第2話 もう一度、誰かのために

 処分場に捨てられるところを命拾いしたピアノは、博也の工房で丹念に修理された。錆びついた内部、がたついている鍵盤、そして目を凝らして良く見てみると、脚部に何度も蹴られたかのような跡が残っていた。

 誰かに頼まれた仕事でもないから、お金になるわけではない。でも、博也には長年ピアノ修理に携わってきた人間として、このまま放置できないという使命感があった。たとえお金にならなくても、このピアノを修理し、心からピアノを弾きたいと思う誰かのために役立ててあげたい、ゆくゆくはステージにあげてもらい、多くの人達にその音色を響かせてもらいたい。そう思うと、博也はあらゆる知識と技術を駆使して、このピアノを甦らそうと強く思った。

 必要な修理を全て施した後、博也はピアノの鍵盤に両手を当て、左から右へ流れるようにゆっくりと指を動かしていくと、工房の中に優しい音色が響き渡った。

 まるで、「僕の命を救ってくれてありがとう、僕の病を治してくれてありがとう」と言ってくれるかのように、優しく、たおやかに響く音色に、博也の瞳から自然と涙が溢れてきた。


「良かったな、治って。なかなか良い音色がでるな、お前は」


 そう言うと、博也はピアノの鍵盤を拭き取り、全体を軽く手でさすった。

 しかし、博也にとって、これで全てが解決したわけではなかった。次の課題は、このピアノをどこに置くかである。前の持ち主は、ピアノ教室を辞めてから長い間放置され、最後には邪魔者扱いされてしまった。今度も同じことを繰り返してはいけない。博也の自宅に持ち込んでも良かったのだが、今度引っ越した新しいマンションの部屋はそれほどの広さが無く、すでに長年愛用しているアップライトピアノが一台置いてあるので、空間的にもう一台入れる余裕はなかった。このピアノを長く丁寧に弾いてくれる新しい持ち主はいないだろうか? 博也は知り合いのピアノ教室の講師などに当たってみたが、なかなか引き取り手が見つからなかった。

 このまま工房に置きっぱなしで良いのだろうか? 博也の作業所も、決して広い場所ではない。何とかして、新しい持ち主を探そうと考えていた。


 夜も更け、外を歩く人の数も減り始めた頃、博也は自宅のマンションに戻った。

 マンションの場所は東京都心へ繋がる私鉄の駅から歩いて十分ほどの所にあり、二十階建てのいわゆるタワーマンションとしてサラリーマンなどに高い人気があった。

 いつものように博也はエレベーターに乗り込んだ。博也の後には、スーツを着込んだサラリーマン風の中年男性と大学生風の若い女性、セーラー服を着たポニーテールの女子中学生が乗り込んできた。


「こんばんは」


 博也は三人に挨拶した。以前住んでいたマンションでは、住民同士が挨拶を交わすのが普通だったので、このマンションに越してきてからも行き交う人に挨拶をしていた。

 しかし、誰一人として挨拶を返してくれなかった。

 途中の階で三人ともエレベーターを下車したものの、出る時に博也に肩をぶつけても謝ることもせず、そのまま出て行った。博也はあっけにとられていたが、全員何事もなかったかのように歩き去っていった。

 思い返せば、このマンションに来てから、誰一人として挨拶を返してくれなかった。

 ここではこれが普通のことなのかもしれない、過去にこのマンションで何か事件があって住民がお互い警戒心を持つようになり、挨拶することで怪しまれてしまったのかもしれない。

 色々想像してみたが、やはりどこか納得がいかなかった。


「ただいま」

「おかえり、今日も遅かったね」

「ごめん、今手掛けてる修理がなかなか終わらなくて」


 妻の友美恵ゆみえが出迎えてくれた。

 玄関には。引っ越しの挨拶のために買ったタオルセットが、紙袋に入ったまま置き去りになっていた。


「あれ? 引っ越し挨拶……まだ、全部配れていないの?」

「うん。挨拶に行っても誰も居ないのよね。会うことができても、郵便受けに入れといてとか、玄関前に置いて帰ってくれって」

「そうなんだ。みんな、俺たちに顔を合わせたくないのかな?」

「前に住んでたマンションなんて、挨拶に行ったら快く応じてくれたり、初めて会ったのに十分以上立ち話したこともあるのにね。ここは一体どうなってるのかしら?」


 友美恵はため息をつきながら、手持無沙汰のように紙袋を左右に揺らしていた。


「じゃあ、俺が行ってくる。いくら相手がそっけなくても、ちゃんと挨拶しとかないといけないし」


 博也は友美恵から紙袋を奪い取ると、ドアを開けて廊下へと歩き出した。

 外に出ると、隣の部屋の住人がちょうど帰宅したらしく、玄関の鍵を開けようとしていた。これはチャンスとばかりに、博也は紙袋からタオルセットを取り出し、十人に話しかけた。


「初めまして。このたび隣に引っ越してきた西岡といいます。今後ともよろしくお願いします」

「はあ」

「こちら、少ないですけど、挨拶代わりにお持ちしました。良かったら使ってください」

「どうも」


 それだけ言うと、住人は博也に礼を言うことも無く、まるで嫌がらせをするかのように思い切り入り口のドアを閉めた。

 博也はしばし呆然としたが、諦めることなく、その隣の部屋のドアを叩いた。

 すると、小学生くらいの小さな女の子が、ほんの少しだけドアを開けた。


「あ、ごめんね。西岡と言います。パパかママいるかな?引っ越ししてきたので、ごあいさつに来たんだ」

「はい」


 女の子はドアの隙間からしばらく怪訝そうな顔で博也を見ていたが、しばらくすると後ろを向き、大声で母親を玄関に呼びつけていた。すると、母親らしき若い女性が、女の子を脇に抱きかかえながら博也の方を見つめていた。


「あの、どちらさん?」

「この二軒隣に引っ越してきた、西岡といいます。これ、挨拶代わりにお持ちしました。よかったらお使いください」

「それはどうも。ところで、もう少し早い時間に来てもらえませんか?この子、不審者が来たと思って怖がってますよ」

「だって、うちの妻が日中ご挨拶に来たら、不在だったと……」

「とにかく、用件があればもう少し早い時間にね。それでは」


 そういうと、女性は勢いよくドアを閉め、間を置かずすぐ鍵を掛けた。マシンガンのように言葉を放つ女性に対し、博也は、言葉を返す時間も与えられなかった。


 家に戻った博也はやりきれない気持ちで紙袋を玄関に放り投げると、早足でアップライトピアノの置いてある部屋へと向かった。


「おかえり……あれ? どこに行くの? 夕飯はまだでしょ?」

「くそっ! 一体、このマンションはどうなってるんだ?」


 博也は拭いきれない不快な気持ちを晴らすかのように、鍵盤に指を思い切り叩きつけた。

 どうすれば、このマンションの住民たちと仲良くなれるのだろうか?閉ざされた彼らの気持ちを少しずつ開く方法はあるのだろうか?

 ピアノの鍵盤を動かす指に目を向けた博也は、その時、あるアイデアが湧いてきた。


「そうだ! この方法なら……あの子に活躍の場が与えられるかも!」


 友美恵は、ピアノを弾きながら突然叫び声をあげた博也の様子を不審に思い、傍からそっと覗き込むように見つめていた。


「ねえ、どうしたの? いきなり大声を出して」

「なあ友美恵、このマンションの管理人さんに明日会えるかな?」

「どういうこと?」

「ピアノだよ。このマンションにピアノを置かせてくれってお願いするんだよ」

「ピアノって、この部屋にあるピアノを?」

「違うよ! 俺が今、作業所で直しているピアノだよ」


 博也が奏でるピアノの曲調は、怒りの感情に任せた強く激しいものから、次第にワルツのように軽快なリズムへと変っていった。

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