第22話 400mリレー対決

 400m×5リレー対決。

 第一工場の第一走者、中根さんが第四工場に圧倒的な差をつけて第二走者の浅野さんにバトンを渡すと、浅野さんは更にその差を広げて第三走者の坂田さんへとバトンを繋いだ。


 先程始まったばかりであるというのに、あっという間に私の出番がやってきてしまう。


 足がガクガクと震えて、手は汗でビチョビチョ。


 42歳にもなって、リレーの順番が回ってくる事に緊張を覚えるなんて。


 頭では平静を保とうとしているのに、体がどうしても言う事を聞かない。


 今になって思い返してみると、私はもう数十年、緊張等していないのではないであろうか?


 社会に出て、仕事をして、数千万円が動く様な大きなディールを何度もした。

 そして、仕事で成果を挙げる毎に立派な肩書きを与えられて、背負わされる責任もどんどん大きくなっていった。


 私は社会人として、会社に、そして社会に貢献しているのだという自負の念を抱きながら生きてきた。


 だけれど私には、社会人になってからの日々の中で、一度として緊張をしたという記憶が残っていない。


 それは当然だ。


 なぜならば、私は社会に出てからというもの、私の人生を1秒たりとも生きていなかったのであるから。


 自分の人生ではないのだから、緊張等を覚えよう道理がないではないか。


 会社や上司に操られ。


 国家や法律に支配され。


 イデオロギーに洗脳される。


 私は自らの事を人間であると勘違いして、その実、自分の意思など何一つ持ち合わせていない、ただの傀儡かいらいであったのだ。


 経営者に支配されるプロレタリア。

 哀れな奴隷として20年もの期間を志しも持たずに浪費した。


 何と虚しい人生であった事か。


 その虚しさに気がつく事なく、平然と日々を生きていた当時の私の心情を、もう今の私は思い出す事が出来ない。


 この国に生まれて、民主主義や資本主義といったイデオロギーに囲まれて、貨幣という名の神をあがめる貨幣経済という宗教の信者として、産業革命以来のこの世界のトレンドである所の大量生産・大量消費社会の中で思考停止しながら生きてきた。


 現実がどれ程つまらなかろうが、それが現実というものだからと納得して、自分の人生を放棄して、更にはその主導権を他者へ譲渡してしまう始末。


 当たり前や常識なんて、遠い昔のセンスの無い人間が作った面白くも無い嘘でしかないのに、そんな嘘の為に自分の人生を台無しにしてしまっていた。


 刑務所に入らなければ、私はあのまま、人生の意味等考えずに、当たり前や常識に踊らされて、全く面白くもない人生の果てで絶望しながら終わりを迎えていた事だろう。


 先人達が作った嘘に操られるだけの虚しい一生に【穏やかな日々】や【ありふれた時間】等と名前をつけて、適当につがいを見繕って、それを愛だ・幸せだと自分に言い聞かせて生きていく、そんなものを人生だ等と本気で信じていた私が、今、刑務所の中にある小さなグラウンドで、緊張に押し潰されそうになっているのだからざまは無い。


 心持ち一つで、人は、いつからでも、どんな状態からでも、本物の人生を獲得する事が出来るのだ。


 自分の人生を生きる事。

 自分の人生の主導権を握る事には、それ相応の痛みが伴う。


 同調圧力を重んじる、日本的宗教教育で洗脳されてきた日本人にとっては尚の事、その痛みの大きさたるや無間地獄むけんじごくの如しである。


 それでも、私は、私自身の人生を生きたいと思った。


 今を全力で生きる若者達の生き様が、私に本物の人生というものを教えてくれたのだ。


 誰かの為の命じゃない。


 自分の為の命なのだ。


 自分の命を全力で生きた者だけが、誰かを幸せにし得る人生を歩めるのだ。


 第一工場の第三者走者である坂田さんは、快速を飛ばして、もうグラウンドの3分の2を通過しようとしている。


 いよいよ私にバトンが回ってくる。


 戦うんだ。

 自分の恐怖と。


 戦うんだ。

 理不尽な現実と。


 戦うんだ。

 自分の人生を手に入れる為に。


 天月あまつきつかさ42歳の青春は、まだ始まったばかりなのである。


 


 

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