最終章 紡ぎ、紡がれて
第44話 最期まで一緒に
あれから一年。
マンションのロビーでは、いつものように多くのサラリーマンや学生達が往来していた。行き交う住民達はスマートフォンを眺め、お互いに視線を合わせず挨拶すら交わすことも無く、一年前までこの場所にピアノが置いてあったことはすでに遠い過去の出来事のようになっていた。
そんな中、平日の午後、人通りも少ない静かなマンションのロビーの一角だけは賑やかさが残っていた。
昭三と澄子夫妻を中心に、マンションの高齢者たちがお茶やお菓子を持ち寄って、世間話をしたり、伴奏無しで一緒に懐かしい歌を唄うなど、以前ピアノが置いてあった頃と変らぬ温かい雰囲気に積まれていた。
真冬の強い北風が吹き荒れる中、友美恵は買い物袋を抱えながらロビーを通りかかった。
いつもならばロビーに高齢者たちが集まり、賑やかに談笑している光景が見られたが、今日は誰一人見かけず、静寂に包まれていた。
友美恵は辺りを見回したが、床や窓の清掃を行う作業員以外、人影は見当たらなかった。
「一体、どうしたのかな? いつもならお茶を飲みながら賑やかにしゃべってるのに」
エレベーターが到着のサインを示し、友美恵が買い物袋を片手に乗り込もうとしたその時、ちょうど玄関をくぐっていた昭三と澄子の姿を目にした。
「こんにちは、お久しぶりですね」
「あ、こんにちは。西岡さん!」
「最近ロビーに集まってる姿をお見かけしなかったですけど、どうかされたんですか?」
「まあ、ちょっと……ね」
澄子は友美恵の問いかけに、言葉を詰まらせていた。良く見ると、彼らはコートの下に、黒い喪服を着こんでいた。
「あれ、どうしたんですか? そんな恰好で」
「ああ、実はね、貞夫さんが亡くなったんですよ。たった今、静岡のお家で行われたお葬式に行ってきたところです」
「亡くなったんですか!?」
「まあね……でも、一年間もよく頑張って闘病していたと思いますよ」
ピアノを譲った相手の訃報を聞かされた友美恵は、二人を前に視線を落とした。
友美恵は、夫の博也とともに静岡に行き、貞夫の家を弔問しようと考えていた。そして何よりも、かつてマンションに置いていたピアノが今どうなっているのか、この目で確かめたいと思っていた。
★☆★☆
週末、友美恵は博也の運転する自家用車で、静岡に向かった。畑が広がる中を突っ切るように通る道路を走ると、やがて立派な家屋が目に入ってきた。
「ここなの? すごく寂しい場所ね」
「でも、空気が美味しいし近くに川が流れてて、俺たちが暮らす町よりもずーっと環境が良い場所だよ。ピアノはこんな素晴らしい場所に連れてこられて、幸せだと思ったよ」
二人は車を降りると、貞夫の家の玄関まで歩いた。
ちょうど三枝子が庭の手入れをしており、二人を見つけるといそいそと駆け寄ってきた。
「マンションに居た時には、ピアノのことで大変お世話になりました。わざわざ来てくださって、すみません」
「いえいえ……それよりも、貞夫さんが亡くなったと聞いて、居てもたってもいられなくなりまして」
「体調がほんのわずかな間に急変してしまいまして。でも、本人は苦しむこともなく、最期はとても清々しい表情をしておりました」
三枝子は二人を家の中に招き入れ、位牌が置いてある居間へと案内してくれた。
笑顔を浮かべた大きな写真と、その脇には小さいながらも、マンションで知り合った仲間たちと撮った写真が飾ってあった。
「あ! これ、クリスマスイブの演奏会の時の写真かな?」
「そうですよ。この日知り合ったばかりのリツさんも一緒に入ってもらったの」
「確かにこの白髪の少し腰が曲がった女性、リツさんですね。そして何より、みんないい笑顔ですよね」
「だって、すごく楽しかったから。こんな楽しかったの、いつ以来かな? 都会に移り住んでから、知らない人達や知らない場所ばかりで、私も夫も心に余裕がなくなっていたと思います。でもね、ピアノを通して知り合った仲間たちが、私たちを支えてくれた。夫が幸せな最期を迎えられたのは、そんな思い出が詰まったピアノがすぐ傍にあったからだと思いますよ。きっと仲間たちに囲まれているような、そんな気持ちになっていたんでしょうね」
写真の中の貞夫は、仲間たちと肩を組んで満面の笑みを浮かべていた。その後ろには、ピアノの黒い姿が垣間見えた。
博也はその写真を手に取ると、しばらくじっと目を凝らして見つめていた。
「夫は亡くなる間際までずっと演奏の練習をしていたんですよ。最初はちぐはぐだった『学生時代』も、一通り弾きこなせるようになったんです」
三枝子はポケットからスマートフォンを取り出すと、テーブルの上に置き、動画を再生し始めた。
そこには、しっかりと両方の手で『学生時代』を弾きこなす貞夫の姿があった。動画を撮っている三枝子と一緒に声を揃えて唄う場面もあり、その美しいハーモニーに聞き惚れた友美恵は、思わず動画に合わせて歌をそっと口ずさんでいた。
「最後に素敵な演奏を見せていただき、ありがとうございました。すごいですね、貞夫さん。完璧な演奏でしたよ」
「私も驚きました。もう耳もそんなに良くないし、曲を覚えようにも記憶も手も付いていかないんじゃないかって心配してたんだけど……。そうそう、いつの日か、仲間たちとこのピアノで一緒に歌いたいって。そして、病人の俺でもここまでやれたんだ! って所を見せびらかしてやりたいって言ってましたよ」
三枝子はそう言って笑いながら、テーブルの上のスマートフォンをそっと閉じると、
「せっかくいらしたんですから、ピアノを見て行かれたらどうですか?」
と言い、片手を上下に振って博也と友美恵を手招きして、ピアノの置かれている奥の部屋に案内した。 壁際にぽつんと置かれたピアノは、主を失ってどことなく寂しそうに感じた。
「奥さんは弾かないんですか?」
「時間がある時にちょっと弾く位かな?でも、私としては、自分だけ楽しむんじゃなくて、町の人達に自由に演奏を楽しんでもらいたいと思ってるんですよ。だから、夫の遺言通り、近くの公民館に寄附しようと思います」
「そうですか……じゃあ、私たちのマンションには戻さないんですね」
「そうね。あのマンションに戻せるならば戻したいけど……」
そう言いながら三枝子は窓ガラスの向こうにある町の公民館を見つめていたが、その表情はどこか寂しそうで、まだ何かしら未練があるようにも感じた。
「三枝子さん。このピアノ、今まで丁寧に扱ってくださって、ありがとうございました」
博也はそう言って三枝子に頭を下げると、三枝子も深々と頭を下げた。
その後博也は腰をかがめ、ピアノにそっと語り掛けた。
「お疲れさん。またひと仕事終えたね。きっと天国で貞夫さんもお前に感謝しているはずだよ。今度はこの町のみんなを幸せにしてあげるんだぞ」
☆★☆★
マンションに戻った博也と友美恵は、ロビーに置かれたソファーに腰掛けると、かつてピアノがあった場所をずっと見つめていた。
床には、今でもピアノを置いた跡がうっすらと残っていた。
「ねえ博也、本当にあのピアノ、町の公民館に預けても大丈夫なの?」
「貞夫さんの遺言だし、生前、貞夫さんは俺にもそう言ってたよ。その方がたくさんの人達に弾いてもらえるし、ピアノにとって幸せじゃないのかな?」
「本当にそれでいいのかなあ? 奥さんの表情見てたら、それで本当に納得してるのかなって思っちゃって」
友美恵はどことなく釈然としない様子で、博也の横顔を見つめた。
博也は、亡くなった貞夫も、きっと三枝子と同じ気持ちだったに違いないと感じていた。そう感じた根拠は、ピアノを貞夫の家に運び込んだ時に話してくれた言葉だった。
「時が経ち、みんなが許してくれれば、ピアノをマンションに戻して欲しい」と。
「なあ友美恵、今、もう一度ここにピアノを置いたら、皆にどう思われるかな?」
「うーん……何とも言えないなあ」
「かつてここで一緒に演奏した人達は受け入れてくれるだろうけど、反対する人は一定数いるだろうね。ピアノに興味がなく、邪魔だって思う人だっているだろうから」
「そうだよね。それならば、三枝子さんの住む町の公民館に預かってもらった方がやっぱり幸せなのかな?」
博也と友美恵は、ため息をつきながらピアノの置かれていた場所を見続けていた。
その時、何者かが博也のすぐ傍に立ち、博也と同じ場所をじっと凝視していた。
「あなた……小川さん?」
「久しぶりだね、西岡さん」
二人が気づかぬ間に小川がソファーの隣に立ち、ピアノの置いてあった場所を見つめたまま口を開いた。
「管理会社に聞いたら、以前このマンションに住んでた人がここにあったピアノを引き取ったって言ってたよ。その時、お前がピアノを運搬したんだってな」
「あ、ああ……そうですけど?」
「今もピアノは、その人の家に置いてあるのか?」
「そうですけど……でも、近々また置き場所を変えるって言ってましたよ。同じ町の公民館に置くって」
「公民館?」
「そうです、本当はここに戻したい気持ちもあるようだけど、また反対されるだろうからって……」
「反対? 俺のことか?」
「多分、そうじゃないですか?」
博也は皮肉交じりにそう言うと、小川は突然笑い始めた。
「俺は構わないよ。ピアノを動かすのならば、ここに持ってきても」
「!?」
小川の口から出た言葉に、博也も友美恵も耳を疑った。
あれほどピアノを忌み嫌い、妨害を仕掛けてきた小川が出した言葉とは思えず、博也は再度聞き返した。
「本当に……良いんですね?」
「良いよ。なぜなら、今まで『二つ』あった俺の中の自分が、やっと『一つ』になったからな」
「やったあ! きっとみんな喜ぶと思います。ありがとうございます!」
「ただし……一つだけ、条件を出していいか?」
そう言うと、小川は親指を立て、白い歯を見せて笑っていた。
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