第39話 聖夜の演奏会(その5)

「自由自在なアドリブの数々、そして西岡さんとコラボしたおしゃれなクリスマスソングをありがとうございました! 木下さんにはいつかまたこの場所でライブをやってほしいですね。さて次はエントリー十六番・上原晴香さんです!」


 司会の恵理子が晴香の名前を呼ぶと、大胆に背中や肩を露出したシルバーのイブニングドレス姿の晴香が、ドレスの裾を持ってゆっくりとピアノの前に現れた。


「こんばんは。私は今、ピアニストを目指して勉強中の身ですが、自分の住むマンションで住民の皆さんの前で演奏するのは、いつもと違った緊張感があります。今日はクライスラーの『愛の喜び』を演奏します」


 そう言うと、飛び跳ねるような明るいワルツ調の旋律を演奏し始めた。まるで少女たちが水辺ではしゃいでいるような賑やかで明るい演奏は、つい先日失恋したばかりの晴香の演奏とは思えないほどであった。


 演奏を終えた晴香は立ち上がると、晴れやかな表情で胸元を押さえながら大きくお辞儀をした。友美恵は晴香の元に駆け寄ると、晴香のドレスの裾を持ってゆっくりと先導した。


「晴香ちゃん、素敵な演奏だったよ」

「あ、お久しぶりです、西岡さん。ありがとうございます」

「ところでさ、この曲だけど……意味は知ってる? こないだずっと好きだった海斗さんと別れたばかりなのに、どうしてこの曲を選んだのかな? って思って」

「アハハ、さすがは西岡さん!図星ですよ」

「まさか、コレ?」

「そう、コレ、見つかったんです」


 友美恵は小指を立てて尋ねると、晴香も小指を立てて満面の笑顔を見せた。


「演奏会が終わったら、二人だけでイブを祝おうと思って、彼のお店に行くつもりです。そう、西岡さんが海斗の結婚式の後で連れてってくれたイケメンシェフのお店にね」

「ええ? あのシェフに? お店で顔をちょっと合わせただけじゃない?」

「だって、カッコいい上に話も価値感も合うし。ああ、この人とずっと一緒に居たいって思ったのよ。あの後一人だけで何度かお店に行って、お互い意気投合して、正式にお付き合いすることにしたの」

「早っ……」

「私、すごく感謝してるんです。西岡さんと、このピアノにね」


 晴香はドレスの裾をお姫様のように両手でそっと上にあげると、何かを思い出したのか、慌てて友美恵の元に駆け寄ってきた。


「そうそう。こないだ海斗に偶然会ったんです。海斗、私に会った途端に顔がひきつって『ごめんな、晴香』って言ってました。私の気持ちにようやく気づいたみたい。今さらかよ!ってね。ハハハハ」

「そ、そうなんだ。本当に、今さらよね」

「西岡さんが教えてくれた海斗の結婚式で演奏した曲、まさに私の彼への気持ちでした。あの時に海斗の前で演奏して、もう全て吹っ切れちゃったけどね。じゃ、新しい恋に向けてこれからがんばってきますね。西岡さんも素敵なクリスマスを」


 最後にそう言い残し、手を振って嬉しそうにロビーを去る晴香の背中を、友美恵は苦笑いしつつ見守り続けた。


「おい、友美恵。次はお前の出番だってよ。エントリー十七番だろ?司会の人がお前のこと探してたぞ」

「あ。そうだった! ごめん、今すぐ行くね」


 友美恵は慌ててピアノの前へと戻っていった。そこには心配そうな表情で友美恵を探す恵理子と美咲の二人がいた。


「ごめんなさいっ。私の番ですよね?」

「あら、いらっしゃったのですね? 待っていられなくてもう帰っちゃったのかと思いました。皆さん、お待たせしました。西岡友美恵さんが到着しましたので、早速演奏の方、お願いしたいと思います」


 友美恵は「すみませんっ」と小声でつぶやきながら頭を下げると、急いでピアノの譜台に楽譜を置き、目を閉じてゆっくりと深呼吸した。思い返せば、友美恵が大勢の前で演奏したのは、博也と結婚する前……ちょうど三十年前であった。友美恵はピアニストを目指していたが、結婚後は陰から博也を支えたいと思い、夢を諦めていた。


「今日は美空ひばりさんの『川の流れのように』を演奏します」


 友美恵が鍵盤の上に指を這わせると、出だしからまるで勢いよく流れる川の水が跳ねて水が飛び散るかのように高音部分が飛び交った。


「ねえ、これって本当に『川の流れのように』?」

「すごい、今まで何度も聴いたけど、こんな美しく優しく演奏したの、初めて聴いたわ……」


 友美恵の演奏は、単なる過去の名曲のカバーに留まらず、西洋風の味付けがされた美しい響きを伴って客席に届けられた。


「私のつたない演奏を聴いてくださり、ありがとうございました。私は若い頃、ピアニストを目指していましたが、中途半端な所で諦めてしまいました。でも、次に演奏する私の夫の博也は、ピアニストとしてのデビューまであと一歩の所までたどり着いていました。そんな博也の演奏を、どうぞ存分に堪能してください。きっと感動間違いなしです!」


 友美恵からまさかのプレッシャーをかけられた博也は、きまりが悪そうな顔でピアノの前に進んだ。


「すみません。あと一歩でピアニストになれなかった西岡博也です」


 博也がそう言うと、会場から爆笑が沸き起こった。


「今日演奏するのは、千住明さんのピアノ協奏曲『宿命』第一楽章です。人は誰しも宿命から逃げられない。僕は、危うくゴミとして廃棄されそうだったこのピアノを、ここまでずっと必死に守ってきました。それは、弾き手として、そして調律師としてピアノに関わり続けてきた僕にとっては、逃れられない『宿命』だと思ったからです」


 そう言うと博也は背中を丸め、全神経を指に集中させた。普段は柔和な表情を見せている博也が、鬼気迫る表情で演奏を始めた。博也から醸し出される強烈なオーラに圧倒され、騒がしかった会場は一気に静まり返った。最初は悲しいメロディが延々と続いていたが、途中からは一気にボルテージがあがり、荒波のように迫りくる勢いで聴く側を圧倒していた。本来はオーケストラが伴奏に入るのだが、博也の演奏はオーケストラ無しでも十分なほどの迫力があった。

 怒涛のように展開する楽曲も、最後は徐々に曲調がゆるやかとなり、やがて静かに幕を閉じた。

 しばらくすると、一人、二人と徐々に拍手する人が増え、最後には会場全体から大きな拍手が沸き起こった。司会の美咲は胸に迫り来るような演奏に感動し、何度も目頭を押さえた。


「ありがとうございました……聴いてる私も涙が出てきちゃった、どうしよう? あ、ごめんなさい、時間が押してますもんね。いよいよあと残り二組となりました。まずはエントリー十九番・松本柚葉さん」


 しかし、柚葉はピアノの前に姿を現さなかった。


「あれ? 松本さん、いらっしゃってますか?」


 いくら待っても姿を現さない柚葉にしびれを切らし、美咲は会場全体に目を配り、柚葉らしき人物を探したが、場内には見当たらなかった。


「いらっしゃらないようですね。時間が押してますので、続いてエントリー二十番……」


 美咲が次の演奏者の名前を呼名しようとしたその時、スーツ姿の男性数名が、靴音を響かせながらロビーの周囲を取り囲むように四方八方から押し寄せてきた。

 その中の一人は、このマンションの管理担当者である堀井だった。


「な、なんだあんた達は?」

「すみません、このマンションの住民から、ロビーから聞こえてくるピアノの演奏会が煩くて眠れないって苦情が入ったんですよ。申し訳ないですけど、すぐに止めていただけませんか?」

「誰がそんなこと言ってきたんだ? ごらんのとおり、マンションの住民のほとんどがこのパーティ会場にいるんだぞ。苦情言ってるのはごく少数の連中だろ?」

「でも、我々としては苦情を言ってきた方を無視することはできませんので。もう遅い時間ですし、これで打ち止めしてくださるよう、お願いします」

「そんな勝手な真似させねえぞ! このピアノももうすぐ撤去されちまうんだし、最後くらいとことん演奏させてくれよ」


 あまりにも一方的なな中止命令にいきり立つ大人たちの脇で、演奏会の間ずっと追いかけっこや鬼ごっこをして遊んでいた子ども達は、目をこすりながら床に座り込んでいた。


「ねえ、もうねむいよう。はやくねよう、ママ」

「こんやはサンタさんがくるから、もうねたいの。ね、おへやにかえろうよ?」


 ここまであまりにも演奏会の時間が長かったため、主催者であり司会を務めていた恵理子や美咲も、そして子ども達の親も、本来今日のパーティの主役だったはずの子ども達のことをほったらかしにしてしまっていた。


「あ、ごめんね。もう寝る時間だもんね。じゃあ、今日はこれで終わりにしましょう。皆さん、長い時間お疲れさまでした。そしてピアノさん、短い間だっただけど、私たちを沢山楽しませてくれてありがとうございました! それではみなさん、素敵なクリスマスをお過ごしくださいね」


 司会の恵理子は、申し訳なさそうな声でアナウンスし、観客たちも一人、また一人と席を立ち始めたその時、エレベーターのドアが開き、上下ジャージ姿の柚葉がズボンのポケットに手を突っ込み、大きなあくびをしながらロビーに向かって歩いてきた。


「ふぁあ、大検の勉強してるうちについ寝ちゃったわ。遅くなってごめんね。あれ?ひょっとして演奏会、もう終わっちゃったの?」


柚葉は長い髪を片手で無造作に搔きながら、突然の柚葉の登場にあっけにとられている観客や管理会社の社員達の顔を呆然と見つめていた。

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