第45話 再びこの場所で

 玄関前の梅の木々が花を咲かせる頃、一台のトラックがマンションの玄関前に到着した。

 やがて一台のピアノがトラックの荷台から降ろされると、作業員の手でマンションの中に運び込まれ、ロビーの片隅に据え付けられた。


「あ、ここに以前置いていた時の跡がちゃんと残ってますね。じゃあ、今回もここに起きましょうか」


 作業員はピアノを据え付けると、梱包をほどき、その黒くて重厚感のある全身が再びマンションの中に姿を見せた。

 その様子を、博也と友美恵、そして管理会社の堀井の三人で見つめていた。


「まさか、あのピアノがここに戻ってくるなんて夢にも思いませんでしたよ」

「僕たちもですよ」

「我々にピアノ撤去を強く求めていた小川さんがピアノを戻すことに同意したなんて、最初聞いた時は耳を疑いましたよ」

「ですよね? 彼は本心からそう言ってるのかと思いました。改めて彼に尋ねたら、間違いなく今の彼の本心なんだそうです」

「ひょえ~……それ、何だか怖いなあ。後になってから何か条件付けられるんじゃないかって、ビクビクしちゃいますよね?」


 堀井は、小川の言葉には何か裏があるのではと考え、両腕を抱え震え上がっていた。


「いや、小川さんは手放しで了承してくれたわけじゃなく……一つだけ、条件を出されました」

「や、やっぱり! 今度は何を私たちに突きつけてきたんですか!?」


 堀井は「条件」という言葉を聞いた途端、震え上がりながら博也の肩に手をかけて詰問してきた。


「事前に、ちゃんとマンションの住民全員に了承をもらっておけって言われたんです」

「ぜ、全員!それってハードル高いじゃないですか? 誰か一人が反対したらダメですよね?」

「いや、それをやらないとピアノを置くことを認めない、というわけじゃなく、あくまで老婆心からの苦言、と言っていましたよ」

「苦言とは?」

「最初にこのピアノをここに置いた時、管理会社には許可をもらったけど、住民全員の同意をちゃんと得ていませんでした。小川さんは、そのことがすごく不愉快だったと言ってました。確かに小川さんは、ピアノのことで色々過去に辛い思いをしましたから、相談も無く勝手にピアノを置かれて、相当腹が立ったと思います。小川さんじゃなくても、騒音とかを気にする人はいるだろうし……前回と同じやり方をしたら『第二の小川さん』が出てくるかもしれない。だから僕たちはピアノの設置について同意を求める回覧を回したり、回覧だけで納得していない人がいれば、直接足を運んで説明しました。お陰様で、住民の大部分から同意を頂きました。反対してる人も、真夜中とか早朝に演奏しないという条件付きで認めてくれました」

「す、すごい……! 住民全員の同意をもらった西岡さんの努力もすごいけど、小川さんも変わりましたよね。老婆心からのアドバイスまでしてくれたなんて! 昔は、ピアノの話をほんのちょっとしただけでも嵐のごとく怒られたんですけどね」

「そうですよね、すごい変わりようですよね」


 博也は笑いながらそう答えると、設置作業の終わったピアノに近寄り、一つ一つの鍵盤を押しながら音の状況を確かめた。


「うーん……特段故障はしてないけれど、ちゃんと調律しないとダメだね」

「貞夫さんの家の近くに元音楽の先生がいて、その人が調律していたみたいよ」

「いや、先生だからと言って、調律まで出来るわけじゃないからね」


 博也が頭をひねりながらピアノを目視している傍から、堀井は博也の耳元でそっと話しかけた。


「すみません、私、そろそろ帰ります。ちなみに私どもとしては、ピアノを置く時の条件は、以前ここに置いた時と同じですからね。くれぐれもしっかり順守して、今度はトラブルがないようにお願いしますよ」

「はいはい。あ、そうだ。ピアノがまたここでお世話になるので、挨拶代わりにレーズンウィッチを買いましたので、後で届けに行きますね」

「え? ホントですかぁ? うわぁ! やったあ! ちなみに、会社には届けないでくださいね。私が直接西岡さんのお部屋に取りに伺いますから」

「それって、会社の人達に食べられる前に、独り占めしたいってこと?」

「ま、まあ。その……アハハハ」


 堀井は「バレたか……!」と小声でつぶやくと、顔を赤らめながらそそくさと退散していった。


 堀井が去った後、博也は自室から道具を持ち込んでピアノの調律を行った。

 ネジが緩んだ所、埃が貯まった所、劣化した部品を一つ一つ点検し、最後に音階が合っているか鍵盤を押さえながら確認した。


「よし、今度は大丈夫だ」


 博也は額の汗を拭うと、最後は全身を布でしっかり拭き取った。


「さ、また今日からここがお前の居場所だ。今度はお前を追い出そうとする人はいないはず。もしそんな奴がいたら、俺が徹底的に守るからな。もうお前を、他の所には行かせるもんか」


 博也がピアノに向かって語り掛けると

「ありがとう。またここに戻れて嬉しいよ。でも、あのおうちも良い場所だったし、ご主人様もすごく優しかったよ。またどこかに行けるなら、行ってみたいな」


 という声がどこからともなく聞こえてきた。


「だ、誰?」


 博也は周りを見渡したが、どこにも人影が無かった。だとすると、今の声はピアノから?まさか……空耳だろ?と思いつつ、博也は調律の道具を仕舞いこみ、再び作業所へと戻っていった。


 夕方になり、マンションのロビーには住民達が会社や学校から続々と戻り、エレベーター待ちで次第に混雑し始めた。

 しばらくの間何も置かれていなかったロビーに再び登場したピアノを見て、住民達からは次々と声が上がった。


「あれ?あそこにピアノがあるよ!」

「ホントだ。ついに戻ってきたんだね」

「ピアノが無かった時は何となく寂しかったけど、また賑やかになるね」

「以前のようにいつでも好きな曲を弾けるんだね。今度友達と弾きに行こうかな」


 住民達は、口々に喜びの声を上げていた。そしてその晩から、次々と「弾き手」たちがロビーに集まってきた。

 今夜は、幼稚園の先生をしている美咲が、恵理子とともに連弾で曲を弾いていた。


「美咲ちゃん、やっぱここで演奏するのは気持ちいいわね」

「そうですね。再びここでピアノを弾ける日がくるなんて……夢を見てるみたいな気分です」

「西岡さん夫妻のお陰ね。こないだ私の所にも、再びピアノを置くための同意をもらいに来てたよ。私はあっさりOKしたけど、反対してる人もいたみたいね」

「そうですね……今度は何も起きなければいいですね」

「とりあえず、私たちのためにがんばってこの場所にピアノを戻してくれた西岡さんのために、私たちができることをしようか?」

「そうですね。でも、何ができるのかしら?」

「決まってるじゃん。演奏会しかないでしょ?前回は中止させられたけど、あの後、マンションで通りかかった人に『すごく楽しかったよ』って口々に言われて、私もすごく嬉しかったから」

「私も、ちょうどエレベーターですれ違った子ども達から『たのしかった』って言われて。私もがんばって慣れない司会やった甲斐があって、嬉しくなっちゃいました」

「じゃあ話は決まりだね。演奏会、やろうか。今度は簡単に中止なんかさせないからね」

「はい!」


 ☆★☆★


 数日後、ロビーの柱には『祝・ピアノ復活 演奏会リターンズ!』と大きな文字で書かれたチラシが貼られていた。

 演奏会が近づくにつれ、多くの住民達がピアノで練習する姿を見せ始めた。ピアノが去ってから閑散としていたロビーが、再び賑やかになりだした。

 今日はトレーダーの安典が一人で黙々と練習をしていた。


「安典さん。久しぶりですね」

「あ、尚史君か? 本当に久しぶり! どう? 早速このピアノで演奏してみたかい?」

「ピアノがここに無くなってから弾く機会も無くなっちゃったから、思うように指が動かないんですよね。今度の演奏会にエントリーしたけど、間に合うかなあ」

「大丈夫だよ、ここから追い込み練習すればいいさ。俺も朝の早出特打ちと、夜の千本ノック……じゃなかった千回練習して、何とか間に合わせるよ」

「相変わらずタフだなあ、安典さんは。僕も負けてられないな」


 演奏会に向けて練習に励む住民達の姿を、博也は遠くから見つめていた。


「やっぱり戻ってきて正解だな。みんな、顔が生き生きしてるもんな」


 博也は練習風景を見届け、到着したエレベーターに乗り込もうとしたその時、入れ替わるようにエレベーターから小川が下車した。博也は慌ててエレベーターを降り、小川に声をかけた。


「小川さん、ありがとうございます! お陰様で、マンションのみんなにこのピアノを置くことを認めてもらいました。これで心置きなく、この場所でピアノを演奏できます」


 博也が頭を下げると、小川は無言のまま軽くうなずいた。


「良かったな。みんな楽しそうじゃないか」

「そうですね、今度またここで演奏会をするので、みんな必死で練習してますよ」


 小川はしばらくの間ピアノに目を向けると、そっとつぶやいた。


「以前ピアノがここに置いてあった時、楽しそうに練習してる人達の背中を見て、俺、正直すごく羨ましかった。でも俺は、その気持ちを認めたくなかった。今は羨ましいって、素直に思えるようになったよ」

「何か、きっかけがあったんですか?」

「何と言えばいいのかな……ピアノがこの場所から無くなった時、俺は内心ホッとしたというよりは、無性に寂しくて仕方がなかった。その時俺は、初めて自分のやったことの馬鹿さ加減に心の底から悔やんだよ。俺は一体、何に対して怒っているんだろう? 怒りをぶつける相手は、ピアノじゃなくて、もっと他にあるんじゃないかってね。すると、不思議なことに、このピアノに対するわだかまりが俺の中からフッと消えたんだよ」


 そう言うと小川はクスっと笑い、博也の方を振り向いて人差し指を向けた。


「演奏会……今度は俺もちゃんと演奏するからな。お前も出るんだぞ」

「え? 小川さんも出られるんですか?」

「そうだ。お前と俺でどっちが上手か、久し振りに勝負したいからさ。ま、せいぜい頑張って練習しろよ」


 そう言うと小川はコートのポケットに手を突っ込んだまま、玄関へと向かっていった。博也は玄関を出ようとする小川の背中に向かって叫んだ。


「僕、今度は負けませんよ」


 博也の声を聞いた小川は不敵な笑みを浮かべて片手を掲げると、そのままガッツポーズを見せた。

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