第43話 旅立ち

 年が明け、新年早々から仕事が入った博也は、作業所で独り黙々とピアノに向かって作業をしていた。今回は近隣の小学校からピアノ修繕と調律の仕事を引き受けていた。内部の錆びついた部分を丁寧に擦り、鍵盤を一つずつ確かめ、なめらかに動くように調節していた。


「いやあ、こりゃ年季入ってるなあ。部品が相当錆びてるし、鍵盤もガタがきてるな」


 支柱や板の木は擦り切れて、見た目からしていかにも壊れそうな様相を見せていた。しかし、修繕を発注した小学校の校長先生は、買い替えを考えていないと話していた。


「古いからって簡単に買い替えるところを子ども達に見せるのは、あまりよろしくないと思うんですよね。たとえ古くても、こうして音がちゃんと出ているし、何よりこのピアノには先輩方の沢山の思い出が詰まっていますからね。学習発表会、入学式や卒業式……この学校を巣立っていった子達にとって、ピアノは思い出の品の一つなんです。このピアノが、彼らとこの学校を、そして友達や先生を結び付ける役割を果たしてきたんです。それを簡単に買い替えるなんて、愚の骨頂ですよ」


 多分、昔の博也ならば、校長先生の話を聞いても断ったに違いない。あまりにも老朽化がひどく、修繕に時間を要するのが目に見えたからだ。しかし、今回博也は校長先生の依頼を受け入れた。校長先生の話を聞くや否や、マンションに置いてあったピアノのことが頭に浮かんでしまったのだ。


「お前も手直しするのはなかなか大変だったけど、こいつはもっと大変だな。長持ちさせようと思うなら、ちゃんと扱って欲しいよなあ」


 博也はかつてマンションに置いてあったピアノに語り掛けながら、苦笑いを浮かべた。


「でも、お前もよく耐えたよ。脚を蹴られたり、鍵盤を拳で思い切り叩かれたり、

 邪魔者扱いされたり……俺がお前だったら、とてもじゃないけど耐えられないな」


 ピアノはマンションに置かれていた時、弾き慣れない住民、そして小川のようなピアノ嫌いの住民にぞんざいに扱われていた。しかし、博也のこまめな調律や手入れにより、大きな故障も無く、最後まで美しい音色をロビー中に響かせていた。

 これからこのピアノを引き取る貞夫は、どこまで丁寧に扱ってくれるだろうか?

 その時、博也のスマートフォンが突然けたたましい着信音を発した。

 博也は工具を机に置くと、スマートフォンに耳を当てた。


「もしもし。あ、堀井さん? そうですか……斉藤さん、今月末にお引越しされるんですね。そうですね、ピアノは専用のトラックで引っ越し先に持っていきます。後は現地で、僕がセッティングと調律をやります。わかりました」


 管理会社の堀井からの電話で、貞夫は今月末でマンションから引っ越すとの連絡だった。その際に、このピアノも博也の作業所から貞夫の家に運搬することになる。

 ごみ処理場で間一髪拾われて以来、博也はずっとこのピアノを見守ってきた。今回、貞夫の家に持ち込むことで、いよいよ博也の手元から離れることになる。

 博也にとっては、我が子と離れ離れになるような寂しさがあった。



 一月も終わりに近い週末、博也は自家用車で二時間程かけて、静岡県の小さな町にたどり着いた。地図に示された場所を辿りながら田舎道を運転するうちに、目の前に現れたのは梅の木々に囲まれた一軒家だった。古ぼけた木製の表札には「斉藤」とだけ書かれていた。


「ここが……貞夫さんの実家なんだ。すごく良い場所にあるなあ」


 周りには畑が広がり、用水路には清らかな水が音を立てて流れていた。畑の向こうには、昭和時代の映画にでも出てきそうな古びた学校風の建物が見えた。博也が住んでいる東京近郊の町には無い、清冽な雰囲気が満ちていた。

 やがてピアノを運搬する大型トラックが貞夫の家の前に停まった。

 トラックからスロープ伝いにピアノが降ろされると、作業員がピアノを担ぎ出した。


「重いでしょ?僕も手伝いますよ」


 博也は作業員とともにピアノを貞夫の家の中へと運び込んだ。

 ピアノを担ぎながら玄関をくぐると、そこには貞夫の妻・三枝子の姿があった。


「ここまで運んでくださってありがとうございます。こちらの部屋において下さるかしら?」


 三枝子に先導され、ピアノは廊下の奥舞った所にある小さな部屋に運び込まれた。

 天井にはシャンデリアが灯り、本がぎっしりと入った木製の書庫が壁に立てかけられていた。ピアノは書庫と反対側の壁に向かって設置された。


「ありがとうございます。お父さん、ピアノが来たわよ。こっちにいらっしゃい」


 三枝子が声を上げて貞夫を呼ぶと、廊下からきしむ音を立てながら、車椅子に乗った貞夫が姿を見せた。


「おお、これは……あのマンションに置いてあったピアノだね」

「そうよ。お父さんがこの家に連れてきたかったんでしょ?」

「そうさ。だって、このピアノにはマンションで知り合った友達との思い出が詰まっているからな」


 三枝子は車椅子をピアノの前まで動かすと、貞夫は嬉しそうな顔で鍵盤に手を当てた。どこかぎこちない様子で指を動かすと、マンションに設置していた時と変らぬ音が部屋中に響き、貞夫の顔は紅潮していた。


「我は行く 蒼白き頬のままで 我は行く さらば昴よ」


 上ずった声で、ピアノの音に合わせて唄う貞夫を見ながら、三枝子は目を細めて拍手を送った。


「良かったね。またピアノで『昴』を弾けて。初めて弾きこなせた曲だもんね」

「ああ、俺、この曲が好きなんだよな」

「演奏会の時は、お父さんの演奏でみんなで合唱したんだもんね」

「そうだな。今度は『学生時代』も弾けるようになりたいね。みんなで肩組んで歌ったことは一生忘れられないね」

「あら、引っ越す前に澄子さんに習っておけばよかったかしらね」

「なあに、思い出しながらでも弾いてみればいいさ。正確に弾けなくても、雰囲気があればいいんだ」

「あははは、そうよね」


 夫婦でピアノを前に語り合う姿を、博也は後ろから眺めていた。


「ありがとう、西岡さん。あなたが必死にこのピアノを守ってくれたと聞きましたよ。マンションに置けなくなったのは残念でしたけど、ここからはこの家で、私どもがしっかり守りますので、心配しないでください」


 貞夫は歌った時のままの上ずった声で、博也に感謝の気持ちを伝えていた。


「いえいえ、こちらこそありがとうございます。それから、今まで僕がこのピアノの調律や点検をしていたんですが、この辺りで調律とかできる方はいらっしゃいますか?」

「ええ、この近くに元音楽の先生だった方がおり、調律も出来ると言ってましたよ。その点は安心してください」

「なら良かったです。ピアノは弾くだけじゃなく、点検することも長持ちさせるため必要ですから」


 すると貞夫は何を思ったのか、車椅子に座ったまま博也に近づくと、両手を握った。


「実はね、私、もうそんな長くないんですよ」

「え?」

「私の命です。あのマンションは、私が病気治療で大学病院に通うために息子が私どもに与えてくれたんです。けれど、良くなるどころか悪化の一途をたどっていましてね。先生も手術とかするのは年齢的にも厳しいからって、治療を中断したんです。その時、私は決めたんです。好きな場所で、好きなことをして悔いのないように人生を終えたいってね」

「そうだったんですか……」

「私が死んだ後、このピアノをどうしようか妻と話し合いましたが、とりあえずは近くの公民館に寄附するつもりです。近くに古びた学校みたいな建物があったでしょ?昔は小学校だったんですけど、今は廃校して、町の公民館になったんです。あそこに置けば町民が自由に弾けるし、公民館の人達に大事にしてもらえるからね」

「そうですか……それなら良かったです」


 博也は貞夫の言葉に安堵したが、貞夫はまだ何か言いたそうな様子を見せていた。

 しばらくお互いに口を開かず、静寂が部屋を包みこんでいたが、やがて貞夫が自分から口を開いた。


「ねえ西岡さん」

「え?」

「もしあのマンションにこのピアノを置ける状況になった時には、あなたの手で戻してあげてほしいんです」

「僕が?」

「そうです。本当はね、あのマンションにピアノをずっと置いておけるのならそれが一番良かったんですよ。でも、今はピアノを置くことに反対する人達がいるから、無理でしょう? 時が経ち、反対する人達もいなくなったならば、またこのピアノを戻してあげてください」

「斉藤さん……良いんですか? 思い出の品ですよね? このピアノは」

「そうです。でも、私が死んだ後はちゃんと大事にしてくれる場所に預けたいと思っていたのでね」


 そう言うと、貞夫は笑顔で博也の手をずっと握っていた。


「わかりました。そのようにさせていただきます。このピアノ、ずっと大事にしてあげてください。それが僕から斉藤さんへのお願いです」

「いいですとも。西岡さんもお元気で」


 博也は部屋を出る前に、ピアノに近づき、全体をそっと手で撫でながらそっと語り掛けた。


「さ、ここが今日からお前の新しい住み家だ。最初は寂しくて泣きたくなるだろうけど、新しいご主人の斉藤さんは優しい人だ。斉藤さんのため、お前もいい音を出すんだぞ」


 博也はピアノからそっと手を離すと、そのままピアノに向かって手を振って、部屋を出て行った。


「今まで大事にしてくれて、ありがとう」


 博也の背後から、ピアノがささやいた声が聞こえたように感じた。ピアノが声を発するわけが無いのは分かっているのに、博也の両目からは、涙が一気にこみ上げてきた。


「あら、どうしたんですか?西岡さん」


 三枝子が心配そうに博也の顔を見つめていた。博也は慌てて顔を両手で拭うと、真っ赤な顔で照れ笑いを浮かべた。


「アハハハ、何でもないですよ、大丈夫ですよ!」


 博也は貞夫の家を出ると、奥の部屋の開いた窓から、貞夫が「学生時代」を楽しそうに歌いながら弾く音が聞こえてきた。博也はその音を背に自家用車に乗り込み、名残惜しそうに窓から手を振って家路についた。

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