第41話 もう一人の自分

 博也は小川の演奏に対する拍手を終えると、不敵な笑みを浮かべながら小川の椅子の目の前に立ち、軽く一礼した。


「なぜ、ここにいるんだ?」

「いや、あなたのことだから、人が居なくなったのを見計らってきっとここに来るだろうなって思いましてね」

「何を言ってるんだい? 単に夜中に散歩してる最中で、たまには弾いてみようかと思って弾いただけだよ」

「ふーん。僕、小川さんが今日の演奏会に出るって聞いて、楽しみにしていたんですけどね。今聴きましたが、あなたの演奏は昔と変らず素晴らしかったですよ。どうして今日の演奏会で演奏しなかったんですか? きっと皆、小川さんを見る目が変わったと思いますよ。何で人目に付かない所でコソコソ演奏してるんですか?」

「こんな下手くそな演奏、聴かせられるわけないだろ?」

「そうですかね? じゃあ何で演奏会にエントリーしたんですか?」

「知らねえよ。だれかが勝手に俺の名前を……」

「今日の演奏会の司会していた子が主催者でもあるので、色々聞いてみたんですが、

あなたは自分から参加したいと言ってきたそうですね。ここからは僕の推測なんですが、いざ今日を迎えた途端、あなたは昔の嫌な思い出が頭をよぎって、人前で演奏することが段々怖くなってしまった。今更出演のキャンセルも間に合わないし、あなたが直前で出演キャンセルしたなんて司会者に言われるのは、プライドが許さなかった。だから管理会社をけしかけて、自分の番が近くなったら妨害して中止させるつもりだったんでしょう。ま、一応その目論見は上手くいったようですけどね。僕以外は」

「僕以外?」

「演奏会の妨害には成功したけど、あなたがこのピアノを弾きたいという気持ちはそんなことでは消えないだろうと思ったからです。あなたはきっと、誰も人目につかな

い頃合いを見計らって、ここにやって来るはずだと踏んでいたんですよ」


 小川は博也の話を聞いて歯ぎしりをしながら拳を握り締めると、そのまま鍵盤を拳で叩きつけた。


「何するんですか!そんなことしたら、鍵盤が壊れてしまいますよ!」

「知るもんか。このピアノはどうせすぐここから撤去されるんだ。それに、撤去された後の引き取り先も決まってないんだろうし、中古店に売ろうともあまりにも古いし音の出も良くないから、値段もつかないだろう。まあ、今後は処分されるしかない運命だな、残念だけど」


 小川はそう言うと、博也の方を向いて鍵盤を拳で叩きつけながら高笑いし始めた。

 ピアノからは、小川が拳で鍵盤を叩きつけるたびに、まるで悲鳴をあげるかのように不協和音が鳴り響いた。


「そんなことをしても、あなたの満たされなかった思いを満たすことはできませんよ!」

「うるさいな。お前だってピアニストになれなかったんだろ?」

「まあ、そうですね。ただ、僕の場合は、自分で自分の夢を捨てる選択をしたんですけどね。あなたみたいに、誰かから夢を諦めさせられたんじゃなくてね」


 博也は両手で小川の手を掴むと、再び鍵盤を叩きつけないよう強く押さえつけた。


「おい、離せ! こら!」

「僕はこのピアノを命に代えても守る。マンションの人達の想いがいっぱい込められているこのピアノを、何が何でも守る!」


 二人は歯ぎしりをしながら、互いに力を振り絞った。

 小川は握った拳を必死に下へ降ろそうとしたが、博也はその手を必死に食い止めた。博也の脳裏には、柚葉の演奏と言葉が、そして自責の念にとらわれ悔し涙を流す友美恵の姿が強く焼き付いていた。

 これ以上、小川には好き勝手な真似はさせない。そう思えば思うほど、博也の手には力がこもった。


「く、くそっ……ぐあああ……っ」


 やがて小川は力尽き、握っていた拳を開いてそのままだらりと下げた。

 博也は息を切らしながら小川から腕を離すと、鬼のような形相で小川を睨みつけた。


「あなたは演奏会にエントリーし、今ここでピアノを弾いていた。こないだも、予定を早めて撤去しようとしていたけど、結果的には撤去を少しだけ待ってくれた。自分から撤去を要求していながら、いざ撤去となるとどこか未練がある。心の奥では、このピアノをいとおしく思ってるはず。違いますか?」


 すると小川は博也から目線を逸らし、ピアノの方を見つめながら軽くうなずいた。


「ならば、どうして素直にならないんですか? 確かにあなたのやったことは許せることではない。けど、あなたがマンション住民達と一緒にピアノを弾けば、いつかきっとあなたを見直してくれるはずだ」

「確かにお前の言う通りだ。俺だって昔はピアニストの卵だったから、楽しそうにピアノを弾いてるマンションの住民達を見てると、自分も弾きたいという気持ちが疼くことは何度もあったよ。でもな、そのことを『もう一人の俺』がどうしても許せないんだよ。このピアノを見ると、そしてピアノの音が鳴り響くと、あの時の悔しかった気持ちがワーッと頭の中によみがえってくるんだよ。俺の目の前からピアノと、ピアニストというキャリアを奪われたあの日の記憶がよみがえってくるんだよ! 俺の人生、返してくれって叫びたくなるんだよ!」


 小川は博也から目を背け、椅子に手を置いてうなだれながら悲痛な叫び声を上げた。


「自分で言うのも変だけどさ……『ピアノを弾きたい』という自分がいる一方で、『ピアノを弾くことも、見るのも、聴くのも許せない』という自分がいるんだよ!」


 そう言うと小川は椅子から立ち上がり、ポケットに手を入れてロビーから立ち去ろうとした。


「小川さん、僕はあなたの気持ちを全て理解しているわけじゃないけど、辛い気持ちは痛いほどわかります。でも、これだけは言わせて下さい。このピアノと、ピアノを弾く住民達には罪はない!」


 背後から叫ぶ博也に対し、小川は何も言わず、ランプを手にとぼとぼとエレベーターの方向へと歩きだした。


「まあ、すぐにでも分かってくれというつもりはありません。でも、いつの日かあなたの気持ちに整理がついたら、またこの場所にピアノを置かせて下さい。そして、あなたの素晴らしい演奏を聴かせてください」


 すると、小川はほんの少しだけ博也の方を振り向いた。顔の半分をランプの蒼白い光に照らされながら、不気味な笑顔を見せた。


「その時は、そうするよ」


 それだけ言い残すと、小川は到着したエレベーターに乗り込んでいった。

 相も変わらず昔の事件に囚われている小川に博也はため息をついたが、少しずつではあるが、隠していた本心を明かしてくれていることにわずかな望みを抱いていた。


 ★★☆☆


 クリスマスが過ぎ、今年も残すところあと数日となった。

 あの後小川からは何の連絡も無く、ロビーのピアノはこのまま撤去されることは確定的となった。

 博也は、撤去前最後の調律を行った。

 ピアノの行先は未定のままであり、ひょっとしたらもうこのピアノを弾く人は誰もいないかもしれない。しかし、博也はこのピアノに自分なりの方法で「お疲れ様」と言いたかった。一つ一つの音階を確かめ、ネジを調節し、汚れや埃を拭き取った。


「あーあ、少しだけ音階が狂ってるな。小川さんがあんなに強く拳で叩いたからだよ。あの時、お前には痛い思いをさせてごめんな」


 博也は申し訳なさそうな顔で音階を調節した。幸い、鍵盤は壊れていなかったものの、音階はささいな衝動でも狂いが生じてしまうので、影響を避けられなかった。


「次はどこに行くんだろうな? まだ何も決まってないんだけど、とりあえず、当面は俺の作業所で預かるしかないのかな。でも、いつかは俺の手元から離して、違う場所に連れて行きたいと考えてるんだ。ピアノは、誰かに弾いてもらうことで命が吹きこまれるからな」


 博也は、点検事項を全て確認すると、工具を仕舞い込んだ。


 その時、管理会社の堀井が両手を後ろで組みながら、靴音を響かせて博也の元へと近づいてきた。

 

「おや、調律ですか?ご苦労様です」


 堀井は笑顔で博也の作業の様子を見守っていた。


「ありがとうございます。ちなみに、小川さんからはピアノ撤去を止めて欲しいって話は来てませんよね?」

「来てませんよ」

「そうですか。じゃあ、撤去はほぼ決まりですね」

「そうですね。あさってにはこちらで専門業者を呼んで撤去いたします」


堀井の説明を聞いて、博也はため息をついた。

撤去は免れないことは分かっていても、どこか諦めきれない自分がいた。


「じゃあ、撤去したら僕の作業所に運んでください。しばらくは僕が面倒を見るしかないのかな、と思うので」

「あれ? 西岡さん、何も聞いてませんか?」

「はい?」

「年明けにこのマンションを引き払って実家にお帰りになる斉藤さんが、このピアノを引き取るそうですよ」

「え?」


 博也はあまりにも唐突な堀井の話を飲み込めず、戸惑っていた。


「あの、斉藤さんって、一体誰ですか?」

「斉藤貞夫さんって言います。かなり高齢の方ですけど、このピアノを弾くのが好きで、先日の演奏会にも出られたそうです。ピアノを実家に持ち帰って、あちらでも弾きたいとおっしゃってましたよ」


 確かに先日の演奏会では、懐メロを唄う高齢者のグループが出演しており、高齢の男性が伴奏していたのは博也もよく覚えていた。

 今まで白紙だったピアノの行先が、ここにきてようやく決まりそうなことは嬉しいことだが、貞夫はどんな人物なのだろうか?そして、このピアノをちゃんと扱うことができるだろうか?ピアノを今日まで我が子のように大事にしてきた博也は、一抹の不安を感じていた。

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