第42話 紡がれた糸
大晦日の朝、ピアノがこのマンションのロビーに置かれるのは、今日で最後となる。もっと早く撤去されると思っていたが、管理会社側で年末ぎりぎりまで待ってくれたようだ。
撤去期限が迫るにつれ、沢山の住民達が別れを惜しむかのようにロビーを訪れ、ピアノを弾いていた。管理会社でも、住民のそんな姿をみるうちに、撤去する日を先に延ばしてくれたのかもしれない。
そしていよいよ、泣いても笑っても今年最後の日を迎えてしまった。
朝から作業衣を着た業者がやってきて、トラックに積み込む準備を始めていた。
ロビーや玄関で業者が着々と準備を進めている中、博也は友美恵とともにピアノの前にやってきた。
「いよいよ、お別れね。結局撤去されてしまうのは悔しいけど、大晦日まで撤去するのを待ってくれたんだもん。それだけは感謝しなくちゃね」
「ああ。もっと早く撤去されると思ってたから、驚いたよ」
友美恵はピアノに近づき、そっと両手で撫でると、大きな瞳に徐々に涙が溢れ出した。博也は友美恵の背中をそっと撫でると、友美恵は目頭を押さえながらピアノから離れた。
「じゃあ最後に何か一曲、弾こうかな。作業員さん、まだこのピアノを弾いて大丈夫?」
博也が問いかけると、作業員は「まあ、少しだけなら」とぶっきらぼうな口調で返事した。博也は苦笑いしながら椅子に腰掛け、鍵盤に手を当てた。
「短い間だったけど、ありがとな。俺を含めてこのマンションの人達は、お前を守ってやれなかった。でもな……思い返すと、俺がここに来たばかりの頃、あいさつすら返してくれない無機質な住民ばっかりだったけど、今はみんな笑顔で挨拶してくれるし、会うと音楽の話で盛り上がる。お前がいてくれたおかげで、このマンションの住民同士の心がしっかりと繋がったんだ。え? それだけ? と言われるだろうけど、とてもとても大きな仕事をしたんだよ、お前は」
そう言うと、博也は鍵盤の上に指を這わせた。おだやかな優しいメロディーがロビーの中に響き渡った。ピアノの隣に立っていた友美恵は、博也の奏でるメロディーを首を上下に動かしながら音を刻んでいた。
「これって……中島みゆきの『糸』だよね?」
「うん」
「私、この歌大好きなんだ。ねえ、博也。ピアノに合わせて歌っていいかしら?」
「いいよ」
友美恵は温かみのあるメロディーに合わせ、伸びやかな声で唄い始めた。
「縦の糸はあなた 横の糸は私 織り成す糸は いつか誰かを 温めうるかもしれない」
博也と友美恵はピアノとの最後の別れを惜しんでいたその時、たくさんの住民達がエレベーターから降り、続々と博也達の周りに集まってきていた。
ここで演奏することなど事前に告知していなかったのに、住民達はまるで示し合わせてきたかのように次々と集まってきた。そして、住民達も博也の演奏に合わせて唄い始めていた。
友美恵は、知らぬ間に自分たちの周囲が人垣で囲まれていることに驚いたが、よく見るとみんなこのピアノを通して繋がった人達であった。友美恵は歌いながら、住民達の顔を一人一人見渡した。
このピアノを通して見知らぬもの同士が繋がり、自分の気持ちを解放し、新しい世界へと旅立ち、新しい出会いを見つけて行った。
振り返ると色々辛いことがあったけれど、ピアノが紡いだ糸はやがて一枚の布になり、このマンションの住民達の心を温めていた。
「縦の糸はあなた 横の糸は私 織り成す布はいつか誰かの傷をかばうかもしれない 縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に出会えることを 人は幸せと呼びます」
博也は演奏が終わると、目を閉じて、鍵盤に手を置いたまま天を仰いだ。
ピアノを取り囲んだ住民達からは、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
「終わりましたか?これからピアノを撤去させて頂きますね」
作業服を着た運搬業者が、演奏が終わったのを見計らうかのように博也に語り掛けた。
「ああ、どうぞ。大事に運んでくださいよ。このピアノには、僕らの思い出がいっぱい詰まっているんですから」
すると作業服を着た男性数名が次々とピアノの周囲に集まりだし、衝撃を押さえるための毛布やシーツをピアノの上部に巻き付けると、あっという間に持ち上げ、ロビーを横断し、玄関の自動ドアをくぐり抜けて行った。
やがてピアノは、入り口に待機していた大型のトラックの荷台にスロープ伝いに持ち上げられた。
ロビーに集結していた住民達はピアノの行き先を追って玄関に集まり、トラックがエンジンをかけると、荷台に向かって叫び声が飛び交った。
「ありがとう! お前のこと、ずっと忘れねえぞ!」
「元気でね~!」
住民達の叫び声をよそに、トラックはあっという間にマンションから遠く離れて行った。住民達は皆悲痛な表情で、次々と玄関の中に入っていった。中には力が抜けてがっくりと肩を落とす人や、誰かに支えられながら泣き崩れる人の姿も見えた。
その時博也は、マンションに帰る住民達に混じって、厚手のコートを着て一人立ち尽くす髭をたくわえた男性の姿を見つけた。
「あれ?小川さんかな?」
小川はコートの襟を立て、しばらくの間、マンションの外でトラックの行方を探そうとして立ち尽くしていた。やがて、何事も無かったかのように後ろを向き、玄関をくぐった。
「小川さん、どうしたんですか?」
小川が玄関に入ると、すぐ正面に博也が笑顔で立っていた。
「行ってしまったのか?ピアノは」
「もう行っちゃいましたよ」
「そうか……」
「どうしたんですか? これであなたの望み通り、ピアノのない静かな日々が戻ってきたから良かったじゃないですか?」
博也はにこやかに小川に問いかけたが、小川は無言のまま博也の傍を通り過ぎて行った。しかし、小川のゆく手には、大勢のマンションの住民達が怒りに満ちた表情で立ちはだかっていた。
「お前……よくぬけぬけとこの場所に来たな?」
「聞いたよ。あんたがピアノを撤去した張本人だって?」
「ふざけんな! てめえのせいで……ちくしょう!」
「謝れ! ここで俺たちの前で土下座しろ!」
「やめなさいよ。あまり騒ぎすぎると、この人またマスコミに垂れ流すわよ。ピアノ賛成派に暴行されたとか言ってね」
「ちっくしょう。あのピアノの代わりに、このマンションから追い出してやりたいよ!」
住民達の激しい罵声が飛び交う中、小川は一人とぼとぼとロビーへと向かっていった。
「おい、何か言ったらどうなんだ?謝罪の言葉の一つも無いのかよ!」
小川はピアノの置いてあった場所にたどり着くと、その場にしゃがみこんだ。。
ついさっきまでピアノが置いてあった場所は、置いた跡だけがわずかに床に残り、それ以外は面影すらもなくなっていた。
「なあ西岡さん、少し時間をくれないか?」
「何をですか?」
「こないだ言っただろ?俺の中には二人の自分がいるって」
「ああ、そうでしたね」
「あれから色々考えてみたけど、自分の心の中を整理していくには、やっぱりもう少し時間が必要みたいだ」
そう言うと、小川は床に目を向け、ピアノの置いてあった辺りを何度も手ですべらせた。
「さっき通りかかった時にちょっとだけ聞こえてきたよ。お前が演奏してた『糸』がね」
「聞こえたんですか?」
「うん。俺は、このピアノが紡ごうとしていた糸を必死に外そうとしていた。でも、紡がれた糸は簡単にはほつれなかったようだね」
そう言うと小川は立ち上がり、取り囲むように集まった住民達の前で頭を軽く下げ、ロビーの中を早足で歩き去っていった。
「バカ野郎! これだけのことをやらかしたのに、軽く頭を下げて終わりかよ? 今すぐピアノを取り戻してこい!」
「そうよ。簡単に謝ってすまされることじゃないでしょ?」
罵声を浴びせられながら、小川は無言のままエレベーターに乗り込んでいった。
いきり立った何人かの住民が、小川の後を追ってエレベーターに乗り込もうとした。しかし博也は両手でそれを制すると、興奮気味の住民達を前に大声で叫んだ。
「皆さん、落ち着いて聞いて下さい! あの人も、本心では僕たちと一緒に演奏したかったんですよ! 僕と同じ、ピアニストの卵でしたから!」
「ピアニスト? あいつが?」
「本当です。彼は昔、ピアノをめぐって過去に色々と辛いことがありましてね、ピアノに恨みを持ってしまったんです。そこのところは分かってあげて欲しいんです。彼もいずれ、皆さんと同じく紡ぎの糸の一本となって、僕たちと繋がっていくはずです。その時はいつかやってくると思いますので、それまでみんなで待ちましょう」
博也の説得を聞いて、住民達はやりきれない気持ちをそれぞれ口にしながらも、渋々とロビーから立ち去り、エレベーターに乗りこんでいった。
誰もいなくなったロビーには、博也が入居してきた当時のような空虚な雰囲気が漂っていた。
「さみしいね、やっぱり」
「そうだね。でもさ、俺、いつの日かまたここにピアノがやって来て、みんなで楽しく演奏する日が戻ってくると思ってるんだ」
「ど、どういうこと?」
「ハハハハ、俺の勝手な妄想だよ。さ、俺は作業所に行ってくるよ。あのピアノを次の持ち主にちゃんと渡してあげる作業がまだ残ってるからね」
「うん」
博也がロビーから去って一人残された友美恵は、しばらくの間、寂しそうにピアノの置いてあった辺りを見つめていたが、やがて「ありがとう」とだけつぶやくと、笑顔で手を振って、到着したエレベーターに乗り込んでいった。
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