第40話 幕切れの後で

 次々と席を立ち、帰ろうとする観客を見て、一体何が起きているのか理解できないでいる柚葉に向けて、司会の美咲が事情を説明しようとした。


「あの、まだ全て終わったわけじゃないんですが……管理者の方からこれで終わってくれって……」

「どゆこと? まだ終わってないのに終わってくれって」

「演奏会の音がうるさいって苦情が来てるんですよ。それに、子ども達も飽きちゃったって……」


 すると柚葉は「アホか」とつぶやくと、顔をしかめて美咲を睨みつけ、ピアノの前に立つ堀井の制止を振り切ってそのままピアノの前の椅子に座った。


「会場の皆さ~ん! 演奏会、まだ終わっていないみたいですよ~。ということで、帰るのはもう少し待ってくださいね! あ、小さいお子さんとそのご家族の方は、夜も遅いし、もう眠いでしょうから先に帰ってくださっていいですよ。今晩はサンタさんも来るだろうし、その前に早く寝なくちゃ、ね!」


 笑顔で叫ぶ柚葉を、観客は皆あっけにとられた様子で見つめていた。


「ママ、かえろうよ。もうねむいし、あのおねえちゃんもはやくねなくちゃ、っていってるし」


 眠そうな目をこする子ども達にせがまれて、子連れのグループは、名残惜しそうにピアノを眺めつつエレベーターに乗り込んでいった。

 一方の柚葉は、会場の様子を伺うこともなく、ドカッと大きな音を立てて椅子に腰掛けるとピアノの鍵盤の上に手を置き、演奏を始めようとした。

 すると、柚葉の態度を見るに見かねたマンションの管理会社の社員達が、靴音を響かせながら四方から周りを囲むように近づいてきた。


「私どもはこのマンションの管理会社から来ました。さっき司会の方が言いましたとおり、他の住民の方から苦情が来ているんですよ。今日はこれで演奏会を終えて頂きます。さ、椅子を降りて、お帰り下さい」


 すると柚葉はピアノから手を離し、頬杖をつきながら呆れた表情で社員達の顔を見つめた。


「苦情だって? 取ってつけたような言いがかりだよね」

「言いがかり?」

「そうだよ。というか、あんた達なんだろ、このピアノを撤去することを決めたのは。どっかの卑怯な奴に言われてさ。陰でコソコソ卑怯な真似ばかりして、本当にクズ揃いだな」

「ちょっと、いい加減にしてくださいよ! こちらの事情も察しようともせずに『クズ揃い』だとか、言いがかりはそちらじゃないですか?」


 柚葉は管理会社の社員達の脅しに屈することなく、目をそらさずにじっと睨みつけていた。しかし、何を思ったのか、横を向くと額を押さえて軽くため息をついた。


「ま、その卑怯なクズ達を阻止できなかった私たち住民も、クズなんだよね。だから私、このピアノが撤去されるのが本当に、本当に悔しくて……。こんなクズな私たちでごめん、あなたのことをこの場所から守ってあげられなくてごめん。私、最後にどうしてもこのピアノに謝りたくて。おそらくこの演奏会が謝ることができる最後の機会になるかな? と思って、エントリーしたんだ」


 そう言うと、柚葉はピアノの方に向き直り、大きく息を吸い、思い切りぶつけるように鍵盤に指を叩きつけた。

 演奏が始まると、柚葉を阻止しようとしていた管理会社の社員達も、いきり立っていた観客達も何も言わなくなり、いつの間にかその場で柚葉の演奏に聞き入っていた。

 柚葉が演奏していたのは、MISIAの「さよならも言わないままで」だった。

 いつもならば鍵盤に豪快に指を叩きつけ、明るく、力強く、聴く側の心を鷲掴みするような演奏をしている柚葉が、ゆっくりと指を動かし、悲しい旋律を奏でていた。

 原曲を聴いたことがある友美恵は、柚葉の演奏に合わせて歌詞をそっと口ずさんだ。


「さよならも 言わないままで ありがとうも 言えないままで 

 行かないで 行かないで 私 一人 残して……」


 その時友美恵は目を大きく見開き、柚葉の方に目を遣った。この歌の歌詞を思い出し、口ずさむうちに、演奏前に柚葉が話していた言葉の意味が痛い程分かってきた。


「愛してると 言えぬままで あなたを 抱きしめぬままで

 行かないで 行かないで あなたの名前を呼ぶ

 ありがとうと その瞳で ありがとうと その笑顔で

 言わないで 言わないで さよならの代わりに」


 目の前にあるピアノは、やがて自分たちの目の前から無くなってしまう。

 あんなに多くの人達に慣れ親しみ、愛されたのに。

 あんなに沢山の曲を奏でてくれたのに。

 自分達は、このピアノに本当に感謝しているのだろうか?

 いざ目の前から奪われると分かった時、どうして取り返そうと本気で思わなかったのか? 今更ありがとうと叫んでも、悔しいと愚痴っても、もう遅いのだ。

 小川がピアノを撤去させるべく様々な妨害を企てた時、柚葉はただ一人めげることなく妨害に立ち向かっていた。

 彼女は本気でこのピアノを愛していたのだ。本気で守りたいと考えていたのだ。

 友美恵がそのことにやっと気付いた時、彼女の演奏が痛い程胸に突き刺さった。


「ふう……終わった。ごめんね、本当にごめんね。君がここにいたことを心から感謝しているよ。だからこそ、私なりのやり方で必死に守ろうとしたんだ。でも、力不足だったね。本当にクズだよ、私は。次はどこに行くのか知らないけど、私たちと違って、本気であなたを愛してくれる人に出会えるといいね」


 そう言うと、柚葉はピアノの前で頭を下げ、そのまま椅子を立ち、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま立ち去っていった。


「あ、あの~松本さん、これで演奏は終わりですか? 最後に何か一言を」


 司会の美咲が柚葉を呼び止めようとしたが、柚葉はすでにエレベーターに乗り込み、ロビーから姿を消していた。


「帰られたようですね。何か一言聞ければ良かったんですけどね。じゃ、次の出番のエントリー二十番の方は……」


 その時、美咲の目の前に、再び管理会社の社員達が立ちはだかった。


「すみませんが、これでお終いです。あの方は我々の制止を振り切って勝手に演奏していただけなので、私どもとしては公認したわけではありませんので」

「は、はい……わかりました」


 美咲が頭を下げると、社員達は再び四方に散り、部屋の四隅から観客が帰る姿をじっと見届けていた。観客たちは、次々と椅子を立ち、到着したエレベーターに乗り込んでいった。彼らは一様に表情が曇り、演奏会が始まる前に見られたような和やかに談笑する姿は無かった。

 きっと観客達も友美恵と同様に、柚葉の演奏した曲が意味すること、そして柚葉が発した言葉の真意を知って、撤去が決まったピアノを守ることができなかった自分たちの愚かさに胸を痛めているのかもしれない。

 あっという間に観客のほとんどが席を立ち、気が付くと博也と友美恵の二人だけが残っていた。友美恵は博也の胸に抱かれ、泣き続けていた。博也は友美恵の背中を何度もさすりながら、何度か言葉をかけていた。


「泣くなよ。気持ちはわかるけど、俺たちは出来ることは全てやったんだからさ。その上での結果なんだから、受け入れるしかないよ」

「でも、私がもっとこのピアノのことを考えていたならば、このピアノを守ってあげたいと本気で思っていたら、あんな脅しに屈することなんて無かったのに。私、自分が逃げることばかり考えてた。そのことが本当に悔しくて……」

「しょうがないだろ? 友美恵があれ以上脅迫する奴とまともに戦っていたら、それこそ精神がズタズタにされていたかもしれないんだぞ。実際、あの頃の友美恵は食事もほとんど眠れなかったし、何も食べられなかったじゃないか」

「わかってる。でも、私……悔しい。本当に悔しい!」


 博也は友美恵を抱き起こすと、背中を支えながら席から立ち上がった。司会役の恵理子と美咲が、後ろから心配そうに見守っていた。


「ごめんなさいね。本当は最後までやりたかったんですけど」

「いえ、大丈夫です。今日は素晴らしい演奏会でしたよ。僕らも久しぶりに人前で演奏して、緊張したけど楽しかったです」


 美咲は申し訳なさそうに何度も頭を下げた。博也は美咲が手にしているプログラムに目を止めると、柚葉の次に演奏するのはどこの誰だったのかが気になりだした。


「あ、ちなみに松本さんのほかにもエントリーした方がいらっしゃったんですよね?他には誰が演奏する予定だったんですか?」

「残すところあと一名だけでした。次の方、エントリー二十番は……」


 美咲から聞かされた次の演奏者の名前を耳にして、博也は驚愕した。しかし、その名前の人間はロビーの中で見かけることはなかった。彼は本当にこの演奏会に出演するつもりだったのだろうか?それとも……。


 夜が更けた後、ピアノの置かれたロビーからは座席も飾りつけも料理も撤去され、いつものように静かな夜を迎えていた。

 ロビーのある一階では、懐中電灯を手に館内を点検して回る守衛以外は、人影が全く無かった。

 その時、突然エレベーターのドアが開き、何者かがランプを手に、蒼白い灯りを放ちながらロビーの方向へと一歩、また一歩と近づいていた。

 灯りは揺らめきながらピアノの前で止まると、きしむ音を出しながらピアノの蓋がゆっくりと開けられた。謎の人物はピアノの上にランプが置くと、しばらく何か物思いに耽った後、椅子に座り、鍵盤にそっと手を当てた。

 曲の導入部分ではゆっくりと優雅に演奏したかと思えば、その後は韻を踏むかのように時折力強く音を響かせ、徐々に胸に迫り来るような激しさを増していった。

 演奏を終えると、ソファーの方向から誰かが立ち上がり、拍手しながらピアノの方向へと近寄ってきた。


「いやあお見事ですね!シューベルトの『魔王』。さすが、かつて僕がその才能に惚れ込んだだけのことはありますね。今日の演奏会でエントリー二十番だった、小川雄登さん」

「お、お前は……!」

「そうです、洗足学園の西岡博也です。またお会いしましたね」


 博也は暗闇の中で灯る蒼白いランプに照らされながら、そっと親指を立てた。

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