第28話 過ぎ去りし日の思ひ出

 『つかさ、今日の幼稚園はどうだった?』


 子供乗せ自転車をぐ母親が、後ろに座る男の子に尋ねる。


 『まぁ、いつも通りだったかなぁ。あっ、でも、将来なりたいモノについて皆んなで発表会をしたよ』


 そう言う男の子は、流れる景色を楽しそうに眺めている。


 『へぇ、そうなんだ。それで、司はなんて答えたの?』


 『知りたい?』


 流れる景色から目を逸らさぬままに言う男の子に、


 『うん、知りたいな。教えてよ』


 と、温かな優しさで包まれた柔らかい声音で母親が尋ねる。


 『でもさぁ、僕の発表、皆んなに笑われたんだよね。先生も、えっ?どう言う事?って困った顔してたしさ』


 『なになに?そんな事言われたら尚更聞きたくなっちゃうんだけど。勿体ぶらないで教えなさいよ。ほらほら、お母さんは笑ったりしないからさ』


 少し思案した後で、


 『お母さん』


 という単語を、男の子がぶっきらぼうな声で発した。


 『えっ、何?』


 『だから、お母さん』


 『うん。だから、何?』


 きょとんとした顔で自転車を漕ぐ母親に、


 『だから、僕が将来なりたいモノが、お母さんなの』


 ぶっきらぼうをこじらせた男の子が消え入りそうな声で答える。


 『フッ、フフフフッ、フフフッ、何それ?超ウケるんですけど』


 愉快気に体を震わせる母親に、


 『笑わないって言ったのに、嘘つき』


 男の子がねて、頬を膨らませる。


 『ゴメン、ゴメン。だって超ウケるんだもん。お母さんになりたいってどういう事?普通は仮面ライダーとかウルトラマンとか、プロ野球選手とか答えるのが相場じゃないの?』


 軽やかな声音で尋ねる母親に、


 『僕は、お母さんになりたいんだ』


 男の子が、相変わらずのぶっきらぼうな声で答える。


 『どうして?』


 『お母さんになったら、人を幸せに出来るから』


 鳩が豆鉄砲を食った様な顔をした後で、


 『それなら、ヒーローとかプロスポーツ選手の方が沢山の人を幸せに出来るんじゃないの?司がメジャーリーガーになろうものなら、もう、お母さん幸せ過ぎて死んじゃうかもよ』


 母親の投げかける疑問に、


 『確かに、ヒーローとかプロスポーツ選手は沢山の人を笑顔に出来るかもしれないけどさ、でも笑ってるからって、その人達が幸せとは限らないでしょう?本当に幸せかどうかなんて表情だけじゃ分からない』


 『そうかなぁ、笑ってる人は幸せなんじゃないの?それならお母さんだって、人を幸せに出来るか分からないじゃない』


 『分かるよ』


 先程までとは打って変わる力強い言葉で、男の子が答える。


 『あら、どうして?』


 『だって、自分の心は自分で分かるから。お母さんのおかげで僕は……。』


 突然目の前の世界が砂嵐で覆われる。


 目を閉じて、もう一度開いてみると、目の前には夜の静寂に包まれた雑居房が広がっていた。


 『なんだ、夢か……。』


 頬を伝う熱いモノの感覚に、42歳にもなって、私はマザーコンプレックスを拗らせているのかと、我ながら自分に呆れて笑ってしまった。


 あの人がこの世界を旅立った年齢を、もう一回りも上回っているというのに、未だに私は、あの人に全然届かない。


 『やっぱり僕は、お母さんになりたいよ』


 頬を伝う熱いモノを拭った後で、私はゆっくりと瞳を閉じた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る