第48話 エピローグ~この場所で、これからも~

 ピアノの前に突如現れた謎の人物は、ロビーの明かりに照らされ、ようやくその全貌を見ることが出来た。その人物は金色に染めたショートカットの髪、その上に赤いベレー帽をかぶり、チャーミングな笑顔を浮かべて客席に手を振っていた。


「え? 動画サイトtacotubeタコチューブで活躍してるピアニストのカイラさん……ですか?」

「そうで~す、カイラです。ここに来たのは二回目かな?」


 カイラはマイクを向けた司会の美咲に対し、笑顔で答えた。


「カイラさん、今日はどうしてここに?」

「うん、隣町のストリートピアノで演奏した帰りに、久し振りにこのピアノに逢いたいと思って、立ち寄ったんだ。でも、マンションの中に入ろうとしたら、何やらすっごく賑やかでね。ちょうど通りかかったお姉さんに聞いたら『今日はマンションの住民の皆さんが演奏会やってるから』って言われて。じゃあ私、途中で邪魔したら悪いと思って帰ろうと思ったの。でも、そのお姉さんに『折角来たんだから、弾いていけば』って言われてね」

「お姉さん? それって……誰ですか?」

「あ、そこにいますよ。ねえ、ちょっと来てくれるかな?」


 すると、玄関の前に立っていた上下ジャージにサンダル姿で、コンビニの袋を手にした柚葉が、「呼んだ?」と言いながらカイラに近づいてきた。


「この人が、私をここに連れてきてくれたんです」

「松本さんが?」


 美咲は驚いた様子で柚葉を見つめると、柚葉は極まりが悪そうな顔で美咲を睨んだ。


「演奏会ボイコットしてすごく暇だったから、コンビニに行ってたんだ。その帰りにこの人に会ったんだよ。何だか羨ましそうに外からずーっと覗き込んでたから、そんなに入りたいならウジウジしないで入ればいいじゃんと思ってね」

「ま、まあ、羨ましかったけどさ。でも、すごく盛り上がっていたし、よそ者の私が途中で入り込んで邪魔するのは悪いや、と思って、結局演奏会が終わるまでずっと待ってたんですよね」

「全くしょうもないよね。終わるまでいつまでも外で待ってるんだもん。有名なピアニストなんでしょ?もっと堂々と飛び入りして弾いてくればいいのにさ」

 

柚葉はそう言いながら笑い、他の客達からも盛大な拍手が沸き起こった。


「皆さん、ありがとう。お姉さんに聞いた話だと、このピアノはしばらくこのマンションから撤去されていたと聞きました。でも、無事ここに戻ってきて、住民の皆さんが以前のように演奏を楽しんでると聞き、とても嬉しくなりました。私も今日は、このピアノにお帰りなさいの気持ちを込めて演奏しようと思いますので、ヨ・ロ・シ・ク!」


 そう言うとカイラはウインクし、ピアノの前の椅子に座った。

 鍵盤を端から端まで一気にかき鳴らすと、猫背気味にピアノの上に覆いかぶさり、星野源の「恋」を演奏し始めた。


「さあみんな。歌ってもいいし、曲に合わせてダンスしてもいいし、思い思いの形で自由に楽しんで下さいね!」


 カイラはまくしたてるように「恋」を演奏すると、客席にいた住民達は立ち上がり、ピアノの周りにはあっという間に人だかりが出来た。すると、高校生カップルの斗馬と蘭子が、人だかりの中からピアノの前の空いたスペースに飛び出した。


「ねえねえ斗馬、あれやらない? 一緒に文化祭で踊ったじゃん」

「ああ、あれね。いいよ」


 二人は曲に合わせて「恋ダンス」を披露した。すると、他の住民達も次々と斗馬たちのダンスを見よう見まねで一緒に躍りはじめた。

 美織と千絵、千晴と沙月の仲良しコンビ、恋人同士の寿人とまゆ香、兄妹の僚と穂乃花、柚葉、そしてピアニストの卵の晴香……若い住民達が楽しそうに踊るその脇で、安典と尚史が、ぎこちないながらも必死に踊っていた。博也は安典の動きを指さしながら、大声で茶化していた。


「ねえ安典さん、さっきから腰が全然動いてないですよ!」

「う、うるさいなあ! 野球もダンスも気合いが大事なんだよっ」


やがて「恋」の演奏が終わると、踊っていた全員でポーズを決めて、客席から大きな拍手が沸き起こった。


「ありがとうございました。さあ、次は老いも若きもみんなで踊れる曲ですよ。V6ブイシックスの『WAになって踊ろう』です。おじいちゃんもおばあちゃんもお子ちゃまもエブリバディ・レッツ・ダンス!」


 カイラの一声で、ピアノの周りに集結した住民達は一斉に散りはじめ、ピアノを中心に輪を描くように広がると、それぞれが思い思いのスタイルで踊りはじめた。

 輪の中には、社交ダンスのように手に手を取って踊る昭三と澄子夫妻、征三と晴代夫妻、そして盆踊りのように腕を左右に振るリツの姿もあった。薫はリコと一緒に、ピアノに合わせて片手を振って楽しんでいた。冴子とまりえ親子は相変わらず反目しつつも、すぐ隣に寄り添いながら踊っているように見えた。そして、司会を務めた恵理子と美咲は、子ども達と手を繋ぎ、曲に合わせて一緒にスキップしていた。


「みんな楽しそうだな。友美恵、俺たちも踊ろうか?」

「うん」


 博也と友美恵も輪の中に入り、一緒に両手を振り、唄い、両手を叩いた。

 住民のほとんどが輪に入って楽しんでいる傍ら、小川はたった一人で、遠くからその光景を見ていた。


「あれ? 小川さんも一緒にどうですか?」

「いや、俺は……まだその中に入る資格はないよ」

「何言ってるんですか? 変な遠慮はしないでくださいよ。さ、ほら!」


 博也は小川の所へ駆け寄ると、強引に手を引き、踊りの輪の中へと連れ込んだ。

 小川は目を逸らしたままうなだれていたが、輪の中にいる住民達は小川を拍手で迎え入れてくれた。


「もう過去のことは気にすんなよ。あんたも俺たちと同じく、このピアノを愛する人間なんだからさ」


 安典が大声でそう言うと、他の人達も大きく頷いた。


「さ、小川さん、一緒に踊りましょ! どんなダンスでもいいですよ。サルサでもチャチャでもヒップホップでも。あ、僕らの世代はディスコですよね?」

「ハハハ……そうだったよな、あの頃は」


 博也がからかいながら誘うと、小川はほんの少しだけ笑顔を見せた。

 小川は博也とかつての仕事仲間の尚史には心を開いているが、その他の住民達の前ではどこか申し訳なさそうに振舞っていた。小川が完全に心を開くには、まだまだ時間がかかるかもしれない。

 一方、演奏会は時を追うごとに盛り上がりが加速していた。サックスを抱えた銀次がピアノの前に躍り出ると、ピアノの音に合わせてアドリブで演奏を披露し、カイラも銀次に合わせて徐々に脱線し、アドリブで自由に演奏を始めた。

 演奏会はカイラの登場により一気に盛り上がり、予定時間を大幅に超過し、日付が変わりそうな時間になってようやく幕を閉じた。


 ★☆★☆


 数日後、博也は大きなキャリアケースを引きながら、ピアノの前にやってきた。

 ピアノがこのマンションに戻ってきてはや数か月が経ち、しばらく調律を行っていなかったこともあり、音程が少しずつ狂い始めていた。

 博也がロビーにたどり着くと、そこには二組の親子が一緒にピアノを楽しんでいた。片方は薫とリコの親子、そしてもう一組の親子には初めて会った。二組の親子は、ピアノを弾きながら一緒に歌ったり、連弾に挑戦したりするなど、ピアノを囲みながら楽しく交流している様子だった。


「あ、西岡さん、こんにちは!」


 薫が博也の存在に気づき、大きく手を振って博也に声を掛けた。


「こんにちは。今日は親子でピアノの練習ですか?」

「はい。リコと新曲に挑戦しようと思って」

「新曲?」

「そう。今は『チューリップ』を練習してるんですけど、リコ、上達速いんですよ。赤ちゃんの頃からこのピアノの音を聴いたり、触れたりしているからですかね?」

「そうかもしれませんね。将来はきっとピアニストになれるかもしれませんね」


 博也がそう言うと、薫は照れくさそうに笑みを浮かべた。


「こちらのお二人は?」

「武田さんって言って、この春旦那さんの転勤で大阪からこのマンションに越してきたんですって。ロビーの周りで所在なさげにうろうろしていたから、私が声を掛けて、一緒にピアノ弾いたり唄ったりしていました」

「初めまして、武田と言います。ここはロビーにピアノがあって、素敵なマンションですね。それに、見ず知らずの私たちにもみんな気軽に声をかけてくれるし、すごく居心地が良いですね」


 博也は「よろしく」と言って、軽く頭を下げた。

 するとリコが薫の元を離れ、博也の持つキャリアケースを興味深そうに触っていた。


「ごめんなさいっ。リコ、ダメでしょ?いたずらしちゃ」

「いえいえ、良いんですよ。この中には道具が入ってるんですよ。ピアノの調律用の」

「これからこのピアノの調律を?」

「そうですね、しばらくやっていなかったんで」

「じゃあ私たち、邪魔しちゃまずいですよね。リコ、表で遊ぼうか? 良かったら武田さんもご一緒にどうですか?」

「じゃあ、お言葉に甘えて……」


 二組の親子は、賑やかに会話しながらそそくさとロビーから立ち去っていった。


「何か悪いことしたな。別に追い出す気は無かったんだけど……」


 博也は極まりの悪い様子で道具をケースから取り出すと、ピアノの内部を開けて点検を開始した。


「お前には、これからもここでずっと頑張ってもらわなくちゃな。俺ももうすぐ還暦だけど、お前のために、まだまだ頑張るからさ」


 すると、博也の耳元に、かすかに誰かの声が聞えた。


「ありがとう。僕がここまで元気でやってこれたのは、あなたのおかげだよ。ここに置いてくれたあなたのために、そして僕の命を何度も救ってくれたあなたのために、まだまだがんばるからね。でも、たまにはちょっと休もうよ。僕も、そしてあなたもいい歳なんだからさ」


 博也は耳を疑ったが、自分とピアノ以外、ロビーには誰もいなかった。


「今の声、やっぱりお前……だよな?」


 博也は辺りを探ったり、ピアノを覗き込んだが、声らしきものは何も聞こえなかった。

 博也はしばらくの間頭をひねっていたが、その間も玄関からは引越業者が次々と荷物を運んできた。さらに別な業者も後を追うように大きな台車に荷物を載せて入ってきた。四月を迎え、今年も多くの新しい住民達が仕事や学業でこのマンションに引っ越してきたようである。

 彼らもきっとこのピアノを弾き、ピアノを通して見知らぬ同士の心と心が繋がっていくのだろう。


「やれやれ、俺もお前もまだまだ休むことはできないな」


 博也はそう言って気合を入れ直すと、道具を握りしめて一心不乱に調律の作業を続けた。

 このピアノを弾いてくれる人達の笑顔のために。

 そして、何度も命拾いし、他所に追い立てられ、やっとの思いで自分の居場所を見つけたこのピアノが、いつまでもこの場所で元気でいられるように。


(おわり)

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