第47話 紡ぎの調べ

 客席から投げかけられる辛辣な言葉を受けながら、小川は目を閉じ、演奏を始めた。冒頭部から細かいリズムの連打を駆使しておどろおどろしい雰囲気を表現し、フォルテシモの部分では昂る感情をぶつけるかのように指を鍵盤に激しく叩きつけた。


「シューベルトの『魔王』だ! 学生ピアノコンクールで、俺がすっかりとりこになった『魔王』だよ!」


 博也は友美恵の耳元で興奮しながらそう言うと、両手を強く握りしめながら、小川の手の動きをしっかりと目で追い、迫り来るような演奏をじっくり聴き入っていた。

 小川は表情を変えず、ひたすら冷静に演奏を続けていた。この演奏会に出るまでは相当なブランクがあったはずなのに、小川の演奏力は、博也が学生時代だった時と全く変わっていなかった。あれほどピアノを忌み嫌い、見ることすら嫌がっていた小川が、昔のように真剣な表情でピアノを弾く姿を見せてくれるなんて、ほんの少し前までは想像すらできなかった。


「ねえ博也、お客さんの様子、変わったわよね? さっきまでさんざん罵声を浴びせていたのに、今はじーっと聴き入ってるわよ」


 友美恵は、観客の様子の変化に敏感だった。もはや小川に罵声を浴びせる人はおらず、まるでコンサートでプロの演奏を聴く時のように、観客の目と耳は小川にくぎ付けになっていた。

 小川はその技術と表現力で、曲の詳細な部分まできっちりと表現していた。そして音の強弱を上手くつけながら、曲がまるで一つの物語のように展開していた。


「くそっ……ここまで細やかな表現は俺には無理だな」


 博也は自分には出来ない芸当をやり遂げる小川を見て、悔しさのあまり下唇を噛みしめた。


 演奏が終わると、小川はふらつきながら立ち上がり、少し青ざめた顔で胸の辺りを押さえていた。心配して近づいた司会者の恵理子を片手で制止すると、小川は観客の前で大きく一礼した。


「今日はありがとうございました。ご存じのとおり、私はこのピアノにひどい仕打ちをしました。そしてこのピアノを愛してくれた人達の心を深く傷つけました。そんな男がここで演奏していいものか最後まで悩みましたが、どうしてもピアノを弾きたいという強い思いに駆られ、批判を受けることを承知のうえで出演しました。こんなことを自分から言うのは恥ずかしいですけど、自分がこれまでしたことは本当に愚かで恥ずかしくて……そのことを考えると、全身が震え、胸が痛くて仕方がありません」


 小川は胸を押さえたまま、ややうつむき加減で語り続けた。彼なりに、相当な重圧の中で、覚悟の上でこの演奏会に参加したに違いない。


「皆さん、誠に申し訳ありませんでした! そして最後に一言だけ言わせてください。私はこれまでピアノに色々ひどい仕打ちをしましたが、本当は、皆さんと同じく、ピアノが大好きなんです!」


 そう言うと、小川は深々と頭を下げた。

 客席からは拍手も批判の声も称賛の声もなく、しばらくの間静まり返ったままだった。すると、博也が突然客席から立ち上がり、ロビーに響き渡る位大きな音を立てて両手を思い切り叩き始めた。


「ブラボー! 小川さん! ブラボー!」


 博也は手を叩きながら大声を張り上げ、小川の演奏と勇気を称えた。

 観客はあっけに取られながら博也の様子を見ていたが、やがて隣に座っていた友美恵も立ち上がり、博也と一緒に小川への拍手を送った。

 その拍手に釣られるように、徐々に会場のあちこちから拍手が沸き起こり始めた。まばらだった拍手はやがて会場全体に広がり、大きなうねりとなって小川の耳に届いた。小川は再び深くお辞儀すると、拍手に包まれながら客席へと戻っていった。

 次に演奏する博也は、客席に戻る小川とすれ違いざまに「素晴らしい演奏でしたよ。でも僕はあなたに負けませんからね」と小声でささやいた。小川は博也に背中を向けながらも、そっと親指を立てていた。


「小川さん、素晴らしい演奏をありがとうございます。続いてはこのピアノをマンションに戻して下さった西岡博也さんです」


 司会の美咲の声を聞いて、博也は軽く一礼した。


「西岡博也です。先ほど演奏した小川さんは、実は僕が学生時代、コンクールでよく顔を合わせました。結果として当時は一度も小川さんに勝てませんでしたが、今日は折角の機会ですから、小川さんに雪辱を果たしたいと思います。観客の皆さん、僕の演奏後にどっちが上手だったか判断してくださいね」


 博也は笑顔でそう言うと、ピアノに向かい合い、両手に力を込めた。


「ハイドンの『ピアノソナタ 第三十四番』 ……覚えてますよね? 小川さん。あなたと同じコンクールに出場した時、あなたが『魔王』で、そして僕はこの曲で参加したんですよ」


 博也は導入部分を演奏しながら、これから演奏しようとしている曲名を告げた。

 小川は、客席から博也の演奏を腕組みしながら無言で聴き続けていた。学生時代、博也は重厚な曲を演奏する小川に対抗すべく、軽やかで柔らかい雰囲気のある「ピアノソナタ 第三十四番」を選曲していた。この曲は全体的には柔らかく、跳ねまわるような明るい曲調だが、明るいながらもどことなく憂いを感じさせる部分があり、当時博也はその辺りをどう表現したらいいのか悩み、ひたすら練習を重ね続けた。

 今日は久し振りに弾いたからなのか、あの頃必死に練習して身に付けたはずの表現力はすっかり落ちてしまったことが悔しかった。


 演奏が終わり、博也は背中を反らして天井を仰いだ。

 やりきったという気持ちと、先に演奏した小川の演奏力の高さに追いついていないことへの悔しさもあった。


「西岡さん、素晴らしかったよ、ありがとう!」


 客席にいた小川が立ち上がり、拍手しながら博也の元へと駆け寄った。

 そして、しばらく放心状態だった博也の背中を抱きかかえ、健闘をたたえた。

 博也は小川に背中を支えられながら、しばらくの間無言で天井を仰いでいた。

 二人の様子を見届けながら、司会の恵理子がマイクを握った。


「お疲れさまでした。学生時代に切磋琢磨し合ったお二人の演奏、素晴らしいの一言ですよね。それではみなさん、先程西岡さんが提案していましたが、どっちの演奏が上手か判断していただけるでしょうか? まずは皆さん、隣の人がどちらに手を挙げたか気にならないよう、目を閉じてくださいね。最初に、西岡さんの演奏が素晴らしいと思った方、挙手願います」


 恵理子が問いかけると、客席のおおよそ半分近くの人達が手を挙げた。


「うーん、大体半分くらいですかね? それじゃあ、次に、小川さんの演奏が素晴らしいと思った方は……」


 すると、こちらも客席の半分ぐらいの人達が手を挙げたが、博也の時よりは若干数が多いように見えた。


「小川さんに挙手した方の数が、西岡さんより二人だけ多いですね! ということで、小川さんに軍配が上がりました! おめでとうございまーす!」


 会場からは、どよめきと拍手が沸き起こった。博也はまたしても小川に勝つことが出来ず、愕然として肩を落としたが、小川は目を閉じて小さく頷くと、博也に手を差し伸べた。


「勝ったけど、まさかこんな僅差とはね。いつの日か、再戦してきっちり蹴りをつけないといけないな、西岡さん」

「そうですね。望むところです」

「これから毎日、このピアノで練習するからな。今度も絶対に負けないぞ」

「僕も練習しますよ。今度は絶対に勝ちますからね」


 博也は小川の手を強く握り、そのまま繋いだ手を天井へと高くつき上げた。

 会場からは鳴りやまない拍手と、「ありがとう!」という声が何度も投げかけられた。


「うわあ、たまりませんね。まるでドラマを見てるみたいで、胸が熱くなりました。さあ、この次が本日最後の出演者です。西岡友美恵さん、どうぞ!」


 司会の美咲が声高らかに友美恵の名前を呼ぶと、グレーのドレスに身を包んだ友美恵が、スカートをたくし上げながらピアノの前に歩み寄った。


「このピアノを通して、私はマンションで沢山のお友達が出来ました。私以外にもピアノを通して見知らぬ人同士が一緒に歌ったり、弾いたり、語り合ったり……そんな場面を多く見かけました。それはまるでバラバラに置かれた一本一本の糸を紡ぎ、一枚の布を仕上げつつあるかのように見えました。今日参加した小川さんも、過去のわだかまりから心中は色々複雑だったと思いますが、ピアノを好きだと言う気持ちはきっと皆さんと変らないと思います。小川さんも、皆さんと同じ一本の糸です。時間はかかるかもしれませんが、いつか皆さんの糸と繋がるまで、温かく見守ってあげてくださいね」


 そう言うと、友美恵はゆっくりと指を動かし、柔らかな音色を奏で始めた。


「今日は私が大好きな曲を、歌を交えながら演奏します。中島みゆきさんの『糸』です」


 一昨年の大晦日、ピアノがこのマンションから撤去されたあの日に博也が演奏してくれたこの曲を、友美恵はいつの日か自分で演奏したいと思っていた。そして今回の演奏会で、友美恵は迷うことなくこの曲を選んだ。


 「縦の糸はあなた 横の糸は私 織り成す糸は いつか誰かを 温めうるかもしれない」


 温かみのある音色に、友美恵は澄み切った高く伸びる歌声を乗せた。

 時にはこのピアノに語り掛けるように、そして時にはマンションの住民である観客達に語り掛けるように、友美恵は自分の抱いていた気持ちを歌に託した。


「さあ、最後は皆さんもご一緒に」


 友美恵は客席に呼び掛けると、誰かが歌いだし、さらに別な場所から別な誰かが歌いだし、歌に歌が重なって、やがて会場全体を見事なハーモニーが包み込んだ。


「縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に出会えることを 人は幸せと呼びます」


 演奏が終わると、場内からは一斉に歓声と拍手が起こり、友美恵は立ちあがって両手を振りながら拍手に応えていた。博也はその様子を見ながら、思わず目頭が熱くなった。これまでピアノを通して沢山の住民達と繋がってきたこと、ピアノ撤去を巡って住民達の間で板挟みになり、心を病んだこと、そして再び巡り合えたこと……すべてが走馬灯のように頭の中をよぎった。


「皆様、これにて演奏会の出演者全ての演奏が終わりました。夜も遅いので気を付けてお帰り下さいね」


 司会の恵理子が名残惜しそうにマイクでそう伝えたその時、ロビーの後方に座っていた客達が突然ざわめきだした。


「え? え? 皆さん、何で帰ろうとしないんですか? 一体何があったんですか?」


 恵理子が目を凝らすと、口元に手を当てて思わず叫び声を上げた。


「あ、あなたは……!」


 自動ドアが閉じたと同時に、何者かが靴音を響かせながら。徐々にピアノに向かって近づいていった。



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