らくちゃく

 静かで薄暗い地下の土の間で、長いような短い様な時間がいくらか過ぎる。虎丸も万兎羽も、取り立てて会話することもなく、大人しく座り込んでいた。仔犬は、飯を食い終わって満足したのか、虎丸の腕から抜け出すと、土の間をころころと歩き回っている。そんな仔犬を、落ちていた小さな板切れを投げてあやしながら、虎丸は思う。

 よくよく考えれば普通に疲れていた。虎丸は今朝、龍之進や蛇介と会話をしたくなくて、彼らが起きるよりずっと早く起きだして、おはぎの仕込みをした。眠るのは嫌いだから、早起きは苦ではないのだが、起き抜けに突貫で済ますには、おはぎ作りはなかなか重労働だ。炊いた米だったり、ずんだ餡の枝豆だったり、きなこ用の炒り大豆だったり、色々力を使って潰していく作業が多い。午前中は境内で息を潜めてぼんやりとしていただけだが、昼過ぎから山登りに、井戸から落下しての蛍退治だ。

 万兎羽だって、虎丸がぼんやりしていた午前中、何もせずにいた訳でもないだろう。

 虎丸はぽつりと呟く。

「……なんか、長い一日だったな」

 独り言のつもりだったが、意外にも万兎羽から返事があった。

「まだ終わってないけどね。時間的には、まだ暮れたばかりだろ」

「そうか。でも確かに、月がここからこんな風に見えるなら、まだ昇って来たばっかりか」

「丁度夕食時だね。今日はお祭りで、目新しいものでも食べれると思ったのに」

「俺も、祭りを巡りたかったな。母ちゃんが、昔、飴細工を買ってきてくれた。本当なら、買った時に、その場で切って作ってくれるんだって。……見たかったな」

「……まあ、月が間違ってなけりゃ、そう遅くなく先輩たちが来るよ。それから見に行けばいい」

「そうだな。腹も減ったし、何か美味い物が食いたい。温かいものが良いな。夏ももう遅いし、日が暮れると少し寒い」

 虎丸の言葉に、突然万兎羽が苦虫を噛み潰したような顔をする。

「なんだ? 何か悪いことでも言ったか?」

 取り立てて彼の気分を害するような話題ではなかったと思ったが、虎丸は恐る恐る尋ねる。万兎羽はしばらく躊躇った後、絞り出すように答えた。

「……これ以上、君に借りとか作りたくないんだけどさ」

「おう?」

「さっき、あのおはぎ、昼飯替わりって言ってなかった?」

「ああ、まあ、言ったかもしれねえな。境内で食べるつもりだったけど、忘れてた」

 虎丸の返事に、万兎羽が一層表情の渋みを増させる。

「……もしかして君、お昼食べてない?」

「え? ああ、そうだな。言われてみれば……っていうか、あれが残ってたんだから、当たり前に食ってない事になるよな。道理で腹が減るはずだ」

 その途端、万兎羽は頭を抱えて変わった唸り声をあげた。

「なんだ! どうした?」

「てことは、俺、君のお昼食べちゃったんじゃん!」

「え? ああ、そうなるか?」

「最悪だよ! 俺はお昼食べて来たの! なのに夕飯がまだだからって、お昼食べてない子の昼ご飯まで食べるなんて、めちゃくちゃ卑しいじゃん! 厚顔無恥も甚だしい! ていうか、君もそうならそうと言えよ!」

独特の恥じ入り方だが、彼はどうやら虎丸のおはぎを食べてしまったことに、罪悪感を抱いているらしい。虎丸はなんだか可笑しくなって、笑った。

「いや、俺だって忘れてたし、気が乗らないから食べてなかった訳で、そんな気にしなくてもいいぞ。それに、三つのうち二つはあいつが食ったんだから」

 虎丸が指示した先では、突然万兎羽が取り乱したことに驚いてか、仔犬が尻尾を伏せて彼に向かって唸っている。

「そちらと一緒にしないでよ……、祀られたもの全部召し上がって問題ない方とは、違うんだから……」

 そう言って万兎羽は肩を落とす。そう言えば彼は名前からして、なかなか上品な出自らしいし、食事にがっついた様なことが、虎丸の思う以上に恥ずかしいのかもしれない。

「じゃあ、さっきもちょっと言ったけど、お詫びに、今度うちの店に金を落としに来いよ。俺も、固くなったおはぎで腕を測られるのは、料理人としてちょっと悔しい」

 虎丸がそんなことを言った時、遠くから響くように、きんきんとしたよく通る声が聞こえた。何を言っているのかまでは、よく聞こえないが、虎丸にも万兎羽にも聞き覚えのある声だ。

 二人は立ち上がる。耳を澄ますと、段々と声は大きくなり、内容もはっきりしてくる。近づいてきているのだろう。

「万兎羽! 藤野虎丸! 居ないか!」

「鶴ちゃん先輩だ」

 万兎羽が呟く。

 鶴吉の声が大きくなるにつれ、他の声も聞こえてきた。

「虎ー! 居たら返事しろ!」

「蛇介? なんで鶴吉さんと……」

 虎丸は土の間の天井の穴の下に立つと、思いっきり息を吸い込んで声を張り上げた。

「蛇介! ここだ、本殿の下! 万兎羽も一緒だ!」

 その声は届いたようだが、しかし、蛇介の声は混乱していた。

「どっからか声がしたぞ、何処だ? おい、虎丸! 本殿の下ってどこだよ! まさか埋まってんじゃねえだろうな」

 なるほど、虎丸たちも外から見た時には、本殿の下にこんな穴と部屋があることには気づかなかった。端から見ると崩れた建物が壁になって、床に開いた穴の位置など分からないのだ。

「違う! 穴があるんだ。そこが入り口になってて、地下に部屋があるんだ! そこに居る」

「穴ぁ? どこだよ、声が響いてて、全然場所が分からねえ!」

 そう言われても、虎丸も部屋の中からでは、この穴が本殿のどの辺りに通じているのかは分からない。

 万兎羽が虎丸の隣に立つ。

「もう一回横穴を通って、井戸に出よう。向こうなら、外からでも分かり易い」

「ああ、そうか、そうだな……」

 虎丸が万兎羽の提案に頷き、もう一度蛇介に声を掛けようとした時だった。もう一つ別の声が言った。

「分からないことは無いだろう。響いたところで出所は一つだ」

 そして、その声から間を置かず、がらがらと盛大な音がし始めた。万兎羽が不安げに眉を顰める。

「何? まさか、建物が崩れ始めたの? ここに居たら本当に生き埋めになっちゃうよ。ちょっと虎君、さっさと井戸の方に……」

「いや、大丈夫。ここに居ろ」

「は?」

 その時、穴に被さっていた瓦礫が取り払われ、部屋に差し込む月明かりが一層明るくなる。

「ほら、居たぞ」

 そう言って穴から覗き込んだのは、龍之進だった。きっとさっきの大きな音は、彼が瓦礫を掘り返した音だ。それに続いて、蛇介もひょっこりと顔を出す。

「虎丸! 無事か? 登って来ねえってことは、どっか怪我でもしたのか?」

「いや、俺は平気だ。ただ、万兎羽が……」

 そこに少し遅れて、鶴吉と亀蔵の揃いの顔が二つ、穴から覗いた。

「万兎羽は片腕が悪いんだ。だからよじ登って来れないのだろう。亀蔵」

「はい。念のため縄を持ってきて正解でした。虎丸さん、今降ろしますので、少々お待ちいただけますか?」

「分かりました」

 虎丸は頷く。

 しかし、それを横から龍之進が遮る。

「縄などいらん。まだるっこしいからな。おい虎、少し脇に退け」

「ん? ああ」

 言われた通りに虎丸が散歩程後ろに下がると、龍之進が穴から飛び降りて来た。そして、重厚な岩が落ちた様な音を立てて、彼は四つ足で力強く着地する。そして立ち上がり、そのまま並んで立っていた虎丸と万兎羽を、それぞれひょいっと両肩に担ぎ上げた。

「え、ちょっと、何?」

 あまりにも淀みない動きで担ぎ挙げられた万兎羽が、戸惑う声を上げる。

「おい蛇介、そっちに飛び上がるから、場所を開けておけ」

「飛び上がる? 何言ってんの?」

「おう、分かった。白い方は落として来てもいいぞ」

 蛇介は心得たように頷いて、穴の枠から姿を消す。

「いや、次男さんまで何言ってんの? そこまで天井は高くないけど、人間の脚力での飛び上がれる高さじゃないでしょ?」

「あ、待て、龍之進。俺は自分で登れるから、俺の代わりにあっちを連れてってくれ。あいつは壁を登れない」

 一層混乱した様な万兎羽を置いて、虎丸は興味深げにこちらを見上げている仔犬を指さした。

「おお、なんだ、生きていたのか。良かったな、虎丸」

 龍之進は、そこで仔犬に気づいたのか、虎丸を肩から降ろしながらそう言った。

 虎丸は仔犬を抱き上げ、龍之進に手渡して微笑んだ。

「ああ、本当に良かった。こいつが生きてたのも嬉しいし……これで、蛇介と蟠りなく仲直りできるのも嬉しい」

「そうか」

 自分を置いてけぼりに進む状況に、いよいよ万兎羽が抗議の声を強めた。

「いや、全く意味が分からないんだけど、君この状況に疑問ないの? 鶴ちゃん先輩達も、この人たち放っておいて、さっさと縄を降ろしてよ!」

「大丈夫ですよ、万兎羽。龍之進さんはとても力持ちですから。ミケさんとお相撲をしても、押し負けません」

「亀ちゃん先輩まで、何言って……」

「口は閉じていた方が良い。舌は噛み切ると二度と生えてこないぞ」

 そういうや否や、龍之進は深く踏み込んで、ばねを効かせて跳ね上がる。器用に壁面を蹴って二段飛びし、次の瞬間には、彼は天井の穴から勢いよく飛び出して行った。残された虎丸からは、万兎羽がぽかんとした顔をしていたのがしっかりと見えていたので、思わず少し笑ってしまった。

 そして、虎丸が穴から這い上がる時には、蛇介が手を貸してくれた。とはいえ、彼は龍之進と真逆に非力なので、踏ん張りが効いておらず、反対に虎丸に引かれる力で穴に落ちかけ、結局龍之進に引き戻される形になった。

 穴から出ると、万兎羽が呆けた顔で座り込んでいた。そんな彼に、虎丸は悪戯心を起こして言った。

「な? 言ったろ?」

「……自慢のお兄さんな訳だよ」

 万兎羽が脱力したようにそう答えた。

 亀蔵が、境内を見渡してから、万兎羽に問いかける。

「万兎羽、蛍が全く見当たりませんが、どうなったのですか?」

「ああ、その件は、無事片付きました。もう大丈夫ですよ」

「そうですか、それは宜しゅうございましたが……。けれど、私たちにも相談して頂きたかったものですね」

「……はい、すみません」

 そこに、にっこりと外面の笑顔を浮かべて、蛇介が近づいて来た。

「蛍は解決ですか? それは良かった。どういう事だったのかは知りませんが、人を噛む蛍が退治されたなら安心です。市民の一人として、感謝しますね」

 そう言いながら彼は、座り込んでいる万兎羽に向かって手を伸ばした。万兎羽は少し訝しむ様な顔をしてから、その手を取って立ち上がる。すると蛇介は素早く彼の背後に回り込み、その肩に手をかけ、仁王立ちをしている龍之進の正面まで誘導する。万兎羽は警戒したような声を上げた。

「ちょっと、なんですか?」

 それには答えず、蛇介は綺麗な笑顔で龍之進に目配せをする。そして、次の瞬間、龍之進が大きく拳を振るった。拳に斬られた空が唸る。

「あっぶな!」

 目にも留まらぬ様な速さの突きだったが、意外にも万兎羽は軽快な横跳びで、辛くも難を逃れる。蛇介が舌打ちをする。

「ちっ、逃したか」

「いきなり何すんのさ!」

 しかし、いきり立つ万兎羽を無視して、蛇介は龍之進と念入りに彼を殴る算段を立て始める。

「おい、龍之進、もう一回だ。今度は俺が後ろから抑えとく」

「お前ごと吹っ飛ぶぞ、良いのか?」

「それは拙いな。どうするか……」

「ちょっと先輩! この人たちこんなこと言ってるよ! 警官に対して、堂々と暴行を企ててるよ!」

 万兎羽は鶴亀兄弟に助けを求める。しかし、肝腎の鶴亀兄弟は全く惚けた様に世間話を続ける。

「けれど兄様、龍之進さんは本当に力持ちでございましたね」

「ああ。しかし、折角持ってきた縄は無駄になったな」

「宜しゅうございます。私ときたら、細長いものはこんがらがらせてしまいますから」

「ああ、お前はブゥツの靴紐も苦手だものな」

「ちょっと先輩!」

 万兎羽に詰め寄られて、亀蔵は諭すように言った。

「万兎羽、観念なさい。蛇介さんと、貴方への一発はお約束しておりますから」

「亀ちゃん先輩、俺の知らない所で後輩売ったの?」

「売ったのではない、因果応報だ。市民をこんなことに巻き込んだお前の責任だ。大人しく受け入れろ」

 鶴吉も亀蔵に同調を示す。万兎羽が悲痛な声を上げた。

「鶴ちゃん先輩まで? 今の見たでしょ? あんなの喰らったら、俺死んじゃうよ!」

「なら、藤野蛇介に頼んだらどうだ?」

 鶴吉の容赦のない提案に、蛇介が真面目くさって応える。

「いえ、駄目ですね。俺の一発じゃ蚊に刺されたようなもんです。おとしま……お灸になりゃしない」

「今、落とし前って言おうとしなかった?」

「ならば仕方ないな。藤野龍之進が殴らなかろうと、その時は私が殴るまでだ」

「だったら、鶴ちゃん先輩に殴られたほうがましだよ」

「そうか、ならば、私からでも構わんだろうか?」

 鶴吉が蛇介たちに伺いを立てる。龍之進と蛇介は顔を見合わせてから答えた。

「俺は手加減が苦手だから構わんぞ。うっかり壊しても良くないだろうしな」

「まあ、龍之進の言うことも一理ある。このまま逃げ回られるくらいなら、鶴吉さんからお願いします。鶴吉さんなら、下手な手心は加えないだろうし」

 そう言って万兎羽が、きちんと鶴吉に拳骨を落とされ、亀蔵に滾々と説教をされて始めたのを見届けて、蛇介は虎丸に近づいた。彼は、状況についていけないのか、戸惑ったように仔犬を抱きかかえて、立ち尽くしていた。蛇介はそんな虎丸に、探る様に当たり障りのないことから話しかける。

「……しかし、お前はあの白髪頭に付き合って、わざわざこんな所で待ってたって言うのか? あんな奴放って置いて、お前だけでも帰ってくりゃよかったのに」

「そうは行かねえよ。一人で置いて行くのも危険だし。それに、こいつも居たから」

「ああ、生きてたんだな……」

 蛇介が盛ったのは、仔犬一匹仕留め損なう様な毒ではなかった筈だが、けれどこうしてこの犬が生きているのなら、どこかしらで抜かりがあったのだろう。しかし、今だけは自分の手落ちに感謝できる。

 蛇介はとりあえず場を繋ごうと、仔犬に手を伸ばしたが、たちまち全く可愛げのない凶暴な顔になって噛みつこうとしてきたため、慌てて手を引っ込める。

「うわ、急にどうしたんだ? どうどう……」

 明らかに蛇介に対して敵意がむき出しの仔犬を、虎丸が必死に宥める。

 蛇介はそんな虎丸から目を逸らして、考えてながら、しどろもどろに言った。

「あのな、俺は、飯が、たんと食えた方が良い、と、思ったんだ。家に金がある方が、安心だと、思ったんだ。その方が、お前にもいいと、お前が、幸せに暮らせるだろうと、思ったんだ」

 虎丸が、じっと自分の横顔に目を向けているのが分かったが、蛇介にはその顔を正面から見る勇気は無かった。

「俺の知ってる、幸せになる一番の方法は、金だったから。だから、お前を幸せにする方法も、同じだと思ったんだ。それが、間違ってるとは、今も思ってねえ。けど」

 蛇介は、行き場をなくした視線を龍之進に向けた。彼は相変わらず底知れない瞳で、二人を見つめていた。出会ったばかりは得体がしれないと思ったその目に、不思議と蛇介は勇気づけられる。彼は言葉を続けた。

「けど、間違ってないとか、正しいとか、それだけじゃ足りねえんだと。こういうのはこそばゆいが、ちゃんと言わせてもらう。俺は、俺なりに、藤野屋を居心地がいいと、思ってる。だから、居心地がいいままに、したかった。でも、俺のやり方が、お前を居心地悪くさせたなら……」

 そこで蛇介は、意を決して虎丸に向き直る。

「悪かった」

 虎丸は、思うよりも穏やかな顔をしていた。蛇介は、ほっと息を吐く。口の滑りが少し、調子を取り戻した。

「俺は、自分が何をとちったのか、まだきちんと分かっちゃいない。でも、お前を傷つけたかった訳じゃないから、身の振り方は改めてみる。そもそも俺は正しさに向こうを張る悪党なんだ。今更正しくたって、足りないから、他のことにも目を向けてみるよ」

「……そうか」

 虎丸は腕の中の仔犬を撫でながら、小さくそれだけ答えた。蛇介はその様を見て、言葉を付け足した。

「その犬が居た方が、お前が一層居心地よくここに居られるっているのなら、仕方ねえ。いつも通り、俺が折れるよ」

 虎丸はきょとんとして小首を傾げた。

「いつも通りってなんだよ」

「分かってねえなら、それで良いよ」

 蛇介は笑った。ミケを店に置いたことも、付喪神に温情を与えたことも、元はと言えば虎丸の意向なのに、彼は蛇介に強請った自覚は無いらしい。それでいい。虎丸は末弟役なのだから、細かく気を配っているより、無邪気に我儘でも言っている方が真に迫るだろう。

 蛇介は警官達に目をやる。そろそろ彼らに声をかけて、山を下りた方が良い。そう言えば、肝試しはどうなった? 月の傾きを見るに、急げば今からでも間に合うだろう。そんなことを考えている蛇介を、ふと虎丸が呼び止めた。

「なあ、蛇介」

「ん?」

「お前は謝ってくれたけど、俺は謝らない」

「ああ、別にいいよ。謝って欲しいとも思ってねえからな」

「けど、お礼は言っておく。ありがとうな」

 そう言って微笑む虎丸に、蛇介は面食らって言った。

「……なんだ? 礼を言われる筋合いがあるとも、思わねえが。ああ、迎えに来た事か?」

「さあな。なんでだか、考えてみろ」

 そう言って、虎丸は仔犬を抱えたまま山を下る道へ向かう。龍之進もその後ろに続く。蛇介は、龍之進に追いついて、こっそりと問いかけた。

「なあ、今のどういう意味だ? お前、分かるか?」

「何がだ? お前に分からんことが、俺に分かる訳が無いだろう」

「それもそうだな」

「おい、警官ども。行くぞ」

 龍之進は警官たちに声をかけて、そのまま道を下っていく。

 警官たちも、駆け足で彼らに追いついて来た。蛇介は、足を止めて彼らを待つ。そして、鶴吉が龍之進に追いついて「白いの、と呼ぶことは咎めんが、警官どもという呼び方は止めろ」と苦言を呈するのや、亀蔵が虎丸に万兎羽の粗相を謝罪しているのを見送って、最後尾を歩いて来た万兎羽に並ぶ。

 蛇介は彼の耳元に口を寄せると、他のものに聞こえないように囁きかけた。

「てめえの魂胆はお見通しなんだよ、このウスラトンカチ。何があったかは知らねえが、今回の蛍にかこつけて、あわよくばってつもりだっただろ。いいか、二度とうちの虎丸にちょっかい掛けんじゃねえぞ。てめえが夜道をのうのうとほっつき歩けるかどうかは、てめえの心がけ次第だからな」

 蛇介の言葉に、万兎羽は苦く笑って言った。

「脅し方が堅気じゃないなあ。まあ、安心してよ。少なくとも暫くは、力業に出る気は無いよ」

「そうか。なら、その暫くがてめえの余命だ。よくよく考えて振舞えよ」

 そう言って、蛇介は先を行く虎丸たちに追いつこうと、小走りで山道を駆け降りる。

 そうして一人残された万兎羽は、癖で洋袴の隠しに入れていた右手を持ち上げる。

 彼は微かに震える中指と薬指を揃えて、その指先を親指の腹につける。子指と人差し指は真っすぐ立てる。狐を象る手遊びだ。けれど、長い耳が立った動物なら、この指の呼び名は狐ではなく兎であるべきだと思いながら、万兎羽は合わせた指の間にできた隙間から景色を覗き込む。そして、先を行く五人の中にもひときわ目立つ、金の髪に焦点を合わせた。

 万兎羽は胡乱に笑って、ひっそりと呟いた。

「この土地では、土着の妖怪に合わせて独自の変容を遂げているけど、本来真神は善悪を見抜く神。その分霊に『血が香る』って評されてるのはどういう事だろう。大神が嗅ぎつけた血の匂い……けれど、結局罰するでもなく、あの店に住まうことは了承された。それに、あの髪……言葉の上では同じ金と言ったって、同じ色とは限らない」

 そこまで呟いて、万兎羽は腕を降ろす。そして、再び右手を隠しに突っ込む。

「……んー、まあいいか。とりあえず、保留」

 その時、亀蔵ののんびりとした声が彼を呼んだ。

「万兎羽、どうかしましたか? 早くいらっしゃい」

「はあい、今行きます」

 そうして万兎羽は歩き出す。

 五人が立ち止まって、彼を待っている。その群れに追いついて、万兎羽は虎丸を見る。仔犬は太々しくその腕の中で目を細めている。その犬を指さして、万兎羽は言った。

「名前、早く決めて差し上げなね。呼び止める名前は、絶対に無くちゃならない」

 虎丸は、少しぽかんとしてから、頷いた。

「ああ、もう決めてる」

「おお、決まったのか? 何豆だ? 枝豆か?」

「俺は金時豆が良いな。金って言う字が良い」

「なんだ、豆縛りなのか? ならば、大豆でいいだろう」

「きな粉の材料ですね。けれど、小豆も可愛らしゅうございます」

 龍之進と蛇介、鶴吉と亀蔵が思い思いに言う。その視線を集めて、虎丸は得意げに言った。

「一狼にする。ろう、は狼って字を当てるんだ」

「豆が関係ない!」

 龍之進が声を上げる。そんな彼に、虎丸は笑って言った。

「黒豆と、こいつは別だから」

「ああ、そうか」

 謎の豆連呼に、鶴吉と亀蔵だけが、仲良く揃って首を傾げていた。

「ふうん、一狼かあ。いいじゃねえか。簡素だが凝ってる。ところで虎丸」

 蛇介が、いやに猫なで声で虎丸に擦り寄る。

「なんだよ」

「次狼は飼わねえぞ」

「……」

「はいって言え!」

「まあ、名前も決まったんなら、それでいいよ」

 虎丸と蛇介の掛け合いを笑い飛ばして、万兎羽は気だるげに言った。

「神官共の企みは計画倒れ、晩夏の怪蛍は穴の底。真神のご神体も見つかって、御霊も無事に街へとお移りくださる。これで来年は蛍の心配は無いし、今年の蛍も暫く残るかもだけど直に居なくなる。蛍に噛まれた人も、養生してれば良くなるよ。生きてさえいりゃ、齧られた精気は次第に恢復する。仔犬の行く宛てもできて、名前も決まり。御方自ら、お帰りになる場所と定められた。あとはまあ、なんだか知らないけど、兄弟げんかも治まったようで。これにて蛍の一件は落着だよ」

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