第27話 一工場最強の男【名人藤岡】

 至福の昼食の時間が終わると、待ちに待った昼休憩の時間である。


 昼休憩は工場就業中に自由に話せる、数少ない時間の一つであり、受刑者達の最大の楽しみの一つなのである。


 受刑者達は、仲間と話したり、テレビを見たり官本かんぼん(刑務所から貸し出される本)を読んだり借りる手続きをしたりと、皆思い思いの休憩時間を謳歌おうかするのである。


 因みに今日、私は、将棋一工場最強の男、藤岡ふじおかさんと対局の約束をしている。


 私が藤岡さんの元へ行くと、既に将棋盤が用意されていた。


 『おつかれ、天月、それじゃあ早速始めますか』


 『ハイ、お願いします』


 42歳の良い歳をした大人である私は、恥ずかしながら、この工場へ来て藤岡さんに将棋を教えてもらうまでは、駒の動かし方すら分からないという始末であった。


 しかし、藤岡さんに、矢倉やぐら囲いや美濃みの囲い、穴熊あなぐま囲い等の戦術を教えてもらい、簡単な詰将棋つめしょうぎ(連続で王手を掛け続けて、指定された回数で王将を詰ますゲームの事)をいくつか教えてもらう内に、私は、将棋の面白さにドンドンのめり込んでいってしまった。


 今では昼休憩の度毎に、誰かを捕まえては対局する日々を送っている次第である。


 居飛車いびしゃ戦法をとる藤岡さんに対して、私は矢倉囲いを作る。


 一工場の将棋大会6連覇中(一工場の将棋大会は3ヶ月に一度の頻度で開催される)の藤岡さんは、私のレベルに合わせた将棋を指してくれる。


 適度に苦戦するレベルの、なんとも絶妙な塩梅あんばい


 一工場最強の名にふさわしい、まさに藤岡名人である。


 『天月、今日のリレー、良い走りだったな』


 『ありがとうございます』


 『横溝よこみぞさんは、もうすぐ釈班しゃくはん(釈放班の略。釈放の一週間前になると送られる)に行っちゃうから、体育祭どうなる事かと思ったけど、なんとか大丈夫そうだな、その頃には俺も全力で走れる様になってるだろうし、訓練工場にも勝てるかもしれない』


 将棋一工場最強の男藤岡さんは、二班の班長であり、他の立役同様、人並外れた運動能力の持ち主であるのだけれど、今は足を負傷しており、今日のリレー対決は大事を取って出場を見送ったのである。


 『訓練工場って、そんなに強いんですか』


 私は、この一工場とあとは今日リレー対決をした四工場の受刑者しか知らない。


 なので、圧倒的運動能力を有する立役集団に、K少年刑務所の英雄立花さん、そして中根さんや坂田さんのいる一工場のリレーメンバーが苦戦している姿を想像出来ない。


 『ああ、あそこには全国の刑務所から優秀な人材が集まる。それに、訓練を受けにくる受刑者は経理工場の奴らが殆どだからな、普段から立ち作業をしている。更に、訓練工場には立花さんと同等の走力を持つ大沼おおぬまっていう怪物もいるしな』


 400mリレーを46秒で走る立花さんと同等の走力を持つ受刑者がいるなんて、にわかには信じ難いが、それが本当であるのならば、確かに、立花さんがいるという事は訓練工場に対するアドバンテージにはならない。


 『でも、まぁ、結局は気持ちの問題なんだけどな』

 

 パチンと、攻め込んできた藤岡さんの飛車が竜王に成った。


 『それにさ、大観衆の前で走る体育祭のリレーは、普段地味な刑務作業をしてる受刑者には刺激が強すぎてアドレナリンがドバドバ出るからさ、肉体の限界なんて簡単に超えちまって、ハイになって記憶も定かじゃないっていう感じなんだ。だから、絶対に勝ってやるっていう強い気持ちが大事なんだよ』


 大観衆。


 確かに、この工場だけでも50人程の受刑者がいるのだから、経理工場も含めると10以上工場のあるこの刑務所の全ての受刑者が集まれば、その数は数百人に上るであろう。


 それは確かに刺激的だ。


 『ハイ、王手。因みにコレ、もう詰んでるよ』


 大観衆の目に晒されてグラウンドを走る自分の姿を想像していたら、あっという間に藤岡さんに詰まれてしまった。


 『あっ、本当ですね』


 『じゃあ、また、対局したくなったら声掛けてくれよ』


 『ハイ、また宜しくお願いします』


 一工場最強の男は、テレビに目を移し、ワイドショーに出演するアイドルに熱視線を送っている。


 将棋盤を片づけながら、私は、ベールに包まれた訓練工場の受刑者達を想像してみる。


 精鋭部隊。


 勝つか負けるか分からない戦いになるだろう。


 でも、どうせやるなら、そういう戦いの方が面白い。


 どちらにせよ、私はただ、自分の全てをグラウンドに置いていくだけである。


 『やめぇ〜』


 助勤のおやじの独特な声が食堂に響き渡り、受刑者達の昼休憩時間の終わりを告げた。

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