しょうめい

 朝が充分白んだとはいえ、まだ早い頃合いからがやがやと活気に溢れた藤野屋に、何事かと人が人を呼ぶ。興味本位で集まった人の群れは思い思いで、もはや井戸端会議の会場になっているところもあれば、何やら酒やつまみを持ち込んでいる者もいる。藤野屋はすっかり宴会場のような有様だ。

 そんな中、蛇介はあっちこっちと応対に走り回り、龍之進はご婦人方に捕まっていた。

「あら、このお茶いつもより美味しくないわ」

「ああ、虎が今料理をしているから、茶は俺が淹れた」

「どうやって淹れたの?」

「ん? どうと言われても、普通に虎がやっている様に、煮えた湯を注いだぞ」

「店長さんもしかして、沸いたお湯すぐに直接入れた?」

「ああ! もちろんだ」

「あらー、じゃあそこね。お茶は煮えてすぐのお湯入れちゃ駄目なのよ。いったん湯呑に移すとかして、少し冷ましたくらいの方がいい味になるのよ」

「あと、茶葉の量も入れ過ぎじゃないかしら。お湯の量と茶葉の量があってないと、美味しくなくなるのよ」

「む……、いやしかし、間違って茶を全部流した蛇介よりかは、許されて然るべきではないか?」

「ま! あの会計さん、そんなことしちゃったの? あんな美形で何でもそつなく熟しそうなのに……人は見かけに拠らないわね」

「あいつは料理とかそういうのは、からっきしだ」

「意外だわ。でもちょっと不器用でも、それはそれで……」

「あ、お茶無くなったわ。店長さん、おかわり頂戴」

「なんと、あれだけ文句を付けておいて、舌の根も乾かぬうちに」

「次は上手に淹れられるかしらね」

 龍之進は不服そうな顔をしながらも台所に向かう。その入り口には、また一塊の人混みができていた。中には、龍之進の知り合いや藤野屋の客も何人かいる。

「あれが龍之進の弟か。覆面姿は時々見たけど、顔見るのは初めてだ」

「へー、本当に変な髪色してるなあ。絵に出てる鬼とか天狗みたい」

「いや、それよりあの傷よ。可哀そうに。辻斬りに遭ったって、よく生きてられたものね」

「でもちょっと気持ち悪いな。ていうか、痛々しい? 見てるだけで背筋がぞわぞわして来るよ」

 龍之進は、その人の壁を押しのける。

「うお、龍之進」

「集るな集るな、通行の邪魔だ。それから、虎は見世物じゃない、散れ散れ」

 そうして台所に入ると、たった一枚の暖簾越しに一気に大部屋の騒めきは遠ざかり、ことことと土鍋の煮える音が穏やかに響いている。

 そこには、二人の男がいるだけだ。手際よく魚を捌いている虎丸と、それを睨むように監視している権太だ。はじめは龍之進と蛇介を見張るはずだった彼だが、思ったよりも人が増え、二人を同時に見ているのが難しくなったため、単純に虎丸を監視する運びになった。

「なんだよ、龍之進。こいつに何か吹き込みにでも来たか」

「俺が虎に助言できるような事があるとすれば、気に障る奴のぶん殴り方くらいだな。茶の催促をされたから、淹れに来たんだ」

 言いながら龍之進は急須に茶葉を盛る。それを見て権太が慌てて声を上げた。

「おいおいこらこら、なんでそんないっぺんに入れるんだ。ていうか、茶葉の前にお湯の量を見なきゃ駄目だろ」

「お湯の量?」

「……はあ、何人分必要だ?」

「五、いや六か」

「じゃあまず湯呑にお湯張って、冷ましつつ適量はかるだろ? 入れ過ぎだ、お湯は湯呑の八分目位!」

「なんだ、細かいな。ざっくりで良いだろう」

「ばか、こういう一手間一手間が味を決めるんだよ。おい虎丸とか言ったか、お前、兄貴の教育どうなってるんだ。茶屋の店主がこの体たらくでどうする」

「耳が痛い限りだ。でも、龍之進は毒物を混ぜたり、食器を割らなくなっただけ成長なんだ。少し前まで、『茶』が何かも分かってなかったし」

「全く、茶や食器を大事にしないなんて……毒物?」

「気にすんな、解決した話だから」

「おい権太、もうこれは注いでいいのか」

「駄目だ、もうちょい蒸らすんだよ」

「でもあれだな、権太さんは流石お母さんのお店を手伝ってるだけあって、こういうの詳しいんだな。助かるよ、龍之進がこれで淹れ方を覚えてくれたら」

「……煽てたって絆されないからな」

「ああ、分かってる。そろそろ出来るから、あんたも食べるだろ。この時間じゃ、朝飯とか未だだよな」

「……」


「あら、店長さん、凄い上手に淹れられたじゃない。美味しいわ」

「そうだろう、そうだろう」

「誰の入れ知恵かしら」

「権ちゃんか、三男君か、どっちかが確実に一枚嚙んでるわね」

「何故ばれる」

「真心のこもり方が違うのよ。店長さんのは心の雑さが滲み出てるのよね、一朝一夕で改善できるとは思えないわ」

「不名誉な」

 龍之進が婦人たちと話していると、お盆に山盛りの握り飯や味噌汁を乗せた権太と虎丸が台所から出て来た。ざわざわと燥いでいた者も多少静かになり、二人の通る道を開けた。

「あれ、こんなに居たか? あるだけ盛ったけど、これ、椀足りるかな……」

 大部屋の中央の机に盆を置いて、辺りを見渡した虎丸は、いつの間にか想定以上に増えている人数に困惑したように言った。

 彼の戸惑いも尤もで、騒ぎに惹かれて事のあらましも知らない野次馬が、知らない間にずいぶんと増えている。近くにいる人間が虎丸に話しかける。

「え、何々、何か足りないの? 食いっぱぐれる?」

「えっと、いや、飯は十分作ったから、多分足りるけど、食器が……」

「食器だって! 家近い奴、自分の持って来てやれよ!」

「おー、わかった!」

 そう言ってすぐに何人かが店を飛び出して行った。それを見て、龍之進は首を傾げる。

「もはや虎丸の汚名返上の催しだという事は、忘れられてないか」

「まあ、辛気臭いより良いだろ。あいつも、雰囲気に流されて怒りが収まって来たみたいだし」

 蛇介はそう言って、虎丸の横で配膳の手伝いをしている権太の方を盗み見た。もともと、彼にも自分の言い分が破綻していることは分かっていたのだろう。それでも、抜いてしまった矛を収めるには、それなりの時間と理由が必要だったのだ。

 そして権太は机に並んだ料理を見て言った。

「それで、お前が作ったのは握り飯だったのか、味噌汁だったのか?」

「いや、これは単に、あれだけじゃ味気ないかと思って。あと、皆腹が減ってるだろうとも」

「じゃあ、結局『あれ』って何なんだ」

「これ……」

 そう言って虎丸は小さな皿を机に置いた。大葉の上に、細かく刻まれて粘ったすり身が乗っている。

「青魚と薬味と調味料をいっぺんに、粘りが出るまで叩いた奴。なんだっけ、名前は忘れたけど……教えてくれたのは漁師の人だったから、権太さんの方が詳しいかもしれねえ」

「ああ、なめろうか!」

 権太が納得したように手を打った。

「そう、それだ、なめろう。魚は鯵と他にもいくつか適当に使ってる。それに、あの日は確か紫蘇と生姜と葱入れて、あと、合うと思って隠し味に青柚子絞った」

「そうそう、これこれ!」

 話していると、此度の催しの発案者である食通の夫人が嬉しそうな声と共に、進み出て来た。

「もう一回食べたかったのよねえ、美味しかったのよ」

「さては、あなた、それが目的で……」

「いっただきまーす!」

 蛇介の呆れたような呟きを聞いてか聞かずか、掻き消すように、夫人は大きな挨拶と共に手を合わせた。そして箸先になめろうを掬い取り、口に運ぶ。

 彼女がそれを咀嚼し嚥下するまでを、自然と誰もが固唾を飲んで見守った。ややあって彼女は口元を抑え、綻ぶように笑った。

「んん! 美味しいわ、味付けも前と同じねえ! これは三男君に軍配ね!」

 夫人の判定に、龍之進と蛇介は権太を見て、権太は虎丸を見た。そして権太は気まずげに目を逸らしながら言い淀んだ。

「えっと、その……」

 虎丸はそんな彼に少し笑って、小皿を掲げて見せた。

「あんたも食うだろ? 台所にあるの、運ぶの手伝ってくれよ」

 そう言って台所に戻っていく虎丸の背を、もの言いたげに逡巡した後、権太は追った。それを見て、龍之進は不服気に言った。

「謝らんのか、奴は」

「反省はしてるだろ。まあ、俺はこういう時『ざまあみろ、泣いて悔やんで恥をかけ』と思う質だが、虎はそういう感じでもねえしな。これで手打ちってことなんじゃないか」

「釈然とせん」

 しかし、はじめはぶすくれていた龍之進も、飯を食い始めると途端にご機嫌になる。そのまま客たちは大半が管を巻き、どうせならと他の料理を注文したり、井戸端会議にもつれ込んだりと忙しい。

「お代はきっかり頂くとして、なめろうは大体どのくらいが妥当な値だと思う?」

 蛇介は台所を動きまわる虎丸に尋ねながら算盤を弾いていく。

「そうだな……、魚を普通に買ったらちょっと値が張るかもだけど、今回は市の人が安くいっぱい売ってくれたからな。そんな高くなくても良いんじゃないか」

「なるほど……、今後商品として売っていくとしたらどうだ?」

「ん、そもそも品目自体、おかずって言うよりは付け合わせに近いし。それに叩いて潰しちまうから、材料も新鮮でさえあれば、見た目が多少悪かったり小さかったりしても平気だし、手ごろな値段にしてやれよ」

「ふむ、分かった、ありがとう。よし、なら、これ位が適当かな。んじゃ、俺は帰る客の相手して来っから」

「おう」

 そうして蛇介が台所を出ようとした丁度その時、入れ違いに権太が入って来る。

「おい虎丸、火薬ご飯ときゅうりの浅漬け頼まれたぞ」

「分かった。あと、さっき頼まれたつみれ汁そこにあるから、運んでくれ」

「ああ、これか」

「……というか、何故権太さんはうちの手伝いをしていらっしゃるのですか?」

「母ちゃんは店休んでるし、怪我してるから海にも出られねえし、暇なんだよ」

「あの、うちには兄弟以外に従業員を雇う余裕はありませんよ」

「金とかはいらねえよ。その、なんだ、やりたくてやってる事だから迷惑じゃなきゃ、やらせてくれ」

「はあ、まあ、こちらとしても、人手が増えるのは有り難い限りですが……」

 そう言う蛇介はいつも通りの完璧な外面をしていたが、その顔には『ただ働きなんて正気か?』とありありと書いてあるようにも見えた。そんな彼に虎丸は苦笑する。

 そうして、思いがけないいざこざから流れ込んできた客を、臨時で無給の店員と共に捌きながら、藤野屋はやがて昼を迎えた。気づけば朝焼けはとっくに去り、かんかんに照る太陽と、もくもくと嵩増す入道雲が、夏空を青く染め上げていて、淡く小粋な風鈴の音は、藤野屋の軒下では賑やかな話し声に掻き消されている。

 突然舞い込む面倒ごとも、適度な非日常も、しかし過ぎ去ったのだと、誰もが思っていた。

 しかし、正午を少し過ぎた刻、誰もが心を弛緩させていた街に、突然怒声とも悲鳴とも取れる様な、大きな声が轟いた。

「く、食い逃げだああ!」

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