もくげき

 今朝から何度連発されたか分からないその言葉に、その場の全員がふと顔を上げた。一拍呆けた後に、やれ何事かと顔を見合わせる。そんな遅々とした反応の中で、一人だけが俊敏に判断の舵を切っていた。

 がたがたと台所から飛び出してきた権太は、茫然としている人々を押しのけて店内を横切ると、表へ飛び出した。そして、騒ぎの源を探すようにきょろきょろと首を振り回し、次の瞬間には町の方向へと走り出した。

「おい、待てよ、権太さん!」

 少し遅れて彼と同じように台所から出て来た虎丸が、その後を追って行った。

 彼らが戸口から完全に見えなくって、やっと何人かが事態を飲み込み、がたがたと席を立ち、何が起こっているのか確認しようとする様に入口へ押し寄せた。

「ちょっ、店を出るなら先に会計済ませてください!」

 その動きに蛇介が慌てて叫ぶ。客たちは、ああ、悪い悪いと気もそぞろな返事と共に、会計台にぞんざいな仕草で銭を投げる。それを片っ端から受け止め数えながら、蛇介は戸口で我関せずと突っ立っている龍之進に怒鳴った。

「龍! 虎を追っかけろ! 俺も後から行く!」

「ん? ああ、わかった!」

 軽快な返事と共に、龍之進も走り去って行った。会計を終えた客たちも一人二人と彼に続いて行く。

 蛇介は一気に閑静になった店内で、銭勘定を終えると、金銭を手早く纏めて懐に突っ込んだ。そして、店に残った僅かばかりの客に会釈をして、先発にかなり遅れて店を飛び出した。団子状態で出て行った客たちは、もうとっくに姿が見えなくなっている。

 藤野屋は街並みから少し外れているものの、街道を少し走ればすぐにでも店の立ち並ぶ所に出る。事件が起こった場所は分からないが、あの叫び声が随分はっきり聞こえたことから、かなり近場だろう。それに加え、立ち並ぶ店から、何人かが顔を出して一様に同じ方向を向いて居る。蛇介は駆け足で人の見つめる方を目指して行った。

 その半ばで蛇介は、えっちらおっちらと進んでいる龍之進に追い付いた。

「……何してる?」

「見ての通り、虎丸たちを追いかけているぞ」

「お前、だいぶ前に出てったよな?」

「そうだな」

「他の奴らはどうした? 一緒に出ってった客たちは」

「全員に抜かれた」

「この短距離でか? ……一応聞くが、お前は走ってるつもりなのか、それで」

「見ての通りだとも」

 力強く頷いた龍之進に、蛇介は大きく息を吸って叫んだ。

「この鈍間!」

「端的に酷いな、いきなりなんだ」

「いや、悪い、口が滑った。うっかり本音が」

「何も取り繕えていないな。前に言っただろう、走るのは苦手だと。歩いた方が速いくらいだ」

「なら歩け。いや、聞いたような気もするが、ここまで深刻だとは思わなかった」

「地面が柔らかくていかん、足が沈む。ほら見ろ、足跡が抉れてしま、ぬ」

ばきっと言う音と共に、龍之進の低い背がさらに低くなる。

「今度は何だ」

「渡し板を踏み割ったようだ。溝に嵌った」

 側溝にすっぽりと嵌って立ち尽くす龍之進に、蛇介は深く深くため息をついて言った。

「あとは俺がやるから、帰って足洗って店番してろ、お前」

 お前が追えと言い出したんだろうと憤慨する龍之進を説得し、泥まみれで店に入らないことをよく言って聞かせ、彼を送り帰すと、蛇介は再び走り出した。

 しばらく走ると、やがて人垣に囲まれている一つの店が見えて来る。

 蛇介の長身では、彼らを搔き分けずとも、その中心で何が起こっているのかが凡そ窺えた。店の戸が大きく破損しており、店員らしき者の中には怪我をしている者もいて介抱を受けているようだった。しかし、人だかりの中にも外にも、権太の巨体や虎丸の金髪は見当たらない。

「あの、すみません、金髪で傷だらけの男か、俺くらいの背丈でがたいの良い男を見ませんでしたか?」

 蛇介が一番手近な女性に尋ねかけると、彼女は大きく頷いて言った。

「ああ、それなら、大きい男の人の方が店員さんの一人に何か詰め寄ったと思ったら、すぐに二人とも向こうに走って行ったよ。凄い見た目だったから覚えてる」

「ありがとうございます」

 蛇介は指し示された方へ再び走り出した。

 しかし、いくら走っても特徴的な二人の姿は見つからない。さらに、進めば進むほど店や家々が増え、街路の枝分かれも複雑になっていくもので、人探しはより困難になっていく。

 また誰かを捕まえて目撃談でも辿るべきかと、蛇介が歩調を緩めた時、近くの細い路地裏から誰かが飛び出してきた。

 その人影は蛇介に衝突すると、すみません、と蚊の鳴くような声で適当な謝罪を述べ、蛇介の返事も待たずに、すぐにばたばた走り出して行く。この暑い夏に、頭から被る様に、大きな布で上半身を包んでいた。日除けにしたって暑そうだと思いつつ、蛇介はぼんやりとその背を見送った。

「蛇介!」

 その時、つんざくような声が、たった今人影が飛び出してきた細道の奥から。蛇介を呼んだ。低くしゃがれたその声にも、その後に続く悲痛な声にも、よく聞き覚えがあった。

「やめろ権太さん! 走るな、手当てしなきゃ、止まれ!」

「権太さんに、虎か、そこに居んのか……って、うわあ!」

 蛇介がそちらに足を向けるのとほぼ同時に、路地裏から飛び出してきた権太と顔を突き合わせる。しかし、その様相に、思わず蛇介は後ずさった。しかなるかな、ふらつくように現れた権太の顔は血塗れだったのだ。

「蛇介……!」

「虎?」

 やや下方から声が聞こえると視線を下に向ければ、権太の腰にしがみつくようにしている虎丸が目に入った。彼は蛇介を見て、ほっとしたような顔になって、何かを言おうとしたが、それを遮るように権太が声を荒げた。

「蛇介っ、今出てった奴を追え! あいつが食い逃げ犯だ!」

 そう言って権太は、ついさっき人影が走り去っていった方を指さす。ほとんど叫ぶような大声が周りにも聞こえたのか、人目が彼の指に沿ってを一斉にそっちを向くが、すでに人影は見えなくなっていた。

「蛇介、頼む、でも無理はすんな。権太さん後はこいつに任せて、手当を……」

 やっと発言を許された虎丸が、矢継ぎ早にそう言って、権太の袖を引く。手負いの彼を、とりあえず座らせたいのか、腕を引くように体重をかけているが、体格差故に権太はびくともしていない。権太は、今だけは立ち止っているが、猛牛の様な雰囲気で、目をぎらつかせていた。

 いろいろと聞きたいことがあったが、彼の様子を見るに、今ここで彼を焦らすのは得策ではない。ここで余計なことを言えば、彼は蛇介を押しのけて虎丸を振り払い、走り出すだろう。恐らく以前に追った怪我が開いたのだろうが、着物を汚すほどに流血した状態で、運動を続けさせるのはまずい。彼にここで立ち止まってもらうために、自分が言うべき台詞はこうだと、蛇介は力強く断言した。

「分かった、足の速さには自信がある、あんたはここで待っててくれ」

 蛇介は身を翻し、大きく息を吸う。

 そして軽やかに地を蹴った。

無駄のない滑らかな加速で、気づいた時には一陣の風だけを残して、蛇介は走り去っていた。

 集まっていた人たちは、彼が消えて言った方向をぽかんと見つめていた。

 そのあまりの速さに、安心したのか腰が抜けたのか、権太はずるずると座り込んだ。

「本当に速いんだな……」

「すいません、誰か! きれいな水と布を、それから包帯をください!」

 権太は呟き、虎丸は叫んだ。


 多少虎丸たちと会話はしたものの、見失うほど絶望的な時間差じゃない。

 蛇介は例の人影を目指して、全力で走っていく。

往来には人が思い思いに不規則に動く障害物となっており、単純に真っ直ぐ走って行く訳にはいかない。

 けれど、人混みこそ蛇介の独壇場だ。詐欺師時代の蛇介の舞台は街だ。開けた野山でもなければ、人目を忍んだ辻でもない。蛇介が逃げ足を磨いたのは、こんな街中だった。

 人の隙間を縫って、最短距離で最速で走る蛇介に、人にぶつかりながらおたおたと逃げていく様な奴が逃げ切れる訳がない。直ぐに件の人影が見えて来た。

 街中をそれだけの速度で走って行く蛇介が目立たない訳がない。辺りの人が、蛇介に気付いて目を向ける。そんな周囲の動きに、食い逃げ犯も背後を振り向いた。

 そして、たったさっき己が衝突した人間が、豪速で迫って来るのに、怯えた様な驚いた様な仕草で、慌てて手近な家屋の間に飛び込んだ。複雑に枝別れし、物陰も多い細道に逃げ込めば、追跡を躱せると判断したのだろう。思えば、権太に追われた時も同じ戦法を取ったのだろう。

 しかし、甘いと蛇介は内心ほくそ笑んだ。そして、見事な身の熟しで方向転換を決め、食い逃げを追う。蛇介程、逃げ方に精通した追っ手はいない。

 そうして、蛇介の自信通り、ほんの暫くの内に、食い逃げ犯の悪あがきの様な追いかけっこは終わった。

「捕まえたぞ、いい加減諦めろ!」

 そう言って蛇介は遂に、その覆面の端を掴んだ。

 しかし、そこで蛇介は重大な失念に気付いた。

 蛇介の走法はあくまでも逃げ足である。本来追いかけるための技術ではない。

 追っ手と逃げ手の決定的な差は、捕り物の技術を要するかどうか、もっと言えば、武力の差だ。そして蛇介は、武力や暴力なんて言うのは、この世で最も自分から遠いものだと確信している。

 韋駄天と駆けっこをしても勝てる自信と同じくらい、喧嘩なら赤ん坊相手にだって負ける自信がある蛇介である。まして相手は、巨漢の権太の頭を割り、店先を半壊させる猛者だ。

 権太の気を宥めるためにも、安請け合いでも判断は正しかっただろう。けれどその後を決定的に間違えた。蛇介が取るべき正しい判断は、追いかけて、適度なところで見切りをつけて、引き返すことだった。

 得意分野で調子に乗ってしまっていた。らしくもない、と反省するころには蛇介は宙を舞っていた。

 何が起こったのかはとんと分からない。相手が振り返ったのを辛うじて捉えた時には、蛇介の視界は横転していた。そして気付けば空中だ。恐らく放り投げられたのだろう。しかし蛇介だって、細身ではあっても上背の分だけ身も骨もあり、体重がある。それをひょいとぶん投げられたなんて、にわかに信じがたかった。

 状況を飲み込み切れないまま、蛇介は地面に叩きつけられた。そして、走り去っていく足を視界の端で見つめながら意識を落した。


 次に目を覚ました時、蛇介は人に囲まれていた。路地裏で伸びている大男が、しかもついさっきまで街中を爆走していた奴が、興味と心配を引かない訳がない。大丈夫ですか、と知らない人間が恐る恐る話しかけてくる。

「ええ……平気です」

 こわごわと指先を動かすようにして、怪我の有無や体の状態を確かめながら、蛇介は答える。思ったより痛くない。いや、痛いは痛いが、精々打ち身程度で、体が動かなくなる様な深刻な負傷はしていない。どうやら条件反射で受け身を取っていたらしい。経験とは真に何者にも勝る財産である。

 そうして、辺りの人の好意に甘えて手当をされつつ、充分に体を休めてから、日が傾くころに蛇介は藤野屋に帰った。

 びっこを引きながら帰ってきた彼を見て、虎丸はとても切なそうな顔で「無茶はするなって言った……」と言いながら、その足の小指を踏み抜いてきた。手負いの身に一切の容赦がない。

 謝る間を全く与えない姿勢は、悲しんでいるような顔に反して、龍之進に鍋を投げつけた時の様な、強い怒りと叱責を感じさせた。蛇介は、鋭い痛みに悶絶しながら、絞り出すように謝罪と反省の言葉を述べた。虎丸は、ふいっと顔を背けて、さっさと台所に引っ込んでしまった。

 店内に入ると客は居らず、権太だけが巨体を丸めるように意気消沈していた。正直、食い逃げを逃したことを、責め立てられることも予想していた蛇介としては拍子抜けだった。

「あいつ、どうしたんだ?」

「ん? ああ、さっき帰ってきてから、虎丸に滾々と説教されて、ああなった」

「ああ、なるほど……」

 龍之進の説明に、蛇介は深く納得した。

 流石に虎丸も、怪我をした客人相手に、足の指を踏みつけたり、鍋を投げつけたりはしなかっただろうが、自分の静止を無視して危険行為に走った彼には、それはもう熾烈に極まる説教をくれたのだろう。蛇介には一発激痛をくれたが、それと同等の熱量を言葉にされたか行動にされたの差だ。

 蛇介は彼に歩み寄り、話しかけた。

「あの、権太さん、申し訳ありませんが、食い逃げは捕まえられませんでした」

「……そうか」

 権太は、落ち込んでいるにしても拍子抜けするほど、簡単にそう言った。そして暫く黙った後、言葉を選ぶように言った。

「悪かったな、巻き込んで。さっき虎丸に怒られた」

「はあ……」

 はて、虎丸は面倒ごとに巻き込まれて怒るような質だったか? と蛇介は内心首を傾げた。そんな奴なら、朝絡まれた時点で憤慨してるように思う。けれど、その疑問はすぐに退けられた。

「俺に何かあったら、母ちゃんがどれだけ悲しむと思ってんだって言われたよ」

「ああ、そういう」

「母ちゃんのために食い逃げを追いかけるのは良いけど、それで怪我したら本末転倒だって。我が身を大事にできないなら、そんなのは独り善がりの親不孝だから、大人しく家に帰って引っ込んでろって」

「あはは、それは弟が失礼を……」

「ああ、いや、失礼とかじゃなくて、うん、ちょっと頭が冷えた。なんか、俺、母ちゃんを安心させたくて、食い逃げを捕まえようと思ってたつもりだったけど、実際は怒りでいっぱいになってたんだな」

 そして権太は、本日初めての笑顔を見せた。苦笑と言うような表情ではあったが、彼らしい調子だった。

「警察の真似事は辞めるよ。虎丸の言う通り、家に引っ込んでることにする。食い逃げを追いかけるなんて危険なことはやるべきじゃないし、他にやることがあるよな」

「そうですね、それが良いと思います。こちらが大人しくしていても、あんな派手な犯行をしている奴は、遠からず捕まりますよ」

「そうだな。……しかし、あんな怖い弟がいると大変だろ」

「まあ、怒りの着火点が未だに見えないですしね……心配してくれてるのかと思ったら、思ったより怒ってたりしますし……」

 兄弟というのは全くの虚言で、実際にはようやく一年越えたか越えないか程度の関係なのだが、それでも分かりにくい奴だというのは分かりやすいと、蛇介は思った。龍之進についてはまだまだ未知だが、少なくとも洒落にならない位、足が遅いというのは今日判明した。

 そんなことを話していると、虎丸がやっと台所から出て来た。また怒られるのかと、権太が縮み上がったが、虎丸は二人の前にそっと盆を置いただけだった。その上には、ほかほかと湯気の立つ茶碗が四つ載っている。二人がそろって顔を上げると、虎丸は顎で台所を指して言った。

「飯にしようぜ。権太さんも賄い替わりに食べてけよ」

 食事の匂いに、龍之進が色めき立つ。

「飯か! 今日の品目はなんだ!」

「簡単に魚の焼いたのと、漬物。あと、田楽豆腐に、貝のお吸い物。運ぶの手伝ってくれ」

「ああ!」

 台所に駆けてく龍之進を見て、蛇介と権太も立ち上がった。

 煽る結果にしかならないだろうから、もとから言うつもりはなかったが、権太が手を引くというなら、言わない理由が余計に増えた。そして、蛇介は問い詰められた時どう誤魔化すか、という計画の全てを忘れることにした。

 権太と虎丸が追いかけた時には、しっかりと巻かれていた食い逃げ犯の覆面を、引っぺがすことに成功していた事実について。

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