡した。


「さあさあ、エブリバディ、クラップユアハンド! みんなで手を叩こう! そして、歌詞の『ファイト』の部分はここにいるみんなで合唱してほしいんだ! 頼むぞ、この曲が盛り上がって終わるかどうかは、みんなの声にかかってるんだ!」


 安典は立ったままの姿勢で力強く演奏すると、次第に会場のあちこちから手拍子が沸き起こり始めた。やがて曲のサビの部分に差し掛かると、安典は客席を向いて片手を振りかざし、コールを要求した。


「ファイト!」


 客席から返ってきたのは、たった数人だけのまばらな声だった。


「そんな声じゃ全然ファイトが湧いてこねえぞ! 俺のいた高校の野球部だったら先輩からケツバット食らうぞ! もっと、もーっと大きな声でやってくれよ!」


 客席の反応の悪さにあきれ果てた安典は、まるで野球部の後輩を諭すかのように激しくまくしたてた。そして曲は再びサビの部分にさしかかった。


「ファイト!」


 今度は見事に会場全員が声を合わせていた。ついさっきまでの小さな声がバラバラと響く様子が嘘のようだった。

 気を良くした安典は何度もサビの部分を繰り返し、そのたびに「ファイト!」の大合唱が沸き起こった。その様子は、心を閉ざしていたマンションの住民が次第に心を開き、まとまっていくまでの経過を思い起こさせた。


「ありがとう! 俺はみんなのこと、大好きだ! おい、このピアノを撤去しようとしてる奴、聞いてるかあ! 戦ってる俺たちの歌を、戦わずにコソコソ隠れて笑いながら卑怯な真似ばかりしてるお前に聴かせてやりてえよ」


 どうだと言わんばかりに捨て台詞を言い残すと、安典は意気揚々と客席へと戻っていった。その様子を見ながら、恵理子は片手で胸を押さえつつマイクを握った。


「聴いてる私たちも心が熱くなりました。みんなで合唱するのって、こんなに気持ちいいんだなあって。長谷部さん、ここまで会場を盛り上げてくださってありがとうございます。さ、次はエントリー十一番・黒江早智子さんです」


 すると、真っ赤なひざ丈のワンピースをまとった早智子が、ゆっくりとピアノの前に姿を見せた。明るく長い茶色の髪をアップにして、大きめのイヤリングを身に付けた早智子からは、ヨーロッパの貴婦人のような艶めかしい雰囲気が漂っていた。


「皆さん、こんばんは。バダジェフスカの『乙女の祈り』を演奏します」


 早智子が穏やかに導入部分を演奏し始めると、博也は会場の後ろで、玄関の外から身を屈めながら演奏を見つめている一人の男性に気づいた。博也がじっと目を見遣ると、男性は手に花束をしながら、時々玄関の外から背中越しにロビーの方向を見つめていた。

 

「あれ? あの人って、確か……」


 博也は席を立ち、玄関を出ると、男性の背中越しに声を掛けた。


「あなたは……戸村英二さん?」


 男性は驚いて博也の方を振り向くと、博也がにこやかな表情で手を振っていた。


「そうです。戸村です。その節は僕に早智子さんとお付き合いするきっかけを作ってくれて、ありがとうございました」

「いえいえ。それより、気になるんでしょ? 早智子さんの演奏。どうして中に入らないんですか?」

「だって、早智子さんにこれを渡したいから。中で渡すのは目立つし、照れくさいし」


 そう言うと英二は大きな花束を博也に見せた。


「これって、もしかしてプロポーズってやつですか?」

「まあ、それは、その……」


 英二は図星を突かれたらしく、突然慌てふためき始めた。


「いや、照れなくても否定しなくても良いんですよ。ちなみに僕が妻の友美恵にプロポーズした時も、こぼれ落ちそうなほどたくさんのバラの花束をプレゼントしましたからね」

「そうなんですか? それで奥さんはOKしたんですか?」

「うん。最初はちょっと引いてたけど、しばらくしたらうれし泣きしてくれた記憶がありますね」


 博也がそう言った時、ロビーから大きな拍手が沸き上がるのが聞こえた。


「あ、早智子さんの演奏、今終わったみたいですよ。さ、行きましょうか」

「ちょ、ちょっと。行きましょうって、中に!?」

「そうです。外でずっと待っていても、いつ彼女が来るか分かりませんよ。僕も一緒に行きますから、大丈夫ですよ。さ、早く!」


 博也は英二の手を引き、大勢の参加者が集うロビーへと引っ張り出した。

 演奏を終え、自席に戻ろうとした早智子は、大きな花束を手にした英二を見て、手を口に当てて驚いた。


「英二さん……どうしたの? こんな大きな花束」

「あの、俺、その……」


 なかなか言葉が出て来ない英二に呆れた博也は、後ろから「頑張って!」と英二の耳元でささやいた。英二はそれを聞くと、ひきつった表情で軽く頷いた。


「俺……早智子さんのこと、好きだから。これからもずっと一緒にいてほしいから、だから……」


 英二の突然の告白に早智子は戸惑い、無言のまま花束を見つめていた。その間英二は、金縛りにあったかのように硬直していた。しばらくすると早智子は軽く頷き、ようやくはにかんだ笑顔を見せた。


「嬉しい! とても素敵だよ。この花束も、そして英二さんも」


 早智子は片手で花束を受け取ると、もう片方の手で英二の手をそっと握りしめた。

 その瞬間、会場からは、割れんばかりの拍手が沸き起こった。

 英二は早智子の手を握ったまま、何が起こったのか未だに信じられない様子だった。


「うわあ! おめでとうございます。私たちの目の前で嬉しいサプライズが起きましたね。お二人とも、末永くお幸せに! さ、続きましては、エントリー十二番・平瀬美織さんです」


 美織はピアノコンクールで着用したミントグリーンのドレス姿で登場すると、大きく頭を下げて会釈した。ピアノの前の椅子に腰掛けると、鍵盤の上で滑らかに指を滑らせるように演奏を始めた。フンメルの『ロンド』の伸びやかな調べが、ホール中に響き渡った。


「……所々音階に間違いはあるけど、自信にあふれていて、いい演奏してるわね」


 友美恵は美織の演奏する様子を凝視しながら、小学生とは思えない堂々とした演奏に心を奪われていた。

 やがて演奏が終わり、美織は立ち上がると、笑顔で手を振りながら客席に向かって頭を下げた。

 すると、美織のすぐ目の前の座席から、チェックのワンピースを着こんだおさげ髪の少女が拍手しながら美織の元へ駆け寄り、美織の肩に飛びつくとそのまま強く抱きしめた。


「ブラボー! ブラボー! カッコいいよ、美織ちゃん」

「やだ、千絵ちゃん! みんなが見てるのに恥ずかしいじゃん!」


 少女は、美織がコンクールを控えて気持ちがふさぎ込んでいた時にアドバイスを送った、天才少女ピアニストの飯沼千絵だった。


「だってさ、すっごくカッコよかったんだもん。以前の誰かの受け売りみたいなぎこちない演奏じゃなくて、美織ちゃんの気持ちがグイグイ伝わってくる演奏だったからさ、聴いててすっごく気持ち良かったんだもん」


 千絵のあまりにも直接的な行動と言葉に美織は戸惑っていたが、千絵の嬉しかった気持ちが客席にもひしひしと伝わってきた。


「また一つ、嬉しいことが起きましたね。あれ? ちなみにお姉ちゃん。私、どこかでお顔を見たことがあるんですけど、お名前は何て言うの?」


 すると千絵は、司会の恵理子からマイクを奪い取り、いたずらっぽい笑顔で答えた。


「飯沼千絵って言います。ここにいる美織ちゃんは、このマンションで見つけた私のたった一人のマブダチで~す!」


 千絵はそう言いながらピースサインをすると、ワンピースのポケットに手を入れ、口笛を吹きながらロビーから立ち去っていった。


「え? あの天才少女ピアニストの……?すごい! このマンションに住んでいるんですか? 良かったらちょっとだけ演奏を聞きたいんだけど、いいかな? あれ? 帰っちゃった?」


 恵理子は辺りを見渡したものの、千絵の姿を発見できなかった。


 演奏を終えた美織が客席に戻ると、隣に座っていた母親のはるかが、しかめ面で美織の背中を肘打ちした。


「美織、お疲れ様。堂々とした演奏だったけど、どうして私や先生の言った通りに演奏できないの? こないだのコンクールもそうだったけどさ」

「だって、これが私の『ロンド』だもん!他の誰かの真似するのは、疲れるだけだもん」


 はるかは美織の答えに思わず歯ぎしりをしたが、自信に溢れた顔で迷いなく答える美織を見るうちに、怒鳴りつける気持ちが不思議と消え失せてしまった。


「ありがと、ロビーのピアノさん。あなたがいたから千絵ちゃんに出会えたし、今の私があるんだよ」


 美織はピアノを見つめながら、小さな声でピアノへの感謝の気持ちを呟いていた。

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