第52話 ビート板の天才
『何であの人、あんなに早いんだよ』
『ビート板でバタ足してるだけなのに、なんで深瀬さんについていけんだよ?まぁ~25mだけだけど』
どこからともなく受刑者達の騒めきが聞こえて来る。
その視線の先にはビート板を使い全力のバタ足で泳ぎまくる坂田さんがいた。
となりのレーンでクロールしている深瀬さんと同等の速度を出している坂田さんに今年初めて彼の泳ぎを目にした囚人達は驚嘆する。
『俺はビート板泳ぎでは最強なのよん♪』
軽口を叩きながらも、まったく速度を落とさない坂田さんはまさに水を得た魚だ。
なぜ、腕の推進力も使っている元国体選手の深瀬さんに根性のバタ足の坂田さんがならべるのか理解の外だが、しかし、それが今、私の目の前で起きている現実なのである。
『でも、坂田さんって去年2位だったんだろ?1位の奴って、一体どんな化け物だよ?』
『とんでもねぇバケモンに決まってんだろぁがぁ~‼俺のこの泳ぎを見ればわかるだろ?』
周りの囚人達のヤジに応じながらも相変わらずスピードの落ちない坂田さんの泳ぎ。
どうやらビート板を使用した坂田さんは、体力も無尽蔵になるらしい。
それにしても、上には上がいるものだ。
どんな事にも世界1はいるし、世界1もあっという間に入れ替わる。
単純な実力だけじゃない。
体調やメンタル、色々な条件がそろってようやく成し遂げられた偉業はもう一度再現するのは中々に難しい。
そう考えると、オリンピック3連覇やボクシングの絶対王者等はとんでもない生き物なのだなぁと、改めてその凄さに敬意の念を抱く。
『ビート板は坂田で決まりだな』
呟きの様に放たれた深瀬さんの言葉に。
『マジっすか?やっぱり俺しかいないっスよねビート板は?よしゃあぁぁぁ~‼やったぜぇ~。おいっツッキーとユウジ。お前らも続けよ』
イエーイと片手でピースサインをするやいなや、練習を続ける坂田さん。
普段はチャランポランに見えるが芯には熱いものを持っている。
坂田さんは、やはり私の尊敬する先輩である。
坂田さんは決めた。
そして、私の部屋の責任者、浅野さんもほぼ決まりだろう。
平泳ぎリレーメンバーを目指す者達の中で突出した実力を発揮する我らが浅野さん。
出来る人間は本当に何でも出来るものだなぁと改めて実感させられる。
そして、虎視眈々と立ち役を狙う国立大学出身の元官僚、熱いハートを持ったエリート受刑者 中根 京一。
かれも浅野さんに次ぐ実力を発揮しているので、平泳ぎリレーメンバー入りは間違いなさそうだ。
あと2枠。
私と裕二で何とかそこに入り込めないものか。
『
『お前、バタフライ泳げるのか?』
私に向かって発せられた裕二の言葉に深瀬さんが反応する。
『ハイ、個人的には泳ぎの中で一番得意です』
『よしっ。おいっ。ここのレーン空けろ。石田、見せてみろ。もちろん全力出し切れよ』
『わっかりました』
深瀬さんに敬礼するやいなや、裕二はスタートラインについた。
『それじゃあ運動制限、タイム頼む。石田、準備はいいか?』
『いつでもいいです』
『よし、それじゃあ、よーい、スタート』
スタートの合図と同時に裕二が素晴らしいスタートを切る。
ダイナミックなフォームの裕二のバタフライは私の想像の遥か上をいく速力を見せている。
裕二、君のバタフライはそんなに凄かったのか。
裕二が50mを泳ぎ終わると同時に運動制限がストップウォッチのボタンを押す。
『タイムは』
間髪入れずにタイムを確認する深瀬さんに、
『23秒15です』
『23秒…飛び込みなしでか?おい、石田、お前はなんで最初からバタフライに志願しなかったんだ?』
氷の様に冷たい深瀬さんの言葉に、
『へっ?23秒って速いんですか?俺、水泳部とかじゃないんで、タイムとかよく分からないんですけど』
『もう少しで、高校の国体記録レベルだよ』
あきれ顔でいう深瀬さん。
『へぇ~俺って何にも取り柄無いって思ってたけど、バタフライは高校の国体記録レベルなのかぁ~…っえ、高校の国体レベルって、俺、凄くないっすか天月さん?』
呆けた顔で問いかけてくる裕二に。
『あぁ、凄いと思うよ』
応えながらも私の心中は穏やかでは無い。
やれやれ、ボーダーラインすれすれは私だけか。
しょうがない、最善を尽くして、結果をだそう。
どうやら平泳ぎリレーメンバーに選ばれるという選択肢以外、私に選ぶ権利は無いらしい。
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