ちょうしゅ
次の朝、蛇介は珍しく三人の内で、一番遅くに目を覚ました。
大抵は、仕込みだ何だと、虎丸が空も白まぬ内から起き出し、それから暫くしてまだ朝も早い時分に、金銭勘定のために蛇介が起き出し、最後まで龍之進が悠長に寝ているのが常だ。昨日の朝の様に、特別朝市に食料調達に行く時などは、揃って起き出すこともあるが、その時も大体起きる順番は変わらない。虎丸に起こされた蛇介が龍之進を起こす。
ちなみに布団の並びは、部屋の入り口に近い方から、蛇介、虎丸、龍之進の順番だ。最初は、起きる順番に合わせて虎丸と蛇介が逆だったのだが、神経質な蛇介が龍之進のいびきや寝相に耐えかねて、虎丸に頼み込んで場所を代わってもらったのだ。
そんな訳でその日に限って、蛇介が目を覚まして横を見ると、布団と寝間着が二組、丁寧にたたまれた虎丸の物と、ごっちゃり纏められた龍之進の物が並んで見えた。
二人が居ないという事は、起きて身支度を済ませ、蛇介の横を通り過ぎて行った後だという事だ。龍之進などは、跨いで行った可能性さえある。
蛇介はだいぶ眠りが浅い方なので、いつもなら大抵虎丸が起き出す頃には、その音や気配でぼんやり寝ぼけている。だというのに今日は、何かと粗雑な龍之進が起き出して、自分を跨いで行ったかもしれないことにすら、ちっとも気付かなかった。それだけ、昨日の追いかけっこと怪我が響いて、ぐっすり寝ていたという事なのだろう。
蛇介はのろのろと起き出し、寝ぐせの付いた頭を掻きながら大欠伸をした。窓から外を見れば、日が高くなり始めている。開店時刻が近い。億劫な気分を振り払うようにして、服を着替え始めた。
丁度その時、階下から馬鹿でかい声が上がった。
「蛇介! 起きているか、起きろ! 客が来たぞ!」
びりびりと轟く大声は、龍之進だ。なんだか知らないがうんざりとした気分になりつつ、蛇介は溜息を吐いて身嗜みを整え階下に降りた。
「客ってなんだよ、朝っぱらから……」
ぶつくさと呟いていると、台所の暖簾の隙間から、虎丸が顔を出した。
「それが……警察の人らしいんだ」
「!」
虎丸の一言で、蛇介は脳みそが一気に覚めた。緊張に指先まで引き締まる。
「大丈夫かな」
虎丸が不安そうに言う。叩けば、どす黒い埃が山と零れる身の上の三人だ。それも仕方がない。けれど蛇介は暫く考えて、軽く笑った。
「大丈夫だよ。俺らの縄張りはずっと遠くだったし、この辺じゃ噂にもなってねえ。それよりは大方、昨日の騒ぎの話だろ」
言いながら戸口を見ると、丁度龍之進が誰かを連れて入って来るのが見えた。
「とりあえず、あいつ一人に応対させてたら、要らんぼろが出そうだ。行ってくる」
「おう……」
そうして入って来たのは、厳しい顔立ちの青年だった。腰に差した木刀も、珍しい洋装の制服も威圧感がある。気に食わねえな、と思うのは、純粋な印象以上に、後ろ暗さが色眼鏡をさらに曇らせているのもあるだろう。
「いらっしゃいませ、えっと、当店にどのような御用で……」
「あ、違う違う、店にじゃなくて、お前に用があるらしい」
外面の微笑みで応対した蛇介に、龍之進が首を振る。
「私個人に……という事でしょうか?」
「ああ、私は最近騒ぎになっている食い逃げを追っている者だ。昨日、御前が街で食い逃げを追いかけていたという証言があり、話を伺いたく参上致した。お時間はあられるか」
警官が口を開く。よく通るが、若干癇に障る様なきんきんとした響きのある声だった。
「ええ、大丈夫ですよ。りゅ……兄さん、お茶をお願いします」
「にい? ……ああ、そうか、分かった! 任せろ、俺は完璧な茶の入れ方を会得したぞ!」
体よく龍之進を追い払おうとした蛇介に、警官が口を挟んだ。
「ならば厚かましい様で申し訳ないが、二つ頼めるだろうか。直にもう一人来る」
「もう一人?」
「あの愚図の足でも、そろそろ追いつくだろう」
「はあ……」
愚図とはずいぶんな言い草だが、何がやって来るのだろうと思いつつ、蛇介は警官を奥の席に誘導した。
「それでは……もうお伺いかもしれませんが、私はこの店の次男で藤野蛇介と申します。そちらは?」
「岡谷鶴吉と申す。見ての通り、この街で警官をしている」
「よろしくお願いいたします。えっと、昨日の食い逃げの話、でしたか?」
「ああ。食い逃げ被害者で、御前と共に犯人を追いかけていたという網代権太には、先ほど話を聞いてきた。朝市に居合わせたもの証言もいくつか集めているため、昨朝の騒動については伺っている」
「なるほど。では、私は何処から話せば……」
「そうだな、一応、店を出たところから聞きたい。網代権太の証言と併せて、多角的に考えたいからな」
「分かりました、それでは……」
蛇介が口を開こうとしたその時、酷くのんびりとした声が割り行って来た。
「お邪魔いたします、藤野屋さんはここですか?」
顔を上げると、戸口に立っている男が見えた。その男の顔を見て、蛇介は目を見張る。
「ああ、居らっしゃいました。先に行ってしまわれたので焦……」
「遅いぞ、全く」
「申し訳ありま……」
「ええい、鈍い。良いから早くこっちに来い」
「はい」
ゆっくりとした口調を鶴吉に何度も遮られながら、ゆっくりとした動作で店内を横切り、委縮したようにその隣に座る男。彼は、木刀の携帯以外は鶴吉と全く同じ服装をしていて、そして、彼と全く同じ顔をしていた。
鏡写しの様な瓜二つ。違いと言うなら辛うじて表情に、不機嫌そうに引き締まっている鶴吉と、ぼんやりとして漠たる表情の後から来た男、という違いがある位だ。
唖然と二人を見比べる蛇介の視線に気付いてか、ばつが悪そうな顔で鶴吉は言った。
「……弟の亀蔵だ。私と同じく警官をしている」
「よろしくお願いいたします」
鶴吉の紹介を受けて、亀蔵は緩慢な動作で頭を下げた。
「双子、ですか……。あ、すみません、とてもよく似ていらっしゃるので、思わず……」
「まあな。しかしこの通り、喋るのも鈍ければ歩くのも鈍い。聞き漏らしや聞き間違いを防ぐために二人で来たが、聞き取りは主に私が行うので、あまり気にされるな」
「はあ……えっと」
「茶を持って来たぞ! ぬ! 警官が増えている、分裂したのか!」
「するか! ややこしい時に来んな!」
盆に茶を持って来た龍之進が、鶴吉と亀蔵を見て目を丸くする。軽く説明をして、再び何とか台所に追いやると、やっと話が再開できた。
「それでは、店を出たところから話を」
「はい、えっと、まず食い逃げだ、という叫び声が聞こえてきて、それに反応して権太さんが……」
昨日のことを思い出すようにして、蛇介は語る。
「そして、捕まえたと思ったのですが、撃退されてしまい、不甲斐ない事にそのまま気を失ってしまって、奴が逃げて行った方向などは、まるっきり分かりません」
「なるほど。良ければ、弟御の話を伺うことは出来るだろうか。網代権太と犯人を追いかけていた時のことを知りたい」
「え……。ああ、分かりました。聞いてみますが……その、弟は容姿を酷く気にしていて……」
「ああ、聞き及んでいる。辻斬り被害にあって、酷い傷痕が残ったとか、髪が変色してしまったとか。私たちは気にしないので、是非」
「……分かりました。ただ、あいつが嫌がったら、あの台所の暖簾越しでも、よろしいでしょうか」
「ああ」
そう言って蛇介は二人を大部屋に残して台所に入ると、虎丸に尋ねた。
「って言う様な訳なんだが、どうだ、虎」
「構わねえよ、どうせ知られてんなら。ただ、向こうがどう思うかだな。こんなもんを見せて、気味悪がらせちゃ悪い」
「それは気にすんな。向こうが気にしないって言ってんだ。それでどんな気分になろうと、向こうの責任だ」
「しかし、なぜお前らの話は聞きたがるのに、俺の話は聞こうとしないんだ、奴らは」
「要らねえだろ、街の入り口まで行って、溝に嵌って帰って来た証言なんて」
「むむ」
不服そうな龍之進を無視して、蛇介は大部屋の方を指して虎に言った。
「まあ、良いってんなら頼むわ。安心しろ、俺が立ち会うし、嫌な態度でも取られたら、美味く言い包めて追い返してやるよ」
「おう、ありがとな」
そう言って蛇介たちは大部屋に戻る。
「お待たせしました。こちらが、うちの末弟の藤野虎丸です」
蛇介に促されて、虎丸は軽く頭を下げる。
その容姿を見て、鶴吉は僅かに目元を引き攣らせ、何とか平静を保つ努力をするように、ぎこちない会釈を返した。対して亀蔵は、驚くほどに反射的な反応の一つもなく、虎丸を見てゆっくりと言った。
「わあ、綺麗な黄金色。淡く光っているの、素敵ですね」
唐突に褒められて、虎丸は照れたような戸惑うような具合で、頭を搔いた。
「え、あ、そ、それは、その、ありがとう、ございます……? でも、確かにこの髪、金みたいな色はしてますけど、くすんでるし……、光ってなんかいないと思いますけど……」
「ああ、えっと、そうかもしれません。でも、綺麗だと言うのは本当で……」
「無駄話は良いだろう、亀蔵。虎丸殿、ご協力感謝する。早速だが、話を聞いてよろしいか」
鶴吉に諫められて、亀蔵は口を閉ざす。蛇介もそれを見て、やや慌てて、虎丸を席につかせた。
「じゃ、虎、頼むぜ。家を出た当たりから」
「おう、えっと、あの時はまず、権太さんが急に飛び出して行ったから追いかけて……」
ぽつぽつと、虎丸が語るのを、鶴吉たちはじっと聞いていた。
「それで、権太さんが、見たことがある覆面がいるって言って、路地裏に駆けこんで……確かに、でかい布で首から上を隠してる奴がいて、権太さんがそいつを捕まえようとしたら、権太さんが、えっと、多分殴られたんだと思うけど、すげえ、ぶっ飛んで……えっと、信じてもらえないかもなんですけど、本当に、あんなでかい権太さんが、軽く宙に浮くくらいで……」
「あ、それは本当です。私も犯人に投げ飛ばされたみたいで。この通り私も、かなり上背はある方ですが、実際に空に放り投げられました」
虎丸が自信なさげに語調を弱めるのを、支援するように蛇介も重ねて言った。鶴吉は神妙に頷いた。
「そうか……ならば、犯人は相当な怪力だな」
「それで、後は追いついてきた蛇介に追いかけるのを任せて、権太さんを手当てして、うちに連れて帰りました」
「なるほど……犯人の特徴など、何か覚えていないか? 背はどのくらいだったかとか、着物や覆面に特徴は無かったかとか」
「えっと、俺が見た限りでは、印象的には少し小柄だった気がするけど……でも、権太さんと並べば、皆小さく見えるし……。着物も、地味な渋い色の、有り触れた型だったし……、覆面も、何処にでも売っていそうな唐草文様の布地だったみたいで、これと言って……」
「ふむ、そうか。いやしかし、怪力と言うと、咄嗟に大柄な男だと思いがちだが、小柄というのは有益な情報かもしれん」
「あの、いいですか」
虎丸の話を聞いて考えこんだ鶴吉に、蛇介が小さく挙手をして言った。
「実は私、奴を捕まえた時、相手の覆面を掴んでいたみたいで、投げ飛ばされた瞬間、布を剥ぎ取ったんです」
「何んだと! なぜ早く言わない! 顔を見たのか! どんな顔だった!」
鶴吉が声を荒げる。きーんと鋭く声が反響した。勢い余って立ち上がった彼の手元で、大きく揺れた湯呑を、そっと亀蔵が抑えた。
「いえ、ご期待に沿えず申し訳ないのですが、空を舞いながらの一瞬で、そのまま地面に打ち付けられて気を失ってしまったので、真面に見れたとは言えないのですが……」
「前置きは良い、だから何だ!」
「あ、はい。一瞬見えた輪郭などからの推測ですが、食い逃げ犯は女かもしれません」
「女だと?」
亀蔵がやや眉を顰めながら、腰を下ろした。そこで虎丸が蛇介に言った。
「でも蛇介、お前や権太さんを軽く投げ飛ばすような奴だぜ。そりゃ、力持ちな女の人はいるし、決めつけは良くない……けど、あんま想像はつかねえ」
それもそうだ、どうなんだ、と問うような鶴吉の視線も受けながら、蛇介は虎丸の言葉に頷く。
「ああ、まあな、それはその通りだ。やっぱり筋肉の付きやすさとか、骨の頑丈さは、性差の傾向ある」
そして鶴吉と亀蔵に向き直って、語調を正す。
「しかし、私は食い逃げ犯とぶつかった時、声も少しだけ聞いています。その時は何とも思わなかったのですが、今考えると随分高い声でした。勿論、高い声の男もいるし、正体を隠すために女装してた可能性もあります。ただ、男と絞って探してしまうのは早計かと、及ばずながら」
「なるほどな……ああ、痛み入る。とても参考になった」
鶴吉は暫く考え込むようにしてから、そう言って、亀蔵の手から湯呑を受け取ると、茶を飲み干した。そして席を立つ。
「ご協力感謝する、忝い。今日はこれで失礼する。開店前から失礼したな」
そう言って、鶴吉はさっさと店を出て行った。その姿を見送って、思い出したように蛇介は椅子を蹴った。
「やべえ、開店時間! 虎、店開ける準備は!?」
「一応食事の仕込みは大体できてる。少し残ってるけど……」
「分かった、俺は急いでここの掃除終わらせるから、お前は龍之進に玄関前の掃除と暖簾の支度をするように言って、食事の準備に戻れ!」
そう采配して、虎丸を台所に押し込むと、蛇介は箒と布巾を取り出して、大部屋の掃除を始める。
「兄弟仲が、宜しいんですね」
そのとき、すっかり意識の外に追いやっていた亀蔵が口を開いた。ずっと声を潜めていたのもあって、彼も鶴吉の後を追って出て行ったような気になっていた。
「うおっ、あ、亀蔵さん、居らっしゃったんですね」
「すみません、折角のお茶、まだ飲めてなくて……お邪魔でしょうか?」
「いえいえ、構いませんよ! ごゆっくり!」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きますね」
「ええ、どうぞどうぞ」
せかせかと床をはく手は止めないままに、蛇介は亀蔵を観察した。焦れる位の緩慢な仕草と喋り方。言葉の一言、音の一音の間に、並よりも大きく行間が空く。それに今も、湯呑を口まで運ぶ仕草が尋常でなくゆっくりで、とても自分と流れている時間が同じとは思えない。
「弟さん、虎丸君、辻斬り被害にあっただなんて、さぞお辛い思いをなさったのでしょうね。犯人はお縄になっているのですか?」
「……いえ、弟の体が回復してから、忌々しいことを思い出さない様に引っ越したので、その後のことは知らないんです」
自分たちの過去を探る気か? と、警戒の度合いを高めながら、そんなことはお首にも出さずに、蛇介は僅かに消沈した声色を演出した。しかし、弟の言葉を遮る鶴吉を酷いとも思ったものだが、こうしていると確かに、先を急かしたくなるのも分かる鈍さだ。
「そうですか。でも虎丸君、良い子ですね。そんな酷い目に遭ったのに、捻くれたりしなくて」
「そうですね、兄としても誇らしいですよ」
実際には、虎丸は斬られる側より斬る側だったらしいのだが、しかし、あの傷跡のことは蛇介も詳しく知らない。
「素敵な御兄弟関係で、羨ましい限りです。あ、そうでした、網代権太さんから、言伝を預かっていたんです、彼に。『ちゃんと謝ってなかった気がするから、ごめん。今度うちの店にも遊びに来てくれ』だそうです」
「あはは、ありがとうございます。きっと喜びますよ、伝えておきますね」
「それと、実は私、朝ご飯が未だなのですが、開店したら注文させて頂いても宜しいでしょうか」
「ええ、それはもちろん。こちらとしても、有難い限りです」
亀蔵はぼんやりと微笑んだ。
「蛇介! 玄関の掃除と暖簾は万全だ! 開店できるぞ!」
「ああ、こっちも終わった。じゃあ、亀蔵さん、すぐにお品書きを持ってきますね」
「ええ、よろしくお願いします」
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